恋愛小説

藤沙 裕

恋愛小説

 カーテンとぼんやりした窓の外の景色は、一瞬判別がつかなかった。揺らぐ薄いレースと同じ色の白い空を、輪郭のぼやけた窓枠からぼうっと眺めていた。窓の外は何もなく、ただ白い雲のような、霧のようなものが漂っている。

 ここは、どこだろう。

 窓から目線を移し、辺りを見渡す。今私が座っているのはベッドの上。木のテーブルに化粧道具と雑誌が放り出されたまま、衣服も床に置きっぱなしになっているのが見える。

 狭い部屋。見覚えがあるようで、ないような。

 思い出せない。ここは、誰の部屋だろう。

 ふわふわした意識の中、おぼつかない足取りでベッドから降りて、馴染まないフローリングの冷たく硬い感触を、ひたひたと足踏みをして確かめる。私の足は、こんな形だっただろうか。こんな色だっただろうか。

 テーブルの近くで一旦立ち止まり、ひとつひとつ手に取ってみることにした。珈琲が半分入ったままのマグカップが、肩身が狭そうにひっそりとそこに居座っている。その隣に、誰かのスマートフォン。充電器に繋がれてはいるものの、何度電源スイッチを押しても電源は入らない。部屋を見渡しても、この部屋のどこにも時計はなかった。仕方なくテレビの電源を付けたが、何も映らない。

 ここがどこなのかも、今が何日の何時なのかも、まったくわからない。窓の外は、ただ白いばかりだ。これから夜になるのだろうか、それとも夜明けだろうか。一向に景色は変わらない。

 ここは、どこだろう。

 私は、何故ここにいるのだろう。

 何も思い出せない。今の季節が何なのかも、今何時なのかも、私が誰なのかも、何も、思い出せない。





 しばらく部屋を歩き回り、気になったものは手に取った。するとわかったことがある。この部屋は、少なくともふたり、いや、きっとふたりの人間が住んでいる。最初に見つけたマグカップは、同じデザインの色違いがキッチンに置いてあった。歯ブラシも色違いが二本、色違いの寝間着も見つけた。玄関にはスニーカーとハイヒールが何足か置いてあるから、きっと男女が同棲する部屋なのだろう。そう仮定して部屋を見渡すと、なるほど、しっくりくる。

 疑問があるとすれば、それは部屋の住民でなく、私がここにいることだ。

 彼らはどこにいるのか、私が何故ここにいるのか、いまだわからない。この部屋に迷い込んで、もう何時間も経った気がする。一向に窓の外は白いばかりで、変わる気配もない。

 この不思議な空間に迷い込んでしまう前、私はどうしていたのだろう。それすらも思い出せない。名前も、年も、仕事も、家族も、すべてわからない。ただ、私は女で、何故かここにいる。ただそれだけだ。

 そう思うと、もしかしたら、この部屋は私の部屋なのかもしれない。そうならば、私がここにいても何の不思議もない。同棲している男もいるのかもしれない。もしくは、ここはその男の部屋だ。今ここにいないのは、きっと彼は出かけているのだ。そうに違いない。そうでないならば、もう私には何もわからない。

 それならば、彼が帰って来るのを待つのがいいだろう。彼の顔も声も思い出せはしないけれど、彼が実際に帰って来たら、きっと思い出す。だからそれまでは、もう少しのんびりしていよう。まずは夕飯の準備に取り掛かろうと思う。きっと、外は夕方だ。あの白い雲のようなものは、雨雲で、霧も出ているのだろう、だから外がすべて白く見えるのだ。彼はきっと、お腹を空かせて帰って来る。その彼のために、夕飯を作る。お風呂も沸かしておこう。きっと外は寒いだろうから。

 こうして彼のために何かするのだと考えていると、不思議と冷静になれた。私が何もかもを忘れてしまう前も、こうだったのだろうか。だから落ち着くのだろうか。けれど今、それを考えている暇はない。彼はいつ帰って来るのかわからない。もしかしたら、すぐに帰って来るかもしれない。帰って来て夕飯が食べられないのは可哀想だ。何か暖かい料理を作ろう。考えるのは、その後でも遅くない。

 しかし、冷蔵庫を開けたところで、私はまた冷静になった。中身はすべて空なのだ。本当に何もない。ペットボトルも食材も、何もないのだ。これでは何も作れない。外へ食材を買いに行くしかないだろう。けれど、もし彼とすれ違いになってしまったらどうしよう。テーブルの上にあるスマートフォンは電源すら入らないし、この部屋には他に電話がない。彼との連絡手段がないのに、出かけても平気だろうか。いや、置手紙を書こう。そうすれば、入れ違いになっても彼は部屋で待っていてくれるはずだ。それがいい。

 食材を買いに行くから待っていてと一言書いて、スマートフォンの隣に置いた。電源が入らないということは、おそらく壊れているのだろう。充電器に繋いでおく必要はないし、抜いておこう。

 部屋を出るなら、鍵を掛けなければ。この部屋のどこかにあるはずだ。早く鍵を見つけて、外で食材を買って、彼に何か暖かいものを作らなくては。

 ところが、部屋中を何度探し回っても、鍵は見つからない。ほっぽり出された鞄の中、財布の中、引き出しや箪笥の中、トイレや洗面所まで、至る所を探しても、鍵はどこにもない。

 どこにもないわけがない。私はこの部屋に住んでいるのだから、部屋の鍵を持っていて当然なのに。

 閉じ込められでもしたのだろうか。だからスマートフォンが使えないし、鍵も見つからないのだろうか。そうならば、冷蔵庫にひとつも食材がないのは、どうやって説明すればいいのだろう。

 もう考えてもわからないのなら、大人しくこの部屋で、彼の帰りを待つしかない。テレビもつかない、スマートフォンも壊れていて使えない、本すらない。こんな状況の中で、ただ彼を待つのか。

 私が今、するべきことは何だろう。本当に彼を待っているだけでいいのだろうか。そもそも、本当に彼は帰って来るのか、いや、彼が誰なのかもわからないのに、それは危険ではないのか。

 もう一度、この部屋の隅から隅までを見渡してみる。ただ待っているだけでは落ち着かない。もやもやとした窓の外は、一向に白いままだ。比較的片付いている部屋の中も、やはり何だか違和感がある。これでは、私がこの部屋に迷い込んだ時と、何も変わらないじゃないか。

 この部屋は、本当に私の部屋なのだろうか。結局、このことが気になって仕方ない。

 そもそも、私はいったい誰なのだろう。家族や地元の友人のことは思い出せるようになった。仕事はたぶん、至って普通の会社員。けれどその他のことになると、途端に思い出せない。自分のことのはずなのに、趣味も、恋人の男のことも、何も思い出せないのだ。

 疑問はまだある。私がこの不可思議な部屋に迷い込んでから、もう四、五時間は経っただろう。けれどいまだ、窓の外の景色はひとつとして変わらない。何故この部屋にいるのかもわからない。この際、気味は悪いがベランダに出てみるのがいいかもしれない。ガラス板を通して見ているから、変わらないように見えるだけであって、このガラス板一枚さえなければもっと遠くの方まで見えるだろう。

 ベランダへ出るための窓の鍵は、案外すんなりと外れた。きっと外に出られる。

 不思議なことばかりが溢れたこの部屋で、今更何が起こっても驚かないと思っていたが、まさか窓まで開かないなんて。そんなことがあるのだろうか。実際、そうなのだから、私にはどうすることもできない。もしかしたら、ただ滑りが悪いだけなのかもしれない。ここで諦めてしまったら、次こそ、帰って来るかどうかもわからない彼を待ち呆けるだけになってしまう。部屋のどこかに、蝋燭くらい置いていないだろうか。いや、蝋燭が見つかっても、よくよく考えてみれば意味はない。この窓はぴくりとも動かなかった。どうやって蝋燭を塗り込もうというのだ。どんなに力を入れてみても駄目だ。それより、思ったよりも力が入らない。

 おかしい。

 この部屋は、いや、私も、すべてが狂っている。

 部屋に迷い込んでから、ずっと目を背けてきたが、もうそれを拒絶する自信も、理由もない。

 この空間にあるすべてが狂っている。間違いない、この部屋も、私も、おかしい。何がおかしいのかと聞かれるとうまくは答えられない。ただ、私の記憶が曖昧なこと、窓の外の景色がいつまで経っても変わらないこと、それから、この部屋に立ち込めている妙な空気。それだけは明白におかしいのだ。

 付け加えるなら、どこかから聞こえ始めた男の声もそのひとつだろう。ぼそぼそと耳元で聞こえたかと思えば、もっと遠くから聞こえたような気がする。ベランダに出ようとした時には、既に聞こえていたけれど、いったいいつから聞こえていたのだろう。誰の声かは思い出せはしないものの、なんとなく、聞いた覚えがある。だから、わかる。おそらく私は、この声の正体を知っている。きっと一番身近な存在だったに違いない。そしてそれは、私が今待っている人だ。

 そうなると、やはり彼はここにはいないのだろう。この不可思議な空間のどこを探しても、きっと彼は見つからない。私の記憶の中で、彼のことだけがぼやけて思い出せないのは、つまりそういうことだ。ここに彼はいないから、思い出せない。テーブルに置かれている壊れたスマートフォンも、使えないということは彼の物なのかもしれない。

 彼に関する記憶だけがすっぽり抜け落ちているのは、彼と私の間で、何かあったからなのだろうか。むしろ、それ以外になんと理由を付けたらいいのだろう。

 彼とおぼしき男の声は、少し前より聞き取りやすくなった気がする。玄関の方から聞こえているのもわかった。聞き取りやすくなったからといって、彼が何を言っているのかがわかったわけではない。耳を澄ませてみても、やはりわからない。ただなんとなく、彼はこの部屋から出て行こうとしているのではないかと、そんな気がする。

 彼の囁き声が、確かな声になって、意味を伝えてくることがこわい。

 何故彼は、彼だけがここにいないのだろう。彼さえいれば、私は何もいらないのに。

 帰って来てほしい。どこにもいかないで。ただ私の傍にいてほしい。それだけなのに。

 部屋に迷い込んだ時には一切なかった感情が、彼の声によって呼び覚まされた。私は大層、彼を愛していたようだ。いや、きっと今も愛している。依存している。彼さえいればそれでいいなんて、馬鹿げていて笑える。けれどうまく笑えない。口元から零れたのは、笑い声ではなくて苦しい嗚咽だ。思わず手で覆ってみても、今度は涙が溢れ出した。

 こんなわけのわからない部屋で、彼のことを想いながら、ひとり泣いている。なんて惨めなのだろう。

 苦しさの中から、彼の記憶が蘇ってくる。もう今更なのだ。彼のために夕飯を作ろうとしていた、あの時に思い出すべきだった。

 この部屋は、やはり彼と私が暮らした部屋だ。彼の私物も、私の私物も、判別がつけられない程に、この部屋はふたりの部屋なのだ。手掛かりはいくらでもあった。テレビ台に置かれた写真の数々がそれを物語っている。いまだに彼の顔にはもやのようなものがかかっているけれど、間違いなく、これは彼と私の写真だ。どこでこの写真を撮ったのかも覚えている。たしか、これは去年の海外旅行の時に、記念にと撮ったものだ。現地に着いてからカメラのフィルムを忘れたことに気が付いて、焦って土産屋でカメラごと購入した。彼はカメラにこだわりがあって、どうしてもこれだけは譲れないと、そう言った。その隣の写真も覚えている。これは近くの公園で花見をしながら撮った。本来であれば、ベランダからこの公園が見えるはずだ。もうひとつ隣の写真は、ふたりで星を見に行った時のものだ。彼と私は、毎年夏になると天の川を見に行く。大学時代、天文学部だった私が、彼に我儘を言って連れて行ってもらったのが、確か五年前の夏。表から見える写真は今年の夏のものだが、去年の物も、最初の年の物も、すべてここに仕舞われている。

 彼のカメラの腕は、素人の私から見ても一目引くものがあった。そうでなくとも、私は彼の撮る写真が好きだった。だから、彼と一緒に撮った写真は、すべて覚えている。写真だけでなく、彼とどこに出かけて、どんな会話をしながら、どうやってそこに行ったのかも、驚くほど鮮明に思い出せる。彼の顔だけを除いて。

 玄関からいまだ聞こえている彼の声も、どこかから香ってくる香水のような匂いも、それらをすべて合わせてみても、おかしいのはこの部屋ではなく、私だった。この部屋に迷い込んでから、ずっと違和感があったのは、私こそが狂っているからだ。

 どうしても、彼のことが思い出せない。あと少しで、何か思い出しそうな、わかりそうな気がする。けれどきっとこれも、そんな気がするだけなのだろう。

 何か、大事なことを私は忘れている。彼の顔だけではなくて、他のことも。

 何故部屋の鍵も、窓も、開かないのか。私はこの部屋から出られないということなのか。この部屋でひとり、戻って来るかどうかもわからない、彼を待ち続けろということなのか。

 それでも、不安と焦燥感が入り混じった空気の中で、私は少しずつ冷静さを取り戻しつつあった。この部屋が不思議で不気味なことには変わらないが、私はやはりこの部屋を知っている。この部屋は紛れもなく私の部屋だ。ふわふわとした意識で、彼の顔が思い出せなくても、この部屋は、彼と私が暮らす部屋だ。

 そう確信して部屋を見渡すと、耳鳴りのようだった彼の囁き声は、次第にその意味を聞き取れるまでになった。どうやら、私の声も紛れていたようだ。ふたりのやり取りには脈絡がないが、口にする言葉の意味はどれも同じように思う。きっと、彼と私は、何度もこのやり取りを、この部屋でしていたのだろう。

 数十分前に感じていた恐怖は、もうなかった。彼と私の声に、そっと耳を澄ませながら、冷たいフローリングの上で膝を抱える。

「……よ…………ずっと一緒にいようよ」

「……もう嫌。……ひとりにしないで、お願い……」

「これでもう大丈夫、ね? こわくないよ、ほら、手を貸していてあげる」

「……こうしていると、安心するの。もう離さないで、ねえ。……好きだって言って」

「じゃあ名前を呼んで。抱きしめて。今日はもうこのまま眠ってしまおう」

「もう、耐えられない……どこにもいかないで。ずっと私の傍にいて……」

「……どこにもいかないよ、約束する」

 何かの香りとノイズの中から聞き取ったふたりの声は、頼りなく、それでいて確かに、私の鼓膜を刺激した。信じたくない気持ちとは裏腹に、これは彼と私の声なのだと確信せざるを得ない。

 それだけではない。わかったことがある。

 この部屋を狂わせてしまったのは、紛れもなく、彼と私だ。














 窓の外から微かな光が差し込み、いつもより重い瞼を開ける。ここは……私の部屋だ。さっきまで私が見ていたものは、走馬灯のようで、その実ただの夢だったらしい。

 身体が少し重たいが、身体を起こし、窓の外を見やる。

 夢の中で見ていた靄など、どこにもなかった。視界はぼやけてはいるが、彼と花見をした公園を、花々に邪魔されながらでもここから確認できる。これから夜が来るのではなくて、朝になるようだ。

 部屋の一面に敷き詰められた、様々な色の百合や胡蝶蘭が、自らの存在を姿と香りで主張する。混ざり合う強い香りに、思わず噎せ返りそうになった。その花のために、隙間という隙間に貼り付けたガムテープが、例外なく、窓枠にもあった。……これでは、窓は開くはずがない。玄関の鍵だって、捨ててしまったのだから、どこを探したところで見つかるはずがなかった。

 あの夢は、いったい何だったのだろう。夢にはその人の深層心理が表れ、本当の望みや思いが反映されるというが、あの夢もそうなのだろうか。

 だとしたら、これは。

 これは、まったく逆の状況ではないのか。

 夢の中で私は、外に出ようと必死になった。こわかった。自分たちで作り出してしまった、わけのわからない空間に閉じ込められて。あなたがどこにいるのかもわからなくて。あなたのことも、私のことも、私がいったい何をしてしまったのかも、私はすべて忘れて、ただ怯えていたのだ。

 すべて忘れることを、私は望んでいたのだろうか。

 自分の罪も背負わずに、すべてを忘れるなんて、それは私だけでなく、あなたにとっても、ふたりにとって、大罪だ。

 私たちは、お互いなくてはならない存在だった。確かにそうだった。あなたも私も、どちらかが欠けてしまっては駄目なのだ。

 だから、ずっと一緒にいようと何度も誓いを立てた。傍にいることが当たり前なのだと、ふたりでそう確かめ合った。

 気持ちを分かち合うことだって欠かさなかった。何度も名前を呼んで、幾度となく愛していると見つめ合った。それがいけなかったとは思わない。ただ、やり方を、愛し方を、私たちは間違ってしまっただけだ。

 それとも、気持ちが足りなかったのだろうか。深く深くあなたを愛して、どこまでもあなたのために尽くして、それだけでは駄目だったのだろうか。私の気持ちが十分ではなかったから、失敗したのだろうか。

 あなたと一緒にひとつのことを成し遂げるという、その達成感ばかりに夢を見ていて、失敗した時のことなど考えていなかった。このミスは、笑えるほど単純だ。

 あなたは隣で、易々と成果を収め、安らかな眠りについている。あなただけが成功して、私だけが失敗した。

 けれどもこれはふたりのミスだ。最初から最後まで、これは、この計画はすべて、ふたりの共同作業だ。あなただけ成功しても、何の意味もない。

 ベッドのすぐ脇に、計画に使用して空になった硝子瓶が転がっていた。用意していた瓶はひとつのはずだから、やはり私は失敗に終わるのだろう。

 ここでいつまでもぼうっとしていても仕方ない。とりあえずはベッドから離れよう。

 何をするわけでもなく、ただ部屋を見渡した。あの夢は、非現実的なのにどこか現実染みていて気持ちが悪かった。けれどそれより、今、この状況の方が、気分が悪い。

 テーブルの上に、見覚えのないものが置かれていた。あなたと計画遂行の準備をしている時、ふたりで部屋中を点検したのに。家具の位置も、必要なものも、すべてふたりで話し合ったのに。こんなもの知らない。

 何てことない、至って普通の、透明の硝子瓶。ラベルは器用に剥がされているが、わかる。

 あなたは、自分用に予備を用意して、服用した。私には何も言わずに、内緒で。

 ふたりで一緒に、と何度も言ったくせに。

 沸々と感情は湧き上がる。止められない。ふわふわした頭の奥から、胸の奥から、全身が、言葉にできない悲鳴を上げ、震え出す。どうして。約束が違う。提案したのはあなただけれど、私だって同じ思いだった。許さない。いいえ、許すわ。許せない。あなたも私をひとりにするの。好きよ。もう嫌。大好き。どうして。愛してる。どうして。

 どうして。

 ずっと眠ったままだった頭で考えていると、眩暈がした。吐き気もする。もういい。考えるべきことなど何もない。

 あなたに裏切られた今、私には何もなくなった。あなたと一緒に見ていた夢をひとり占めにされた。許せないけれど、もうどうでもいい。

 これはあなたと私の罪。ふたりで一緒に背負わなくてはならないもの。

 だから抜け駆けは許せないし、許されない。あなただって、それがわかっていたはず。

 それとも、私にそうするように仕向けたのかしら。事実がどうであろうと、あなたはふたりの計画に泥を掛けて穢した。あなたは私にとって、一番の罪人。だからあなたには、罰が必要でしょう。

 綺麗な最期なんて、いらない。あなたにも、私にも。

 どちらにしろ、計画は失敗。あなたが計画を台無しにしたから。

 こうなれば、もう何だって構わない。一度崩された美しさは、元には戻らないのだから。

 あなたと準備をしながら、部屋のあちこちを片付けてしまったのが今の痛手だが、きっとひとつくらい、何か良い方法が残っているはずだ。美しくなくても、私が望むのはハッピーエンドなのだから。

 もう一度、この不思議な部屋を見渡してみる。よく見てみれば、随分歪なセッティングだ。あんな夢を見るのだがら、それはもう相当に。行く手を百合や胡蝶蘭に遮られながら、まずはキッチンへと移動してみることにした。

 こういう時の定番と言えば、やはり包丁だろう。探す価値はある。キッチンにも華やかな彩りで、そこかしこに植木鉢が置かれているが、この際見た目はもういいだろう。適当な場所にそれを移し、戸棚を開ける。もしあるとすれば、ここにあるはずだ。ここにないのなら、どこにもないだろう。

 夢を見ていた感覚がいまだに拭えず、期待はしていなかった。加えて、いらないと処分した覚えもあった。やはりないのだ。きっと、私たちの最期に、包丁は似合わないからだろう。

 他に何か、良い方法はないだろうか。角のあるものを振り下ろすには力が足りないし、何よりやりづらい。何かこう、包丁の代わりになるような、鋭利なものがいい。思い付きこそしないが、部屋を探し回る他に手段はない。どうせ最後なのだから、あなたと用意したこの部屋を、もう一度見て回るのもいいだろう。

 キッチンに入る前にも通ったリビングは、ほとんど片付けられていた。不要なものは少しずつ処分したのだから当然だ。夢の中でもテーブルに残されていたスマートフォンは、やはり何故か充電コードに繋がれたままだった。これももう、いらないだろう。充電コードごと、手頃な植木鉢に放った。

 リビングには欲しいものどころか、もの自体も極めて少ない。ここを探しても意味はなさそうだ。

 洗面所や浴室、トイレまでを見回る。張り切って整えただけあり、やはり使えそうなものはない。ここまでかと思いながらも、玄関に入る。ガムテープが何重にも、頑丈に隙間なく貼り付けられていて、その様が不格好で少し笑った。あの時は、あなたが必死になっていくつものガムテープを、必死に切っては貼って、休んではまた切ってと繰り返している背中を、ここで眺めて微笑ましくなった。

 こどものようなあなたの必死さが懐かしい。一緒に最期を迎えようなんて、穏やかな笑顔で言ったあなたの顔を、私はようやく思い出せた。日常会話に紛れた言葉でも、あなたが冗談じゃなくて本気で言っているのが、私にはわかった。だから私も、あなたと同じ穏やかさで、二つ返事をした。何も後悔していない。

 幸せだった。いつ来るのかわからないその時に怯えるよりも、有意義で至高の最期だと思った。だから、そのために部屋をふたりで片付けて、いらないものを捨て、必要なものを揃え、部屋を整えることが、楽しくて仕方なかった。結婚式の準備みたいだと、私は秘かに思っていた。ふたりで計画を立てて、花を買い、当日の晩餐を考え、薬を飲み、手を繋いだまま眠った。眠りに就く前、お互いの顔をしっかりと目に焼き付け、同時に瞼を閉じた。瞼の裏に、あなたとの思い出を描きながら、右手であなたの体温を感じて。今まで、これ程安らかな時などない程に、穏やかで、充実した時間が過ぎていった。

 そして、気付けばあの夢の中に、何もかもを忘れた私がいた。

 決して、忘れたかったわけではないのだと今ならわかる。私は門の扉を叩けなかっただけだ。勇気がなかったのかもしれない。けれど、もう夢のことはいい。

 私たちの最期に、ぴったりなものを見つけた。まさか靴棚の上に放って置かれていたなんて。右手に持った感覚は悪くない。重さはそれなりにあるが、何より握りやすく力も入れやすい。

 上機嫌のまま、歪な玄関扉を後にした。次こそ最後の仕上げだ。楽しくないわけがない。あなたもきっと、気に入ってくれるはず。

 小さくあなたとの思い出の歌を口ずさみながら、あなたのいる寝室に戻り、ベッドに上がった。あなたは、いまだ私の方を向いたまま。恐る恐る、頬を指先で撫でてみる。氷みたいにすべすべして、いつまでも触っていたい。ひとよりも白い肌が好きだった。さらさらした黒い髪が好きだった。私よりも大きな手が好きだった。そっと手を取ってみると、驚く程硬く、ひんやりとした手が私の指を包み込んだ。ちゃんと指を繋ぐのは、すべて終わってからでもいいだろう。

 あなたの冷たい手から、一度自分の手を戻し、息を吹きかけて温める。こうしていると、季節がひとつ戻ってしまったみたい。

 備えあれば患いなし。何もかも、きちんと準備をしておいて良かった。玄関で見つけた宝物を手にしながら、勝手に口元が緩む。

 さあ、どこをどうしてあげよう。お腹を裂くべきか、それともメッタ刺しにするべきか。手段は色々ある。

 やっぱり、心臓がいい。もう動いていなくたって、これがなければ、あなたは息をできないのだから。

「……あなたを殺して、私も死ぬ」

 口に出してみると、まるで恋愛小説みたい。拙くも、儚く美しい、ありふれた恋愛小説。見渡してみれば、百合と胡蝶蘭に囲まれたこの部屋は幻想的だ。これから赤い装飾が、もっと部屋を華やかに彩ってくれる。

 華やかな最期のために、花狭を右手に握り直し、左手でそれを支える。可愛い桃色のグリップすらも、見ているだけで嬉しくなる。

 私より、ひと回りもふた回りも大きいあなたの上に跨って、心臓の位置を確かめる。今度は、失敗しても大丈夫。あなたは一度、成功しているから。それに、あなたはもう、痛くはないだろうし。

 狙いを定めながら、ゆっくりと、確実に、腕を下していく。骨に当たる感触はなく、思っていたよりも鋏はすいすいと進む。うまい具合に刺せたみたいだ。医学の知識なんて持ち合わせていないけれど、なんとなく、この辺りが心臓だと思う。今は止まっているあなたの心臓の鼓動を、冷たい金属を伝って感じられる。とくん、とくん、と小さく跳ねる、あなたの小さな心臓。本当は取り出してしまいたいくらいなのだけど、あまり時間を掛けたくない。それに、あなたに見られていると思うと恥ずかしい。

 刺したままの位置から、今度はゆっくりと腕を上げる。あなたから離れた花鋏の先から、ぽたぽたと赤い液体が落ちて、あなたの服と白いベッドのシーツを汚した。シーツはいくら汚れたって構わないし、どうせこれから、また同じ色で彩る。

 鋏の先に気を付けながら、あなたの隣にごろんと横たわった。安らかなあなたの寝顔が、眠りに就く前の瞬間みたいで落ち着く。期待と興奮で高鳴った心臓が煩い。これが最後の仕事だというようにばくばくと音を立てる。煩わしいけれど、これが私の生きた証だ。

 あなたの血液で手が濡れているが、滑らないようにしっかりと花鋏を握り直した。きっと痛いだろう。あなたのいない切なさと比べたら、何てことはないだろうけれど。

 高く腕を掲げてから、ゆっくりと腕を下していく。刃先が揺れると、赤い滴がぽたぽたと落ち、ここに下ろすのだとポインターの役目をする。

 あなたに導かれるまま、そっと鋏を下した。無理矢理に割り入ってくるきりきりとした痛みが、手先を狂わせそうになる。しっかり握っているから、大丈夫。あなたが隣で見守っているから、大丈夫。

 少しずつ、深くへ進むと感触が変わる。痛みには何とか耐えられるような気がする。このまま、ゆっくり、慎重に。

 私の心臓は、いまだ高鳴るのをやめない。これは期待とか興奮ではなくて、ただ本能的な恐怖だ。今まで経験したことのない痛みと出血量に、私が私に逆らって、やめろと指令を出す。

 けれどこれは、私だけの意志じゃない。あなたの意志でもある。

 私の心臓を目掛けて、鋏を突き付けているのは、私のではなく、あなたの手。そう思えば、こわくない。恐怖ではなく、はやく満たされたい感情でいっぱいになる。ぎゅっと力を込めて、より深くへと侵入していく。痛みはもちろんあるし、息より先に意識が飛んでしまいそうだ。

 意識が飛ぶ前に、鋏を身体の内から引き出した。上がり切った呼吸をする度に、血液が漏れ出している感覚がする。

 これで私も、あなたと同じ星になれる。一等星みたいに輝かしい星でなくても構わない。誰にも見てもらえないような、僅かな輝きの星で十分だ。その方が、あなたとふたりきり、夜空で愛し合える。

 再びふわふわとした意識で、あなたを見つめる。これまで感じたことのない幸福感と安心感が、私を包み込んだ。震える指先で、やっとあなたの手を握る。力は入らないが、手を繋いだ。冷たいはずなのに、ほんのり温かい。

 なんて素敵な最期。私の隣に、あなたがいる。

 もう一度、夢を見たいから瞼を閉じた。

 このおかしな部屋で、あなたとふたりきり。

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