第22話 華蔵の機転
「勘兵衛様、百人一首の写本を借りられそうです。夕刻に越前守様のお屋敷にお出かけください」
――こいつ、いつの間に……――
華蔵の唐突な話に驚いた。話を聞くと、顔見知りになった秀綱の屋敷で働く女中に華蔵が渡りをつけたとのことだった。
だが、その写本は、秀綱の奥方のものであった。持ち主が持ち主だけに、華蔵が軽々と受け取るわけにはいかない。そのため某が指定された刻限に、秀綱の屋敷に出向き、秀綱から直々に受け取るという段取りを踏まえねばならなかった。
「勘兵衛、奥から聞いた。意外じゃの。歌の修練に目覚めたか」
信道の来訪を待ち受けていたのは、秀綱だった。話は女中から奥方に伝わり、秀綱も信道が百人一首を知りたがっている旨を耳にしたのだろう。某は恐縮して頭を深く下げた。その様子を見た秀綱は軽く笑い流して写本を差し出した。
「歌も大事だが、あまり熱を入れるなよ。今川治部大輔殿(今川氏真)のように軟弱になってもらっては困るゆえの」
秀綱は釘を刺して、写本を手渡した。某は秀綱から写本を恭しく受け取り、懐に大事に抱えて秀綱の屋敷を辞去し、長屋の自室に戻った。
「勘兵衛様、いかがでした」
問う華蔵に、某は頭上に写本を高く掲げた。
「お借りできた。華蔵、お主のお陰じゃ。感謝いたす」
「子供みたいに、はしゃがないでくださいよ」
華蔵はぶっきら棒に応えた。少し剣のある言い様に感じたが、某が浮足立っていることに華蔵が鼻白んだ所為なのだろう
――制さねばならぬな――
某は文机を出し、硯で墨を磨りながら努めて気を落ち着けようとした。
紙を布き、筆を取り出し、丁寧に写本を開く。
先に花輪からもらった文が参考である。花輪がしたように、歌人の名のみを記して、彩に託そうと考えた。そのために写本を読み進めていくのだが、某の心を的確に表す歌が見つからない。ただ、かつての歌人たちの想い歌に多さには驚いた。
写本を食い入るように見ていたので、目が疲れた。某は座ったまま背伸びをして、心身の疲れを癒した。
「華蔵、昔の歌人は、なぜこんなに想い歌が多いのであろう」
華蔵に問いかけたが、途中で欠伸が出て、後半は不明瞭な発音なのが分かった。
「暇だったんですよ、きっと」
華蔵が淡々と毒をはく。某も同感なので腹から笑い声を上げた。
「でも、女衆にとって、想い想われというのは、最大の関心事ですからねえ。知っててもあながち無駄にはなりませんよ」
華蔵は、某が文机においた写本を静かに手に取った。ぱらぱらと捲っていた華蔵の手が、藤原義孝の歌で止まった。
「お主、文字が読めるのじゃな」
「ええ、多少は。俺も一応は武家の出なので」
答えてすぐ、華蔵は『しまった』という表情をした。華蔵が隠す半生が微かに顔を覗かせた。だが、ここで嵩に懸かって問うても華蔵は心を閉ざすだけなのは分かっている。某はあえて何も聞かず、華蔵の捲った藤原義孝の句に目を落とした。
「君がため 惜しからざりし 命さえ 長くもがなと 思いけるかな……よい句じゃな」
「でも、武士としては、少し軟弱かも知れませんよ」
華蔵は遠慮がちに再考を促した。だが、某はこの歌にこそ我が真意があると感じた。
「否。華蔵、正しくこれぞ我が意じゃ。命を捨てるを厭わぬ武士でも、会いたいと思えばそれまで命を保ちたいと願うもの。この歌じゃ。華蔵、感謝するぞ」
某は早速筆を執った。筆と紙を前にして、心が躍っているのがわかる。斯様にやけた主人を見るに耐えかねたか、華蔵は腰を上げ夕餉の仕度に懸かったようだ。
そんなことは意に介さずに某は文に『藤原義孝 勘兵衛』と記した。
翌日、彩が長屋に姿を見せた。某は、逸る心を抑えて、彩に文を手渡した。
某と二言三言言葉を交わし、嬉しそうに帰ろうとする彩を華蔵が呼び止めた。見ると華蔵は彩に菓子を握らせていた。彩は明るい声で礼を言って、帰っていった。
「勘兵衛様、お使いの子供には土産くらい渡してあげないと」
「全くだ、抜かっておった。華蔵、忝い」
彩への配慮を忘れていた不明を恥じた。
翌日、某は秀綱の屋敷に写本を返しに行った。すると、門番の家臣から某が来たら邸内に入るよう仰せつかっていると言われ、別の家臣から書斎に案内された。
「おう、勘兵衛。歌はもういいのか」
「はい。とりあえず手習いの代わりに写本は全て移しましたので、奥方様にお返しに上がりました」
「歌と言えば、関東の名将であった太田道灌殿も歌にある時に目覚め、その後歌人としても相当な技量を発揮された話を思い出した。勘兵衛も、このまま最上家の太田道灌となるか」
「おからかいはご免被ります。とうてい、そこまでの器量は某にはございませぬ」
秀綱は扇子を取り出して膝を叩き、呵々大笑した。
「まあ、それはよい。本題に参ろうか。いよいよ殿が、山形にお戻りになる。到着は五日後くらいになろう。儂が段取るゆえ、殿にお目通りをする準備をせい」
「お城に上がるのでございますか」
「当たり前じゃ。城での酒宴に呼ばれるであろう。北ノ方様も同席なさるはず。手柄話を重臣一堂の前で語れるぞ。よいな」
秀綱はこれだけ伝えると、すぐに城に向かって出かける支度をすると言って、奥に下がった。秀綱はじめ重臣たちも義光の帰国準備で大童なのだろう。
確かに山形城内で殿や重臣一同を前に手柄を語るのは名誉である。しかし、最上家重臣がそろう中での酒宴は気が重い。酒を飲んで潰れるわけにはいかないという重圧が某にのしかかってくる。
――せめて茶会にしてほしい――
だが、その茶の作法も某はよく知らない。いずれにせよ気乗りがしないのだ。某は、その日の夕餉の席で華蔵に愚痴った。
「断ったらだめですよ、勘兵衛様」
窘められた某は、乱暴に漬物を頬張り音を立てて噛み下した。
「飲めるお主に、某の気持ちはわかるまい。重臣の前で恥を掻いたら、越前守様の顔にまで泥を塗る仕儀となるのじゃぞ。それに……」
言い淀んだ先を華蔵は知りたい風に視線を某に向けている。華蔵の鬱陶しい視線を避け、目を合わさずに先を続けた。
「それにな、右京大夫様(義光)の前に出られる服など、某は持っておらぬ。某はやはり田舎侍。甲冑以外に誇れる服などないのじゃ」
「確かにそうです。ごもっともです」
華蔵も頷く。
「金に余裕があったら、勘兵衛様は「槍や刀を備えますもんね、納得です」
「服だけでも気後れするのに、さらに潰れては立つ瀬がない……」
「勘兵衛様、ここは、信頼できる方に相談されてはいかがでしょう」
「某に心当たりはないが……。華蔵。誰か、城内に知り合いでもおるのか」
「いえ、城内に知り合いがいるのは、勘兵衛様ですよ」
「はて、某は山形城内に知り合いなどおらぬぞ。どうしてもとあれば、越前守様から服をお借りしようかとは考えたが……」
言葉が飲み込めなかった某に華蔵が囁いた。
「花輪様に相談の文をお書き下され。きっと、助けてくれましょう」
さっと身を引いた華蔵は、文机を用意をして、再び現れた。
「女子は殿方に頼りたい心と同じくらい、殿方に頼られたい心がありまする。さ、今こそ、花輪様に頼る絶好機ですぞ」
――その手があったか――
たしかに、花輪に相談する手が最良であろう。しかも、花輪に文を出す口実にもなる。それにしても華蔵の機転に某は驚かされる。だが、華蔵の案に乗らない手はない。某は、花輪宛に窮状を記した文を華蔵に託した。
「明日は、おれの知り合いの商人が、城内に入ります。そいつは、彩にいつも菓子を渡してるんで、手紙も託しましょう」
華蔵の自信のある口調がとても心強かった。
勘兵衛の恋~北の関ケ原異聞~ @kuromusya
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