第12話 出立

 木枯らしが晒された無防備な頬をいたぶっていく。散り積もった枯れ葉が、乾いた音を立てながら足元をすり抜けていく。

 冷たい墓石に添えられた花もまた、乾風に地面を転がった。つま先に引っかかった一輪をつまみあげて、エオルゼはふたたび目の前の墓に供えた。


 月もなく、星影もない夜だった。

 昼間ならつややかなはちみつ色を誇る墓石も、手燭も持たない闇夜ではただの黒い塊にしか映らない。

 林立する影の中で、それでもエオルゼは目的の墓碑を見分けて順番に献花に回った。風に飛ばされないように小石で重石をする。

 そして最後に足を止めた墓碑の前で膝を折ると、闇の帳をかきわけるように、碑名に目を凝らした。

 じっと墓石を見据えて動かない姉の隣で、セインも手折った金盞花を供える。

 鮮やかな色は、暗闇でもわずかに火が灯ったように色彩を放った。まるで夕陽のような――あるいは残照のような金色こんじき

 墓地のはずれに咲いていた花は寒さのせいで萎れかけていたが、何もないよりはいいだろう。

 これから先、ここに眠る死者を悼んでくれる人間は、長らく絶えてしまうだろうから。


「お父さん。置いていくけれど、ごめんなさい」


 エオルゼは白い息を散らしながら呟いた。

 指先で白茶に乾いた芝を撫でる。

 父が亡くなった日も、ここに埋葬した日も、よく覚えている。

 けれど、隣で無言でいるセインには父の記憶はないに等しかった。


 父は、エオルゼが幼いころから家に居着けない人だった。エルー家当主としてヘリオスに随行し、各地を転々としていたからだ。

 たまに帰ってくれば、無口で厳めしい顔つきの父に姉弟はもじもじとしてしまい、まともに会話もできなかった。

 彼がいったいどういう人物なのか――どんな風に笑うのかさえ、少女時代のエオルゼは知らなかった。

 剣を持てと突然命じられて泣いた日もあった。

 頭では理解していたのだ。セインはまだ幼いのだから、自分が一時的にでも家を継がなければならないのだと。

 それでも、多感な少女の心は理不尽さに耐えられず、怒りの矛先を父親に向けた。


 苦手で、厳しくて、怖くて、嫌いな父親。


 しかし家を出て、ゲルツハルト修道院から戦地へ赴くようになり、エオルゼは知った。

 厳しい父も、戦場では娘を守るために盾になってくれることを。少しでも四晶家に馴染めるように世話を焼いてくれていることも、誰よりもエオルゼの運命を哀れんでいることも。

 父とともに過ごした二年間で、二人のあいだに聳えていた壁は均された。

 彼はただ不器用で、そして家族を愛していた。

 それを知る機会がセインにもあればよかったのにと、悔やまずにはいられない。


(――せめて、お墓を荒らされませんように)


 黙祷を捧げ、うしろ髪を引かれながらエオルゼは立ちあがった。出立の時間が差し迫っていた。


 館の食堂には、支度を済ませた者がすでに集まっていた。

 よく見知った顔のほかに、トビアスから借りた侯爵家の私兵や傭兵が混ざっている。

 わざわざ確かめるまでもなく、新参の彼らは今回の作戦に不満だった。傭兵にとっては分が悪い負け戦、侯爵家の家臣にとっては主家や仲間を見捨てる行為である。

 外においても内においても、危うい逃避行になるだろう。


 ふと視線をやった先に、周囲とは趣を異にする集団があった。

 中でも、ひとりの男は場違いなほど立派な甲冑で全身を覆っていて、絞られた灯りの下で惜しみなく輝きを放つそれを、近くの者は訝しげにうかがっている。

 エオルゼは無意識に眉根を寄せた。わざわざ顔を確かめるまでもなかった。

 どこから聞きつけたのか、オーヘンもスペイギールの亡命に同行すると申し出てきたのだ。顔も見たくないエオルゼからしてみれば、忌々しいことこの上ない。

 唐突な話にラズウェーンも渋っていた。が、兵は一人でも多い方がよい。

 オーヘンとその従者が加われば、それだけでも戦力は増すし、侯爵領内の動向を虎視眈々とうかがっているイエフ伯爵への牽制ともなる。国王軍が侵攻している中で、イエフ伯爵家まで領内に侵入してくることがあれば、戦況は急坂を転がり落ちるように悪化するだろう。

 そう説かれれば、エオルゼも納得するしかなかった。


 ややあって、スペイギールがラズウェーンを伴って現れた。

 エオルゼが磨いた模擬試合用の鎧で武装した姿は、戦慣れした男たちの中ではあまりにも貧相に映った。

 顔色はだいぶよかったが、以前のような覇気はない。少年の正体を知らない者が見たら、ラズウェーンの従者だと勘違いするだろう。

 それでも、スペイギールは荒れる胸中を表面に匂わせず、体裁を取り繕おうと努めていた。

 さまざまな感情と思惑が入り交じる十目の的となっても背をまっすぐ伸ばし、正面を見つめている。


「静粛に」


 ラズウェーンの合図に、ざわめいていた室内に沈黙が降りた。

 兵士たちの注目がラズウェーンへ移される。


「事前に通達したとおり、旧街道を利用してキヌリへ抜ける。旧道へはここから北北東へ約十日、常夜の森に入り敵の追討を避ける。決して易くはない道程になるだろうが、みな全身全霊を以てスペイギール様をお守りするよう、私からお願い申しあげる」


 ラズウェーンの低く澄んだ声は、食堂の端々にまで浸みるように広がっていく。

 彼の言葉はいつも人を惹きつける力があると、エオルゼは思った。その耳心地よく張りのある声音も、老練された堂々たる風格も、人々の意識を引き耳を傾けさせるものがある。


「――今の世において、この選択は理解を得がたいだろう。だが、我らの行いはすべてラスミアがご覧になっている。主の末裔を守護し次代へと繋げることこそが主への忠誠であり、主の御意志に沿う行いだ。主は愛しき子に随従し幇助した者に、その慈悲深きかいなを差し伸べられるだろう。そして必ずや、後世にて我らの偉業は讃えられる。我らは逃げるのではない。新たな道を切り拓くのだ」


 不満と猜疑に澱んでいた空気が清められていくようだった。

 少なくとも、ラズウェーンの演説によって兵士たちのひとまずの結束が成された。出立直後に脱落者が出たり、離反者に背後から刺されたりする危険性は下がっただろう。


「では出立する。物音を立てぬように気を配れ」


 わずかに灯された蝋燭を吹き消す。食堂はあっというまに闇に沈んだ。

 目が慣れるのを待ってから、彼らは闇に紛れて館を出た。

 正門に面した広場で野営する者たちに気づかれないように薬草園や果樹園へ回り、木の陰に身を潜めながら通用門へ向かう。

 侯爵家の私兵はもちろん、村人にもスペイギールがキヌリへ亡命することは知らされていなかった。

 理屈はどうあれ、彼らを見捨てていくのだ。

 いくらスペイギールが村と親交を深めていようと、無条件に理解が得られるはずもなく、万が一にも暴徒と化すのを怖れた結果だった。


 見送る者は、門扉を開けてくれた修道士と、不寝の番の兵士のみだった。

 修道院を出るときはいつも正門から、大勢の村人や修道士に勝利を祈願されながら、というのが常だった。

 ここへ戻る際にエオルゼが死の沈黙とともに帰ることは何度も想像したが、まさか送られるときにこんな感情を抱えることがあろうとは、考えたこともなかった。

 ゲルツハルト修道院はエオルゼにとって長らく住んだ家であり、ヘリオスや四晶家にとって最後の拠点だった。


 ――ついに寄る辺を失ってしまった。

 それでもエオルゼにはまだ死は訪れていないし、スペイギールは生きている。

 エオルゼはセインを促して、スペイギールのかたわらへ馬を寄せた。

 これから国境を越えるまで、片時も離れるつもりはなかった。

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