怪異「カササガリ」

神田 るふ

怪異「カササガリ」

 大学時代の後輩Iからゼミの研究室で聞いた話である。

 彼女の話を聞いてから、私は傘立てに置いてある傘を正視できなくなったし、自分の傘を他の人に取られないよう注意するのはもちろん、間違えて他の人の傘を手にしないよう気を付けるようになった。

 

 Iによれば去年の夏に起こった出来事らしい。

 天気の移り変わりが激しい夏の夕刻、帰宅途中のIは夕立に祟られた。

 傘は持っていたものの、あまりに激しい雨に進退窮まったIは全国チェーンの喫茶店に飛び込み、そこで雨をやり過ごすことにしたのだという。

 カフェモカのアイスを注文し、店内のBGMをかき消さんばかりに窓ガラスに叩きつけられる雨音にびっくりしながら、Iはスマホをいじりつつ豪雨が立ちすぎるのを待っていた。

 メールチェックと返信も終わり……そろそろすることがなくなってきたIだったが、雨足は一向に弱まる気配がない。

 もう少しだけねばろうかと思い始めたIの耳に、隣の席の会話が入り込んできた。

 会話の主は女子大生と思しき二人組だった。

「もうそろそろ出ようか。雨、止まないよ」

「でも、傘がないじゃん。濡れちゃうよ」

 どうやら、Iと同じように雨から避難してきたらしい。

 自分も出ようか出まいか悩んでいたIは思わず聞き耳を立てていた。

 その耳に、トーンは落ちつつも、悪戯っぽい響きを添えた声が入り込んできた。

「……ねえ、お店の傘、借りていかない?」

 借りていく、というのはあくまで好意的な表現である。

 つまるところ、所謂、傘泥棒である。

 つい先刻までの親近感は雲散霧消し、Iは内心腹が立った。

 もし、自分の傘を持ち出していこうものなら店員さんに突き出してやろうと思い、頭の中で言葉と所作のシミュレーションをやりはじめたIの思考を、もう片方の女子の声が遮った。

「ダメだよ!そんなことしたらカササガリが出るよ!」

「カササガリ?」

 ……カササガリ?

 傘泥棒予備軍の女子の声とIの内面の声が重なった。

「カササガリはね、傘を盗んだ人に憑り付くお化けなの。だから、人の傘を勝手にとってはダメ」

「それ、どんな妖怪なの?」

「わからない。でも、憑かれたらよくないことが起こるって……」

「なにそれ。ほんとに怖いお化けなの?」

「とにかく、ダメだったら!傘をとるぐらいなら、私、傘を買ってくる」

「あー、もうわかったって。一緒にコンビニまで傘を買いに行こう?ね?」

 そこで二人の会話とティータイムは終わり、二人は未だ弱まることを知らない豪雨の中へ飛び出していった。

 カササガリ、か。

 念のため、スマホで検索をかけてみたが、やはりそのような妖怪はもちろん、一致する言葉すらなかった。

 ふと気づくと、外はすっかり陽が落ち切っていた。

 このまま喫茶店で過ごしていては日が変わる。明日提出するレポートもこれから帰って作成しなければならない。

 仕方なく、Iは店を後にした。

 傘を、手にして。

 

 暗い夜道、大雨で半身どころかほぼ全身がずぶ濡れになりながら、Iは帰宅の道を急いでいた。

 雨に濡れた服が体にまとわりつき、Iの身体に重みを加えていく。

 重くなった体を家に向かって一生懸命動かしながら、道すがら、Iは先ほどのカササガリのことを考えていた。

 人の傘を盗んだら出る妖怪。

 どんな妖怪かはわからない。

 ただ、憑かれたらよくないことが起こる。

 同じことを何度も何度も頭の中で繰り返しながら、Iは重い体を引きずるようにして歩いていった。

 雨は一向に弱まる気配はない。

 傘をしっかりにぎるIの体は自然と固くなり、固くなった筋肉がさらに体へと負荷をかけていった。

 それにしても、どうしてこんなにも今日は体が重いのか。

 本当に雨だけの所為なのか。

 雨だけの、所為なのか?

 濡れたIの背中に冷や汗がするりと走っていった。

 

「カササガリ?」

 

 思わず、独り言が出てきた。

 ひょっとして、そのカササガリとかいう妖怪に憑かれてしまったのだろうか。

 だが、この傘は自分の傘だ。

 盗んできた傘ではない。

 でも、この傘はコンビニで売っているような何処にでもあるビニール傘だ。

 ひょっとしたら、さっきの喫茶店で間違えて別の人の傘をとってしまったかもしれない。。

 故意ではない。

 だが、結果的には他人の傘を取ったことになる。

 そう思うと、雨でぬれたIの体を覆う寒気が、急激に増してきた。

 その冷気が、逆にIの頭をクリアにした。

 Iは思い出したのだ。

 自分の傘だと見分けがつくよう、傘の持ち手、所謂、手元に輪ゴムを巻いていたことを。

 巻いていたのは傘のちょうどUの字型の頂点の部分、そこにゴムが巻いてあれば自分の傘だ。

 Iは濡れた右手をその場所にスライドさせた。


 冷たくて、固いものがIの手にあたった。


 それはしっかりと、Iの傘の手元を握りしめていた。


……それが人の手だとわかるのに、そう時間はかからなかった。


 重かったのは体の方ではなく、傘の方だったのだ。


 これが、カササガリ。

 Iはようやく理解した。


 ここから先のIの行動はやや不可解である。

 普通だったら驚きと恐怖で傘を投げ捨てているはずだ。

 だが、Iはそうしなかった。

 傘を放り出して傍を走る車の走行を邪魔してしまったらたいへんだ。

 Iは咄嗟にそう考えたらしい。

 では、Iはどうしたか。

 Iの目に映ったのは、とある商店のシャッターの前に置かれた傘立てだった。

 それを見るや、Iは傘をたたんでそのままそこに突っ込んだ。

 そして、脇目も振らずダッシュで家に帰ったのだった。


 ここまで語り終えると、Iは小さく溜息をついた。

「翌朝、その商店に行ってみたのですが、もう傘はありませんでした。お店の人が撤去したのか、それとも、別の誰かが持って行ってしまったのか。午後、大学の講義が終わった後、例の喫茶店にも行きました。でも、私の傘は残っていませんでした。結局、あれは私の傘だったのか。それとも別の誰かの傘だったのか。あの時、私の傘を握っていたあの手は何だったのか。あれはカササガリだったのか、それとも、私の錯覚だったのか。今でも、こんなことばかり考えているんです。そして、罪の意識についても」

「罪だって?」

 意外な言葉に私は思わず大きな声を出してしまった。

「ええ、罪です。もし、あの傘に本当にカササガリが憑いていたとしたら、その傘を誰かが持って行ってしまっていたのなら、私はカササガリのバトンをその人に渡してしまったことになる。私がその人にカササガリを憑けてしまったことになる。そう思うと、心が重いです」

 そういうと、Iは重たそうに頭を下げて再び溜息をついた。


 カササガリは別の誰かではなくて、まだ彼女に憑いているのではないか。

 何故か、そんな思いが私の頭をよぎった。

 Iが私にこの話を語った夜も激しく雨が降っていた。

 研究室のドアの入り口付近に立てかけられていたIの傘の手元を確認する勇気は、私にはなかった。


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怪異「カササガリ」 神田 るふ @nekonoturugi

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