第13話 追っ手

 ゲルツハルト修道院を出て二日のあいだは長閑なもので、カールステット侯爵領で暮らす者たちにとっては馴染んだ風景が続いた。

 なだらかな丘を縫う道々には色鮮やかな落葉が敷き詰められ、きたる冬に備えてブナやカシの実を蓄えるリスが大木の梢をせっせと駆け回る。

 集落は避けて進んでいたため人影を見かけることは少なかったが、郷愁を誘うには充分な時間があった。


 ――今ごろゲルツハルト修道院はどうなっているのか。

 ガレン城砦でエオルゼたちを逃がしてくれた兵は、いったいどうしているだろうか。

 アルトゥールやヘスティアは無事に保護されただろうか。母親のもとに報せは届いただろうか。


 気がかりは山とあり、今は目の前のことに集中すべきだとわかっていても、頭から追い出すことはできない。敵の姿もなく、見慣れた田園風景が続けば、どうしても緊張の糸が撓んでくる。


 旅路に就いて三日目の夕暮れだった。

 今夜の野営地を決めかねていると、一隊の背後に覆い被さるように影を落としていた丘の上から、馬の嘶きが聞こえた。

 はっ、と息を呑んで丘の稜線を仰ぎ見る。

 獣と思わしき影が数体望めた。逆光で見分けづらいが、おおよその形は見てとれる。

 体高は高く、ずんぐりとした農耕馬に比べてその四肢はすらりと長い。騎手は裾の長い外套をまとっていて、馬の扱いに長けている様子だ。

 疾駆するための体格に恵まれた軍馬。それに跨がりこちらを見下ろすのが、素朴な領民であるはずがない。

 瞑色めいしょくに染まる雲を背負った騎手の外套が、風に大きくはためく。

 胸に縫いつけられた紋章は、ル・マヌン王家の月を戴く鷲。


 退却を命じるラズウェーンの怒号が先だったか、それともエオルゼがスペイギールの馬の尻を蹴ったのが先だったか。

 おのれの騎馬にも拍車を入れ、エオルゼは隊列から飛び出した。すぐうしろをダシュナが追ってくる。


「エオルゼ、森へ入れ!」


 指示されるまでもなく、エオルゼはスペイギールを南東方向に広がる森へ誘導した。

 森の中は足元は悪いが見通しも利かず、姿も暗ませやすい。日が落ちればさらに捜索は難しくなる。

 自然と隊列は敵を足止めする後方と、スペイギールを護衛する前方とに二分された。

 とっさの判断としてそれが適切ではあったが、国王軍の斥候がスペイギールを見逃すはずもなく、彼らも同様に隊を二分してそれぞれの追撃に回る。

 黄昏時と言えど、相手の姿を認めるだけの明るさはまだ西の空に残っている。

 森の入り口はいまだ遠く、丘の向こうにうっすらと広がっているだけで、辿りつくまでにはだいぶ時間が必要だ。


 心臓が逸った。

 手綱を握るエオルゼの手に不自然な力が入る。

 騎手の焦燥が馬に伝わり、足取りが乱れてくる。

 敵の跫音は天を裂かんばかりに雄叫びを上げながら、エオルゼの背に狙いを定めて食らいついてきた。

 いったい――味方は何騎いて、敵は何騎なのか。誰がついてきて、敵はどこまで迫っているのか。

 いけないとわかっていながら、エオルゼはたまらず背後を振り向いた。

 そしてすぐに後悔した。敵兵と目が合ってしまったのだ。


「振り向くな! 行け!」


 ダシュナが抜刀しながら叫ぶ。彼はすでに敵の間合いに入ってしまっている。

 突き出される長槍を身を捩って避けると、ダシュナは相手の懐に突進した。

 金属同士がぶつかりあう鈍い音だけをエオルゼの鼓膜に残して、交わりあった影はみるみると小さくなっていく。

 周囲へ目を配らせれば、スペイギールの護衛はエオルゼのほかにはセインとヘリオス家の家臣が二人、残っているだけだった。

 先頭で駆け出したエオルゼが気づかないうちに、隊列は前後に長く伸びてしまっていたのだ。ひとり、またひとりと、敵を足止めするために欠落していったのだろう。


 エオルゼは馬に鞭打ちながら、状況の整理に努めた。

 このまま森まで走り抜くか、それとも足を止めて交戦するか。

 怪我をしているスペイギールはもちろん、初陣であるセインに戦力を期待するのは酷だ。エオルゼを含め、三人で対敵するしかない。

 しかし、相手は馬上戦に有利な長槍を装備しており、その広い間合いを活用して攻撃を仕掛けてくる。重厚な防具のために多少動きは鈍いものの、こちらからの攻撃も防がれやすい。


「エオルゼ様、追いつかれます!」


 二馬身ほど後方に、黒い獣が迫っていた。その背後にもう一騎を確認する。


 五人全員が戦力となるならば、あるいは刃を交えるという手段もあったかもしれない。

 三人が残り、スペイギールとセインだけを逃がす――けれども、それでは戦場の経験のない二人だけで森を彷徨うことになってしまう。セイン一人でスペイギールの命を背負うことができるのか。

 しかも、長槍を装備した相手に一対一で向き合うなど自殺行為に等しい。三人残っても止められる可能性は低いだろう。


 前方にようやく森の一端が見えた。

 エオルゼはくちびるを噛むと、腹に力をこめて声を張りあげた。


「わたしはこのままスペイギール様と森へ入るわ。二人で敵を食い止めなさい!」

「承知しました!」

「ギール様、わたしが先頭に立ちます。セインは後方について。二人とも、はぐれずについてくるのよ!」


 拍車を馬の横腹に入れる。悲鳴のような嘶きが返った。馬も騎手も限界が近いが、駆け抜けるしかない。


 エオルゼはスペイギールの前に出ると、勢いのまま森へ飛びこんだ。

 いったん森へ入れば、方向感覚はたやすく失われた。落日の残滓も生い繁る梢に阻まれて、疾走するエオルゼの目には拾えない。

 人の足によって拓かれた道はなく、獣が通うものさえ見当たらない森には、枯れた草葉が地面に死の層を重ねていた。

 枯れ葉は足元を這う木の根を隠し、馬の足を滑らせる。あちこちから伸びる木々の枝がエオルゼの顔にぶつかってきては、額や頬の皮ふに細かな傷痕を残していく。


 それでも、エオルゼはひたすら馬の制御にすべての意識を集中させた。

 一瞬でも迷えば追いつかれてしまう。黒い獣が――饐えた死臭をまとった獣が、スペイギールを捕らえてしまう。

 どちらが目的地なのか、そもそもどこへ行けばいいのかさえわからないまま、がむしゃらに馬を走らせた。

 まるで泥沼の中をあがいているようだった。這い出そうともがけばもがくほど、沼の底に捕らわれてしまいそうで、必死に馬に鞭を打つものの獣は諦めずに追ってくる。沼の底で口を開けて、落ちてくるのを待っている。


 突然、がくりと馬体が大きく揺れた。

 エオルゼは幻から目を覚ますと同時に、馬の足が縺れはじめていることに気づいた。手綱を引いて足を止めさせれば、長く酷使させられた馬は泡を吹いて気絶寸前だった。


 動転する馬の首を撫でてやりながら、背後を振り返る。

 そこにあるはずの二人の姿はなかった。

 うしろをついてきていたはずのスペイギールとセインがいない。

 人の気配も、馬の蹄が地面を蹴る音も、五感は拾わない。

 エオルゼを囲むのは、漆黒の闇と梢のさざめきと名の知れない鳥の声。そして馬とは思えない獣が木陰で身動ぐ物音だけだ。


(まさか……、そんな)


 心臓がどくりと大きく跳ねた。胸骨の下で暴れはじめた鼓動を抑えつけるように、きつく拳を握る。

 すぐに馬首を巡らせて、来た道をわずかに引き返した。それでも闇は闇のまま、帳をかきわけて現れる人影はない。

 頭上で耳障りな声が嘲るように鳴いては飛び去っていく。

 羽音が遠ざかり、不気味に訪れた一瞬の沈黙に、エオルゼの額から玉の汗が噴き出た。

 太陽はすでに沈んで久しい。雲は厚く、当然星明かりもない。樹木に激突せずに走れたのは奇跡だろう。

 しかし、その奇跡はどうやらエオルゼしか与れなかった。

 疑いようはなかった。エオルゼはスペイギールたちとはぐれてしまったのだ。


「っ、ギール様!!」


 転がり落ちるように鞍から降り、手綱さえ手放して、エオルゼは叫んだ。長く馬に揺られていた足はよろめき、疲労と焦燥に眩暈がする。


「ギール様! セイン! どこなの!?」


 必死の呼びかけも底なしの闇に砕かれ、木立の間に散っていった。

 幾重にも繁茂する樹木や下草は、まるで獰猛な獣のようにエオルゼの前に立ち塞がり、行く手を阻む。

 夜の森の恐ろしさは、森のそばで育ったからこそ知っている。一度森から離れて暮らした経験があるからこそ、その闇の深さがいっそう際立った。


「そんな……。どうしたら……」


 国境を越えるまで、スペイギールからひとときも離れまいと決心したのに。

 自分が指揮を執るしかないと判断し、残った兵を盾にして逃げたのに。

 何という失態だろう。二人に何かあればエオルゼの責任だ。

 ラズウェーンに、ダシュナに、家臣たちに、そして母に、どう詫びればいい。


「ギール様、セイン、お願いだから返事をして!」


 声を張りあげて足を踏み出す。眩暈で地面が揺れていたが、かまっている場合ではない。

 この途方もない黒い帳の海のどこかに二人が捕らわれているのなら、なんとかして探し出さなければならない。

 たとえ樹海に落とした砂金一粒だとしても、敵よりも前に必ず見つけなければ。


 ふらつきながら二歩三歩と歩き出したとき、背後で馬が嘶いた。

 はっ、としてエオルゼは足を止める。

 息を呑んで待ったが誰かが現れることはなかった。ごくりと喉を鳴らし、息を吐いて、自分の馬の影へと引き返した。

 幸いにも、馬は逃げ出さずにその場でエオルゼを待っていた。首に触れると体毛は汗でしっとりと湿り、厚い皮ふの下の熱が手のひらにじんわりと伝わってくる。一方の自分の手はとても冷たくなっていた。


 何度か呼吸をくりかえしたあと、鞍にくくりつけた荷から火打ち石を取り出し、手頃な枯れ枝に火をつけた。

 ぼろ布を巻いた即席の松明の灯りは温かかい色をしていて、エオルゼの中を占めていた恐怖と焦燥が、まるで火に追われるように消えていくのを感じる。

 松明を握りしめて、深く息を吸う。

 ゆっくりと息を吐きつくして、ようやく頭が晴れ渡った。


 ――自分が取り乱してどうする。二人を導くことができるのは自分しかいないのだ。


 再び周囲を確認し、しばらく待ってから、エオルゼは馬の手綱を取って来た道を引き返した。

 今は何よりも二人と合流することが最優先事項だ。最悪、スペイギールだけでも保護しなければならない。

 地面に灯りを近づければ、枯れ葉を踏みしだいた蹄の跡が残っていた。

 慎重に辿っていけば、二人とはぐれた場所まで戻れるかもしれない。あるいは、松明の灯りにどちらかが気づけば。


 エオルゼは可能なかぎり気配を殺して進んだ。

 周囲には敵が潜んでいる可能性も高い。

 積もった枯れ葉を踏めばカサカサと音はしたし、何より松明の火で居場所を突きとめられる懸念はじゅうぶんあったが、捜索に火は欠かせなかった。

 せめて月が出ていれば、と何度も空を仰ぐが、やはり雲は厚く垂れこめていて松明を手放すことはできなかった。

 全身の感覚を研ぎ澄ませる。小さく絞った火に目を凝らして足跡を確認し、ていねいに道を戻る。

 しかし、いくら辿っても、足跡はエオルゼの残したものしか見つけられなかった。

 そしていつのまにかそれさえも見失い、どちらの方向から戻ってきたのかさえわからなくなっていた。

 遠ざけたはずの絶望が足元から這い上ってくる。音もなく頭から血の気が引いていった。

 これ以上は無闇に動き回らない方がいいと、経験上理解していた。

 長い距離を全力で駆けたうえに、暗い中を神経を尖らせて歩いて、体力も気力も限界だ。一度足を止めれば、ふたたび踏み出す力も湧いてこない。

 底なしの暗黒を呆然と見つめながら、エオルゼはその場に膝をついた。


(こんなところで失ってしまうの……?)


 言葉にしたことで、それは現実味を持ってエオルゼにのしかかった。

 うなずくように手元の灯が揺れる。もしくは、すでに失っているのかもしれないと、目の前の森が囁く。

 そんなことはない、二人は無事だ、と否定する自分と、やはり無理だったのだ、と諦念に沈む自分がせめぎ合う。

 こんなところで失ってしまうのなら、今までの苦労や犠牲は何だったのだろう。

 ついていけばいつかは報われると、信じた自分が間違っていたのだろうか。

 スペイギールの望む未来をことごとく否定して、これまでの当主のようにル・マヌンへの抵抗を選んでいれば、あるいは余人の語る栄光が待っていたのだろうか。


 そのとき、項垂れたエオルゼの背後でかすかに物音がした。

 顔を上げ、牽制をこめてエオルゼは松明をかざした。

 狼か熊か――相手が賢ければ、たいていは火を見て逃げていくはずだ。敵ならば数を把握する必要がある。


 だが、小さな火が放つわずかな光が闇の中から曝いたのは、そのどちらでもなかった。

 光と闇のあわいに、青白い顔をした少年が佇んでいた。

 深い色をした碧眼は見開かれ、短く切られた髪は金砂が散ったように淡く光を弾いていた。


「エオルゼ」

「――ギール様」


 エオルゼは松明を地面に突き立てると、震える足を叱咤してスペイギールへ駆け寄った。

 触れた頬はたしかにスペイギールだった。エオルゼの指先が肌に触れると、少年もほっと緊張をといたのがわかった。

 しかし、手のひらから伝わる熱は、体調が思わしくないことを告げている。呼吸も不自然に弾んでおり、ひそかに探れば脈も速かった。


「ギール様、無理をさせてしまってごめんなさい。もっと背後に気を配るべきでした」

「大丈夫、エオルゼのせいじゃない。……けど、セインが……」


 どうやら、スペイギールとセインも互いにはぐれてしまったようだった。

 どこまで一緒だったのかさえわからない。エオルゼ同様、彼も気づいたらひとりだったのだ。 


「……セインを探すのは明日にしましょう」

「でも」

「これ以上動き回って、方角がわからなくなってはいけません。とにかく、日が昇るのを待ちましょう」

「……うん」


 二人はそれぞれの馬を近くの木に繋ぐと、野宿の準備を始めた。

 集めた枝に火を移し、小さな焚き火を熾す。食事の支度をするほどの気力は残っておらず、水筒の水と携帯していた木の実や干し果物だけで夕食を済ませた。

 そのあいだもスペイギールの言葉数は少なく、表情は晴れなかった。

 体調のせいもあるだろう。

 だが、ゲルツハルトを出てから――あるいはガレン城砦が急襲されてからずっとだ。もうずいぶんとスペイギールの顔に陽は射していない。


「わたしが先に火の番をしますから、ギール様は寝てください」


 渋るスペイギールを無理やり横にさせる。

 寝袋代わりの外套に包めた身体はやはり火照っていた。くちびるから吐き出される息が白く煙るほど冷えこんでいるのに、スペイギールの汗はなかなか引いていかなかった。


「……時間になったら必ず起こして」

「わかりました」


 目を閉じてからいくらも経たずに寝息が聞こえてくた。一見、穏やかな寝顔だったが、ときおり呼吸が乱れては子どものように心細げにうめいている。

 傷が痛むのか、または夢見が悪いのか。

 エオルゼは剣を胸に抱き、膝をかかえて全身を外套の中に押しこんだ。フードも被り、外気を遮断する。それでも、湿り気をおびた寒気は襟元や裾などのわずかな隙間から忍びこんでくる。

 悴む手をスペイギールへ伸ばす。

 革の手套をしたまま、少年の外套の裾をそっと摘まんだ。

 夜明けは常より遠かった。

 エオルゼはひとり、苦しむスペイギールに寄り添いながら烏夜うやを凌いだ。

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君は光、君は夢 佳耶 @kaya_hsm

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