お茶漬

小説初心者

第1話お茶漬

夜中の集合住宅の一室の扉は無言で開かれた。

開いた男は疲労の色のままに、靴を上がりかまちに停めた。

男が靴を脱ぎ終えると、背後より

「おかえりなさい。」

と声がした。

男が声の方に向くと、女の姿があった。

男の妻、ミカである。

彼女は、男の疲労を見てか、挨拶の返事を聞く前に

「アキオさん、何かして欲しい事ある?」

ミカの質問は如何にも新婚らしかった。

一方のアキオは、些か返答に困っていた。

「何か?」という漠然に、返答するのに苦労したのである。

アキオの眼前の妻ミカは、如何にも何かをしなければならない、しなければ罪である、

と言った具合の態度である。

その態度がアキオにも、移ったのだろうか?

アキオの方にも、妻の要望に答えねばならない、と言った理念が浮かび上がってきた。

しかし、時刻は夜中、アキオには妻のミカが急な要望に応えられるとは思えなかった。

それ故にアキオは

「手早く食べられる物を用意してくれるかな?」

とミカに返した。

ミカは難儀した。

なぜなら、アキオは今晩は夕食を済まして来ると、ミカに伝えておいた為である。

アキオ方はすっかりこの約束を忘れていたようだが、ミカは夕食を外食で済ませてしまっていたのだ。

ミカは考える。

当然家の台所には夕の残りは無い。

食品戸棚には色の濃いカップラーメンしか無く、とても疲れきった人間に出せる代物では無かった。

食品戸棚、食品戸棚。

ミカの思考がそこへ行き着くと、思考は突然閃へと昇華した。

お茶漬け、そう、お茶漬けである。

普段はなかなか利用しないが、確かに、食品棚の何処かにお茶漬けがあった筈だ。

ミカの閃が確信に変わるのに大して時間は掛からなかった。

「分かった」

ミカは短くアキオにそう返した。

彼女の信念溢れる一声はアキオの緊張を解いた、いや、解いてしまったのだ。

アキオは足早に台所に向う妻の背を眺めながら、安心により怒涛に湧いた疲れに耐えながら、

重い足取りを食卓へと向かわせた。


やがて、アキオは食卓である木製テーブルにたどり着いた。

アキオは、柔らかな食卓の光を浴びると安堵の息を吐いた。

彼は、今日一日、彼を苦しめた労働の鎖を解く様に、荒々しくネクタイを解いた。

彼は、労働への憎しみを込めながら、手早く部屋着に着替た。

今日一日が、少しは報われた気がした。

彼は、部屋着のリラックスを感じながら、食座に腰を降ろした。

クッション性を持った座椅子は、彼の尻を優しく持ち上げている。

その触覚に彼は、いよいよ安心した。

台所の方からは、妻が棚から食器を降ろす音がする。

食器と食器の素肌が触れ合う、涼しげな音は、アキオに慰安をもたらした。


やがて、アキオの耳に水の湧く音が微かに聞こえてきた。

音は段々強まって、微かに生じかけていたアキオの眠気を優しく覚ました。

その後、部屋には、碗に湯を流し込む音が響いてきた。

あの、水音はアキオに少々の尿意を催させた。

しかし、アキオは最早、部屋を抜けて用便を済ますのも面倒であった。

彼は、座椅子にかけながらも、弱い尿意のもたらす甘い苦痛さえも堪能していた。


ほどなくして妻のミカは台所より茶碗を運んできた。

茶碗には、薄らに湯気が登っている。

ミカは猫舌の夫の為に、少しの間食事を置き冷ましていた。

この些細な愛情は、勿論、夫のアキオに知れる事の無い片思いであった。

が、彼女には、そんなことは問題にもならなかった。

やがて、茶碗は食卓に降ろされた。

すると、アキオの眼前には、

優しい緑茶色の湯と、そこに差し込まれた白い匙、暗い刻み海苔、

孤島のように頭を出す白米、そしてなにより梅干が鎮座していた。

アキオは、梅干を認めると、反射的に唾液を催した。

無論、この梅干は、食欲の細い疲れた人間への配慮であった。

アキオは生唾を飲んだ、この幸福を少しでも長引かせたかったのである。

ミカは、アキオがお茶漬けを観察している間に、彼の食座の対面に腰を降ろした。

彼女の内には、最愛の夫の幸福を眺めてやろう、という気持ちがあったのだ。


やがて、アキオは白い匙に手を掛けた。

すると、ミカは食い入るようにアキオに集中し始めた。

アキオは、匙に茶汁と白米を掬い始めた。

ミカは、アキオの口に匙が差し込まれるのを、今か今かと待っている。

そのミカの注目を、アキオは横目に認めている。

いよいよ、アキオは安心した。

未だ若さを残す彼には、心の内には未だに結婚生活を信じきれない部分があった。

しかし本日、彼は妻の、慈愛溢れるその優しい顔の前に、彼の疑念を十分に晴らせたのである。

彼の安楽はいよいよ魂にまで届いた、食卓の明かりさえも彼を祝福している。

彼はとうとう、お茶漬けを口に差し込んだ。

茶汁は梅干を溶いて、仄かに酸っぱかった。

その為に、彼の顔は少し驚きを表した、それに呼応するように妻は微笑んだ。

彼は、妻の様相を認めると気恥ずかしく笑んだ。

彼の、気恥ずかしさは丁度、優しさと、酸っぱさを内包した、あの茶汁にも似ていた。

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