涙色の春に

藤璃

涙色の春に

 一弥先輩。

今年も、桜の花が咲きました。

貴方を見送ってから、三度目の春です。

あの日交わした約束は、守られる保証こそない不確かなものだけれど。

それでも私の希望で、何よりも望んだ言葉だったんです。

見上げた春の空は澄んでいて、なのに何故だか滲んで見えました。


 私は、江戸のまちはずれの反物屋に産まれた。名前は、悠。

全国を回る剣術師範の父が家にいる間だけ、そのもとで剣術を習っていた。

機織りよりも外で走り回ることを好むお転婆な私は、すぐに剣術に夢中になった。

 あるとき父は、一人の青年を連れて帰ってきた。それが、一弥先輩だった。

道中出会い、弟子入りしたという彼は私より二つくらい年上で、いつも明るく笑っている快活な人だった。特別な美少年というわけではないけれど、優しい目をしたその人を、私はすぐに好きになった。この時はまだ、単純な憧れだったのだと思う。

 先輩との出会いから半年の月日が経ち、だんだん彼に惹かれていく自分がいた。

ともに過ごす満ち足りた時間の中で、少しずつ憧憬が恋慕に変わっていった。

その実力に、剣術に向き合う姿に、そして、その人柄に。

朗らかな表情が嘘のような、稽古中の真剣な眼差しに、何度胸が高鳴ったことか。

何でも受け止めてくれる暖かな笑顔に、どれだけ心が安らいだことか。

気がついた時には一弥先輩その人の全てに、特別な感情を抱いていた。

 しかし同時に、この想いが報われることはないということも分かっていた。

私自身も、私の思慕を察した先輩も。だから何も言わなかったし、言えなかった。

いつ戦が起こってもおかしくない、不安定な世の中。明日をも知れぬ、弱肉強食の

時代。特に近頃は、天下まであと一歩に迫った武将同士の潰し合いともいえる大きな戦が勃発するのではないかという暗い噂がそこかしこで立っていた。

恋をして未来を望むには、あまりにも残酷な世界だったのだ。

 たった一度だけ、先輩の想いに触れたことがある。

私の手に自分の手を重ねて、明後日の方向を向いたまま小さな声で、愛してると。

家の隣にある桜の木の下で、色づき始めた蕾を眺めながら。

その時にはお互い、分かっていたのだろう。

ずっと一緒にはいられない。ふたりの時間はもう、長くはない。

それでも今この瞬間を幸せだと感じて涙を流すことくらいは、許されるだろうか。


 「なあ、悠。」

桜の木の幹を背に、先輩が口を開いた。

「何ですか?」

私は何気ない声を返す。

「俺、戦に出ることにした。」

大名家の使者が、先輩のもとに訪れているのは知っていた。これから始まる豊臣との戦に向け、優秀な剣士になった先輩を、味方に引き入れようとしているらしい。

誇らしく、思うべきなのだろう。ともに剣術に励んできた先輩の実力が、世間に

認められたということなのだから。

いつかこんな日が来ることを、知っていた。覚悟していたつもりだったけれど、

心に溢れたのは硝子が割れるような衝撃と絶望、そして恐怖だった。

「そうですか。」

平静を装って絞り出したその声は、情けないほど震えていて。

自分の脆さを思い知る。失う覚悟も、独りになる覚悟もできない自分の弱さを。

「だから、あの、」

「ご武運を、お祈りしていますね。」

それでも先輩の言葉を遮ったのはせめてもの意地だった。

ちらりと見えた先輩の顔は、私以上に泣きそうで、悲しげで。

笑って送り出してあげなければと、必死に嘘をついた。

いかないでと叫ぶ私の心を抑えつけて、普段通りの声で精一杯。

ああ、それなのに。

こらえきれなかった涙が一筋、頬を伝った。

 その時、いつもよりも小さな声が落とされた。

「約束する。」

滲んだ視界に差し出されたのは、傷だらけの小指。

努力の跡が残るその指は、私に不確かな未来を誓った。

「必ず、帰ってくるから、その時は、」

ふたりでまた、桜を眺めよう。一緒に生きよう。

必ずという言葉が意味を為さないことを、知っている。

この約束が守られる保証はないと、分かっている。

ああ、なんて悲しくて残酷で儚い希望なのだろう。

愛している、約束がある、それで生き残れるほど、この世界は優しくないのだ。

言ってはいけない言葉だったし、信じてはいけない言葉だった。

 それでも、諦め切れなくて。

私は自分の小指を先輩のそれにそっと絡めて、泣きながら微笑んだ。 

「待って、ますね。」

だから、私の隣に戻ってきてください。

なんて、素直な言葉は言えなかったけれど。


 先輩が発つ朝、桜の木の下で私は彼を見送った。

春先の空気は冷たくて、桜の蕾もまだ閉じたまま。

「先輩、」

一つだけ、お願いがあるんです。後輩の最後の我が儘、きいてください。

「生きて、帰ってきてください、」

私の、隣に。

足枷になるだけだと、困らせるだけだと分かっているけれど。

零れた心の声を、なかったことにする術など知らなくて。

先輩は少し目を見開いて、柔らかく笑んだ。

「ああ、じゃあ、行ってくる。」

だから、待ってて。

そんな声が聞こえた気がして、涙がこみ上げた。

愛してます、待ってます、ずっと、ずっと。

遠くなっていく背中に小さな声で呟いて、ゆっくりと桜を見上げる。

滲んだ視界に一つの綻んだ蕾を見つけ、そっと祈った。

願わくば、また貴方とこの桜を眺める日がくることを。

ああ、どうかご無事で。


 先輩を見送ってから月日はとぶように流れて、今年もまた、春が来た。

少しずつ開き始めた桜の蕾を見ては静かに泣く、涙の季節ももう三度目。

決着のつかないまま三年の間、繰り返された大戦がようやく終結し。

戦ばかりで荒れた世の中も落ち着きを見せ、平和な時代がやってきたばかりの頃。

使者が、先輩の“最後の手紙”を持って訪れた。

「もしも、もしも俺が戻らなかったら、これを悠に。」

そう言い残して戦場に出て行った先輩は、未だに行方が分からないという。

ならばこの手紙は、いわゆる遺書、というものなのだろうか。

嫌だ、信じたくない、受け入れたくない。

―先輩が、死んだ、なんて。

まるで幼いこどもが駄々をこねるように、私は現実を否定した。

震える手で、封筒を開く。

『拝啓 悠様

これを読んでいる時、俺はもうこの世に…なんて湿っぽいのはらしくないよな。

謝らなきゃいけないことが、たくさんある。

心配かけてごめんな。悲しませてごめんな。

約束、守れなくてごめんな。

こんな時代だからって、何度も諦めようとしたけれど。

それでも、やっぱり、お前と一緒に生きたかったよ。

悠、愛してる。

いつの日かまた逢えたならその時は、今度こそ二人で桜を眺めよう。

いつも、お前の幸せを願っているよ。     敬具 一弥』

 ねえ、先輩。

愛し愛されることの幸せを教えてくれたのは貴方です。

私がずっと一緒に生きたいと望んだのは貴方です。

どんなに平和な時代になっても隣に貴方がいないのなら、意味なんてないんです。

悲しいことばかりの残酷な時代でも貴方がいたから、私は幸せだったんです。

お願い、いかないで。

 どこかで生きていてくれればと願っていた。そして私の隣に戻ってきて、なんて口には出せない想いを抱え続けた。いつかは訪れる別れという現実から目を逸らして、それを乗り越える覚悟もできないまま。

先の見えない世の中でも、確かに愛していたから。

独りきりの世界を生きていく強さを持っていなかった私は、もうどこにも存在しなくなった愛しい温もりを探して、ただ泣くことしかできなかった。


 母を手伝い店の仕事に精を出すあわただしい生活の中でも、身を切るような喪失感は薄まらなくて。一日、また一日と何気ない日々を繰り返す度、先輩はもういないのだと思い知って泣きながら夜を明かした。

寂しい、会いたい。

とめどなく溢れるような愛しさは日に日に募っていく。

 失って初めて気づくこともあるなんて、皮肉な言葉だ。

失くしてからでは、遅いのに。

私がこんなにも先輩を愛しているということを、今更感じたって。


 桜が満開に咲きほこってもまだ、私は先輩の死を引きずりながら生きている。

それはきっと、当たり前で。

慣れることなんて、忘れることなんて、できるわけがない。

―いつか、迎えに来る。一緒に生きよう。

大好きな人との、叶わなかった約束。

指切りをして誓ったこの場所で、また今日も思い出す。

「逢いたいです、帰ってきて…。」

絞り出すような、心の声だった。

祈るように、呟いた。

「待ってます。だから、迎えに、来て。」

返事なんて、ないはずだった。

孤独を感じて、虚しくなるものだと思っていた。

だって、あの人は、もういない。

なのに、なのに。

「ああ、待たせてごめんな。」

きこえたのは、ずっと耳が求めていたあの声。

感じたのは、間違えるはずのないあの気配。

振り向いたそこに在ったのは、頭を離れなかったあの笑顔。

「せんぱい…?」

その声は、その笑顔は、その柔らかな眼差しは。

幾度となく会いたいと願った、一弥先輩その人で。

「…どうして?あの手紙は、」

「手紙を託して出た日、俺たちは山奥で戦っていてな。

怪我をして動けなくなってしまった俺を、近くの村の人たちが介抱してくれたんだ。良くなるまで陣営に戻ることも、ここに帰ってくることもできなかった。

…心配かけて、ごめんな。

でも、もう戦は終わった。これからは平和な時代が来るよ。」

私を包み込む掌は、暖かくて。

明るい笑みは、泣きたいくらい眩しくて。

ああ、ここにいるのはあのときから何一つ変わらない先輩だ。

抑えつけていた慕情の、どうにもならなかった感情の、箍はいとも簡単に外れて。

私は先輩の肩に顔を埋めて、ただ泣いた。

それを受け止めてくれる先輩の温もりに安堵する。

生きていてくれたのだと。こうして帰ってきてくれたのだと。

ひとしきり泣いて上げた顔を、温かな掌でそっと包まれた。

「なあ、悠。

帰ってきたよ、俺。一緒に、生きてくれないか。」

離れていても、信じていたんです。

何度も、何度も、望んだ未来なんです。

―そんなの、答えはひとつしかないでしょう?

「まっ、てたん、ですからね、ずっと、」

捨てることなんてできなかった想いを、私は口にする。

あの時伸ばせなかったこの手は、今度こそ、届きますか?

「、愛してます。」

先輩は、春風のように暖かく微笑んで。

「…俺も、愛してるよ。」


 今年の春も、涙色。

満開の桜を眺めながら、私はまた、涙を零す。

ああ、だって。

貴方と並んで見る桜が、何よりも綺麗なものに思えたから。

貴方が隣にいることが、泣きたいくらいに幸せだから。



 




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

涙色の春に 藤璃 @sui-touri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ