ヴァンパイアキッス

不適合作家エコー

ヴァンパイアキッス


 僕、立木誠という人物をかいつまめばどんな説明になるだろうか。


よく言えば実直に、悪く言えば何の取り柄もなく気づけば社会に出ていた。


何の変哲もないサラリーマンだった。


特別運がいい訳でもなく、かといって悪いと思った事もないそんな人生だった。


そう、それも昨年までの話だ。


きっかけは父の患った認知症。


いや、正確には脳腫瘍を原因に脳内の血管がどうとかで記憶力が低下している。


認知症という症状が見られる状態とかなんとからしい。


結果、僕は家庭のためにヘルパー二級の資格を取った。


勤務の傍らに通う資格受講はなかなかハードだったが、人間は必要な事というのは存外耐えれる様にできている様だった。


とはいえ受講が完了しても僕の暮らしは楽にはならない。


会社で働き、帰って介護をするだけで手一杯だからだ。


国の援助は介護の苦労を帳消しにするほど面倒見の良い訳ではないらしくお国が言うには彼らはあくまでお手伝い、補助であり一から十までの面倒は見ないそうだ。


だからデイサービスなどの施設に預ける日以外は会社から帰ると真っ先に父がした様々な問題の解決をするのが日課だった。


生活の為にやむおえないとはいえ、大の大人が一人、何も出来ないで僕の帰社まで家にいるのだから帰宅を迎えるのは排泄物の異臭である事が多い。


トイレ介助、入浴介助、食事介助に就寝介助、ざっとそれらを終えると布団に倒れこむ。


今年はこれといった思い出もなく、それが僕の日常だったが、それも慣れてしまえば特別大変には思ってはいなかったし、大恩を感じている親父の面倒を見る事は僕にとって最高の恩返しの時間だとも思っていた。


では、そんな僕を運が悪い側だと認識させたのはなんだったのか……それは、つい先日の事だった。


 職場研修で救急法を学んだ帰り道だった。


僕にとっては父の体に何かあった時の事を思うと仕事でそれを学べる事を嬉しくさえ思っていたのだが、まさかその当人が心臓発作を起こすなんて思いもよらない事だった。


「ん?……は!?」


停電から復帰したテレビの様に唐突に千切れた視界がつながる。


しかし、その景色はあまりにも不可思議。


ふわり、ふわりと漂う視界と、人に囲まれた自分を眺めながら有り得ない現実をぼんやりと眺め、次第に意識がはっきりとしてくる。


「あれは……僕!?じゃあ今の僕は……浮いてる!!?」


俗に言う幽体離脱だと気付くまで数分は取り乱したが、やがて事態はそんな場合ではないことに気付く。


よく見れば倒れている僕の本体は野次馬こそいるものの誰も然るべき動きを見せてはいない。


「え……これ……ヤバくないか?」


奇しくも本日救急法を学んだばかりの僕の脳裏に浮かんだのは心停止から3分で脳死に至るというレジュメの見出しだった。


このままでは幽体離脱どころか生界そのものを離脱してしまう。


とはいえ心停止している体はどうやら自力で戻れる物でもないらしく、人に触れることも助言もできない。


「大丈夫ですか!?」


「おっ!!」


一人の青年が僕の両肩を叩き意識の確認を始める。


それは講習でも見た意識が急に戻った時に無意識に手を振られる場面から身を守る為の呼びかけ方。


どうやら多少の知識を持った人が来てくれたらしい。


「困ったな。俺はそんなに詳しくないんだけど……」


そうは言うものの、僕は彼に期待を込めて祈るしかない。

青年は真っ先に周囲への指示を出した。


「そこの青い服の方、お店を探してAEDを持ってきて下さい」


「そこの髪の長い方、119番に電話して下さい」


「そこの黄色い鞄の方、出来るだけ沢山人を集めて戻ってきて下さい」


「よし……」


さっきのは謙遜だったのか、そう思うほどに青年は淀みなく指示を出す。

しかし、問題はここからだった。


「あなたはどうするの?」


「心臓マッサージを……してみます」


青年はそう言うと心臓マッサージを行いながら携帯で119番通報した電話の応答をこなす。


【救急ですか?火災ですか?】


「救……救急です!」


携帯で電話した男性が緊張気味に受け答えをする


【住所はどちらですか?】


「東京都……はい、大型アパートの裏路地です。あっはい。近くまで車で入れます」


「状態ですか?意識はないです。怪我も……ないです、はい、倒れてるのは一人です」


流石に電話の先の隊員は落ち着いた対応をする。大まかな情報は淀みなく伝わった様だが、その通話の最後が問題だった。


【心肺蘇生法は出来ますか?】


「あっ……私は出来ませんが、できる人がいるみたいです」


【そうですか、では救急隊の到着までに交代して行う必要がありますから、彼の動きをしっかり見てください】


電話は滞りなく終わった。


しかし、電話を終えた男性が振り返ると、そこには緊張した顔立ちの青年がいた。


「す、すいません……チャッケンダッカンでしたっけ?チャッカンダッケンでしたっけ?」


「え……?」


その言葉が周囲にざわつきを呼んだ。


得てしてそういうものかもしれない。

不慣れな行動というものは混乱がつきものなのは当然だ。


「えっと、患部を着で健が脱だから……」


漢字では書いて字の如くだが、とっさに声に出したそれが混乱を招いた。


「お……おいおい大丈夫か!?」


着患脱健、その言葉は主に介護で使われる着脱の手順を表したもので、着るときは抵抗のない内に患側から服を着せ、脱ぐ時には健側から服を脱ぐ事で上手くいくことを示したものだ。


意識こそないが外傷もない僕には不必要な事だったが、それに皆が気付くには少し時間がかかった。


そう、どうやら、悲しい事に、その場に集まった中で一番冷静なのも、知識があるのも声さえあげれない僕だった。


「お、落ち着きましょう!とにかくわかるだけの事をやるべきです」


分からないなりに衣服を脱がせてくれた電話の男性が青年に言う。


「よし!」


僕は小さく安堵した。すでに人が集まってから少なく見積もっても5分はかかっている。


僕は少しでも早く心肺蘇生法、心臓マッサージが始まることを祈った……しかしだ。


「まずい……」


「28…29…30、人工呼吸行います!!」


流れは一見スムーズだった。

手持ちのハンカチを使った人工呼吸もしっかりしている。


しかし......しかしだ。


肝心の心臓マッサージが問題だった。


初体験になる彼は失敗を恐れてかあまり力が入っていない。


救急法を学んだばかりの僕にはそれが見てすぐに分かった。


「あれじゃダメだ。心臓マッサージは骨が折れるぐらい力を使うんだ……あれじゃ心臓に届いてない……」


確か胸が5センチ沈む力……それはなかなか思い切りのいる強さなのだ。

精一杯やっている彼を責められる訳もないが、これではせっかく人工呼吸で送った酸素が体に回る量が少ない。


「はぁ、はぁ、だ……誰か変わって下さい」


「おいおい早いよ!?」


ものの三周、計90回も心臓マッサージをしない間に青年は息を切らせて交代を求める。


言えた義理ではないと思いながらもついつい誰にも聞こえない声を上げた。


【脳死】


僕の脳裏に嫌な予感が過り、幽体でありながら嫌な汗を感じた。


電話の隊員の指示通り集まった人が次々に交代して心臓マッサージを試みてくれる。


しかし、最初の青年に習ってか、誰も力強くそれ行わない。


「AED、見つけました!!」


だから、その声にどれだけ気持ちを楽にした事だろうか。


肩で息をしながら男性がAEDと、それを貸してくれた店長を連れてきてくれたのだ。


「心肺蘇生法続けて!AED付けるよ」


AEDの機材からケーブルの繋がった二つのパットを心臓を挟む様に貼り付ける。


「!!この人……」


パットはうまく肩骨を避けて貼られていたので綺麗に体に張り付いている。


もし、これが肩骨の上に張り付いていたら、パットが綺麗に張り付かずにAEDの効果が正しく得られない可能性があったのだが、どうやらこの店長はそういった知識があったみたいだ。


【実行の必要があります心肺蘇生法を中止して離れてください】


「よし!みんな離れて!!」


一斉に人が離れる。


その光景はなんだか頼もしく、他人事でないにも関わらず気分を高揚させた。


【スイッチを押してください】


AEDが再び申告する。


「押すよ!!」


「って、あ……待って!?」


その瞬間、僕は気付いた。


僕の体には、まだ懐中時計のネックレスが残っていて、それは電導率の良い金属で、つまり……


「痛!イダダダダダダ!!」


肉体の痛みが伝わり僕の胸元に痛いほどの熱が伝わってきた。


【次の心臓ショックの準備を行います。心臓マッサージを再開して下さい】


僕の痛みなど知るはずもない機器が淡々と送った指示に従い、心肺蘇生法が再開される。


「あっ!うわぁー」


そして、心肺蘇生法を始めた男が熱を帯びて赤くなった懐中時計にようやく気付いて自分が火傷しない様にと紙を丸めたものでそれを外してくれた。


「ふぅー遅いよー。それにうわぁーじゃないだろうが……あ……」


文句を言いながらも安堵しそうになった僕の前に再びあの問題が襲いかかる。


そう、弱い心肺蘇生法だ。


「……マジか……無いよりマシかもしれないけど……」


「このままじゃ、助からないわね」


「え?」


そこには、僕をしっかりと見つめる凛とした瞳の女性がいた。


「私、何か変?」


首をかしげる仕草にドキリとしたのは、スラリとした体躯に整った顔立ち、小さな口から覗く八重歯と凛々しい瞳がとても印象的で、恐らくほとんどの人間が美人と答える様な女性だったから......ではない。彼女が誰にも見えないはずの幽体の僕に声をかけたからだ。


「あ……貴女には僕が見えるんですか!?」


月並みな返答だが、有事故の簡潔な質問とも言えるそれを口にした僕は、それを聞いた彼女の表情にギョッとした。


目を見開く、そういう表現が適切だろうほどに開眼した目にうっすら涙を溜めた女性が何やらブツブツと後悔を口にしている。


「やっ……やっ……やらかしたー!!私とした事がこんな初歩的な……初歩的なミスをおおおぉぉぉお!!」


何を悔やんでいるのか、そもそもこの人は本当に頼っていいのか、疑問は沢山あった。しかし


「!!」


僕は自分の手が透け始めている事を見て、自身の時間が思いの外ないと知る。


(もう、手段なんか選んでいる場合じゃない……)


僕がここで死ぬという事は恐らく介護の必要な父の死も意味する事だろう。


それは……それだけは嫌だった。

意思の疎通も叶わない今の父だが、それでも天寿の全うまで生きて欲しい。


それだけが今の僕の生活の芯なのだ。

それを思い返すと、自分の死さえそう積極的に思えなかった助かるための行動に不思議と力が湧いた様に思えた。


(今、できる事を全力で……)


僕は意を決して先の女性の両肩を握りしめた。


「なっ……なに……!?」


突然の行為に口を動かす彼女の言葉を聞かない。


己の願いだけを叫ぶ。


彼女の声をかき消すほどに大声で、ただただ力強く叫んだ。


「助けてください!!お願いです」


「なっ!でも私は……」


「貴女しかいないんだ!!僕たちを助けられるのは貴女だけなんだ!!」


「本当に私でいいの?」


「頼みます!!」


「ふん……なら、後悔……しないでよ?」


僕は言い切った。


押し通し、ついにちゃんとした心肺蘇生法を得られるチャンスを得たのだ。


しかし、その時、僕はもう少しでも、彼女の瞳の濡れている理由を聞くべきだったのかもしれない……


「どきなさい!!」


女性は髪を払う様に男を僕から引き離すと、そこに座り込み力強い心臓マッサージを始めた。


そして、そんな場合でもないというのにドキリとするほど躊躇なく、ハンカチも無しに人工呼吸を……キスをした時、僕の幽体は形を失い、ボヤける様に意識がとろけていった。


……

……



ぼーっと目を開く。

白い天井、しくりと痛む腕の点滴。

どうやらここは病院らしい。


(あ……そっか。助かったんだ)


初めに記憶が、少し遅れて理解が追いついてくる。


その時、ガラリと引き戸が開く音がした。


随分寝ていたのか頭が重く、持ち上げるのが億劫で首だけを音の方へと向けると、そこにはあの時の女性がいた。


「良かった。目覚めた様ね」


心底安堵した様子で女性が言う。


(優しいひとだったんだな……)


恐らく僕は数日は寝ていたのだろう事は机に積まれた見舞い品から理解出来た。


それまでここに足を運んでくれていたのかもしれない彼女に僕はとても嬉しい気分になったのだが、次の瞬間、サクリ……僕の腕にそんな音と鈍痛が走った。


悲しげな表情の女性と、驚愕する僕、僕の腕は彼女の持ったペーパーナイフに刺され、血を吹き出していた。


「わぁ!?あぁ?あわあぁぁぁあ!!?」


言葉にならない。なぜ?どうして?

分かるはずがない。助けておいて殺す?殺す気なのか?動機は?面識もないのに?


そんな混乱と逡巡の中、彼女だけが冷静に言った。


「落ち着いて、もう治ってるわ」


「え?えぇ!?」


彼女の声に我に返り、不可解だが、自分の腕にキズがない事に気付く。


「え……て……手品?」


「やっぱり、移ってしまったのね……私は君に過酷な運命を移してしまった」


彼女はなんの事か分からないでいる僕にそう言った。


「驚かずに聞いて……と言うのも難しいと思う。言いにくいけど君はもう人間じゃない……」


「?」


冗談……かと茶化そうとも思った。

でも、確かな痛みと傷のない腕、彼女の悲しげな瞳がそれを阻み、僕は彼女の語る非現実な現実を受け止めた。


「吸血鬼?きみと、その……キスした事で?」


「……」


彼女は躊躇いがちに頷く。

どうやら彼女にとってそれはあまり見栄を張るものでもないらしい。


買い摘めばそういう事だ。

僕は命を彼女に懇願し、代わりに彼女の病を移されてしまった様だが、彼女の話を聞く限り、病の影響は僕が知るテレビで登場する吸血鬼達ほど絶望的なものには感じられはしなかった。


名前の大塔である吸血の衝動は弱く、自分の血でも代用出来るし、私生活の食事は今まで通りに嗜める。


弱点として有名なものが陽の光、ニンニク、十字架。とはいえ十字架なんて最近は見かないし、ニンニクなんて大した偏食でもない。


陽の光に至ってはちょっと酷い日焼け程度で、日焼け止めで十分にカバーできる様だ。


しかし、彼女の顔は晴れる事がない。


「ただね……私たちの寿命は嫌という程長いの……」


「え?……それはいい事なんじゃないの?」


どうやらそれが彼女が吸血鬼に持つ一番の問題であり、僕への罪悪感らしかったが、僕にはそれがよく理解できなかった。


「君の腕は傷が治ったんじゃないの。戻ったの」


「戻った!?」


聞き返す僕に彼女が頷いた。

彼女は僕の、そして自分の体を形状記憶合金の様なものだと例えた。


つまり、この病に感染した瞬間から僕は身長も体重も変化しなければ怪我も病も空腹すらないという。


しかし、それを聞いても僕の意識はそう変わらなかった。


「そっか……まぁ、貴女がいなかったら死んでたかもしれないんだから……やっぱり感謝だと思うな……じゃなきゃ僕はモチロン、家の父親も……あぁ!!」


僕は言葉を止めた。

みるみる青ざめていく。

なんてことだろう。


そこで……僕はようやく気付いたのだ。


あれから何日だろうか、父が家で待つ事実。


それは僕にとってこの不可思議な現実に巻き込まれた我が身よりも随分と重い緊急事態だった。


「ご!!ごめん!急用を思い出した!!」


「えっ……!?ちょ……ちょっと待って!!」


彼女の制止も聞かずに僕は病室を飛び出した。ガラガラと僕の腕に繋がった点滴のローラーが音を立てる。


「邪魔だな……!!」


僕はそれを腕から引き抜く。

引き抜き方が悪かったのか、少し大きな傷が腕に出来るがみるみる治る、いや、戻ってゆく。


(……なるほど……)


僕は家へと急ぎながら、自身の変化を実感した。


話題に上らなかったが、多少なりとも身体能力は向上している様で階段を飛ぶ様に下りる。


「きゃ!?」


「なに?今の……患者さん!?」


寸前で回避した僕を見た女性の声が耳に届いて苦笑する。そりゃあそうだろう。入院患者の服を着てこの速度で走り去ればそう言われるのも無理はない。


行き交う人々を動体視力を頼りに避ける事もそう難しくは無かった。

病室を出てわずか数十秒、僕はすでに病院の門をくぐり、久しぶりの日を身体に浴びた。


「ぐっ……た……確かに日焼けみたいだな……」


日の光は僕の身体に痛みをもたらした。

小さな日焼けの様な痛みだ。ただし、継続して、である。


「ええい!!」


僕はその痛みを無視して走った。

走って家を目指す中、物に溢れた東京の街は沢山の日陰がある事を改めて認識した。


日向と日陰が何度となく交差する。

焼けて、戻り、また焼ける。


繰り返される億劫な鈍痛、それでも僕の意思は変わらなかった。


「頼む!頼むよ親父……まだ、まだ死なないでくれ!!」




僕は母を知らない。


と、いっても離婚ではない。

それどころか父は結婚経験が無い。

そして、僕と父には血の繋がりもなかった。


「いつか……いつか改めて思えばなんて無い物だらけの家族だったのだろうと笑える日が来るだろう」


それが僕の親父、立木正司の口癖だった。

親父は仕事に忙しい人だった。


だから、というと親父は怒るが、親父は五体満足な間に交流を持てたのは夕食どきの短い時間だけだった。


それでも親父は男手一つで僕を育ててくれた。

どんなに忙しくても夜は僕の勉強に付き合い、その日に答えられなかった解答は必ず翌日には調べていて、それはもう得意げな顔で教えてくれた。


それが普通の僕には手厚い親子関係だったのかどうかは分からないが、少なくても僕はそれが大きな恩に感じられていたし、親父の思い出はさも満足そうに問題を解く、そんな姿しか浮かばない。


だからだろう。


僕は可能な限り親父に長く生きて欲しかった。

どんなに疲れて帰っても親父の介護をする事に嫌気がささないくらい、僕は親父が大好きだった。


 走って、走って、ようやく家に辿り着く。


家内に入り焼けた皮膚は戻り、痛みは引いていくのに比例する様に不安は募っていく。


二日間、親父の介護をしなかった事なんて今まで一度もなかった。


今、親父はどうなっているのだろうか。


「親父ー!!」


返事は無い。

嫌な予感だけが募る。


風呂場と脱衣所、親離れを拒んだ親父とは中学に入学するまで狭い風呂に一緒に入る事があった。


いない。


 台所、高校卒業までは親父が料理番をしていた馴染みの空間。得意料理と言ってよく出していたのが茹でた枝豆には流石に文句を言いたかったが、それも叶ってはなかった。


いない。


 居間、寝室、手洗い、いない。いない。いない。


「やっと追いついた……」


その時だった。

玄関に彼女が上がり込み、息を切らせながら僕の肩を掴んだ。


「まだ、話は終わって無いのよ!?分かってるの!?貴方はもう人間じゃないの……覚えなきゃいけない事だっていくつも……」


ガタンどたん!!


彼女の声を遮るようにその音は、二階から響いた。


(まさか……)


僕は……それは無いと思いながらも二階の階段を登る。


親父は認知症を患う前に仕事の事故で両足を痛めている。

だから、僕はそこだけはないと思った。


でも、二階にはあるのだ。


僕が親父と一番長く過ごしたあの空間、勉強を教えるための部屋になっていた子供部屋……


「お……親父?」


ありえない場所だと思いながら、僕の足はすでにそれを確信しているように階段を上る。


登れる足のない親父が待つ、二階。


僕にとって何よりも親父との思い出が詰まった二階。


いるはずがない……いない……そう思いながら部屋を開ける。


「……お……親父?」


親父は、動か無い足を投げ出して、しがみ付く様に机に手をかけていた。


震える手はいったい何時間そこにいたことを示しているのか分からない。


「な……なにやってるんだよ……」


「あぁ、見つかってしまったか……すまんなぁまだ見つかってないんだが……」


くしゃりと崩れた顔で親父は笑った。


昔の……僕の質問を思い出したのだろう。


机には懐かしいノートが散らかり、親父がいかにそれを真剣に探していたかがわかった。


(……辛いなぁ……)


この場所だと比較してしまう。


あの頃はあんなに太かったはずの親父の腕はもう骨と皮だけを残していて、汚物にまみれた下半身、どこか虚ろな目、噛み合わない会話……それでも、親父は僕の顔を見て笑う。


笑う顔は、声は、何も変わらない。


「……」


親父が眠った後、僕は手馴れた動きで排泄介助をして、寝室を片付けた。


そして親父が起きた時の為に重湯を作り置きし、この2日に異常がないか確認する為に出張医を依頼する間、偶然にも居合わせてしまった彼女は黙って僕の動きを見ていた。


「それが、貴方の生きたかった理由なのね?」


「うん……」


父の寝顔を見ながら、僕は素直に答えた。


ここにきてやはり、僕は助けられた事に感謝していた。


あの時死んでいればもちろん、

吸血鬼の身体能力がなければもしかしたら、

親父の介護は間に合わなかったかもしれない。


彼女曰く半永久の命というデメリットは今もピンとこないけれど、その力は間違いなく今の僕たちを救ってくれたのだ。


「言い難い話しですが……」


かかりつけの医師とは短くない付き合いだった。


親父の違和感に気づいた5年前からわざわざ定期的に家に足を運んでくれる腕はもちろん人格にも信頼のある男だ。


その彼がそう言うのであればきっとそうなのだろう。


「あと良くて数日......覚悟はしておくべき時期がきています」


医師が言うに今回の事は無関係に、言わば天命とでも言うかのように、親父の身体は限界を迎えつつあると言う。


無理がなかったと言えば嘘になるだろう。


裕福でもない家庭での男手一つの育児に何一つとして言い訳しないで勤しんできた生活はたった5年、介護をしながら仕事をしただけで、それ以外に何もできずにいた僕なんかの想像の余地さえない心労だったろう。

苦労だったのだろう。


全く返しきれていない......恩なのだろう。


そして、恩だの義理だの以前に、親父に生きて欲しい。


それしか考えられない僕はきっと立派でもなんでもない。

ただただ親離れの出来ない子どもなのだ。


(あぁ……そうだ。僕はまだまだ子どもなんだ。これは、そう、ただの僕のわがままなんだ……)


親父と二人きりになった部屋の中で親父との思い出にふければふけるほどに未練は肥大し、後悔は波の様に押し寄せてくる。


ぐるぐる、ぐるぐると回る思考は出口のない迷路の様に繰り返され、深く深く迷う中で出口とは縁遠い迷路の奥底に鈍く輝いていた光に気付く。


「吸血鬼?きみと、その……キスした事で?」


「ただね……私たちの寿命は嫌という程長いの……」


「君の腕は傷が治ったんじゃないの。戻ったの」


「……まさか……」


鈍い輝きに思考が支配された瞬間、僕の頬を驚くほど冷たい汗が伝った。


親父を死なせない方法


それをつい最近、僕は手に入れていた。

すぐにそこに目がいかなかったのは灯台下暗しと言ったところだろうか、それとも暗いは暗いでも後ろ暗い思いに内心気づいていたからだろうか。


彼女は言っていた。

吸血鬼になるというのはその瞬間の姿の形状記憶合金になる様なものらしい。


だとしたら確かに親父を別れから遠ざける事も出来るだろうが、それは、つまり、恐らく、親父を永遠にこの病の中に、認知症の症状の中に閉じ込めてしまうこと……


 だが、それでも僕の喉は親父を見てゴクリと音を立てた。


《親愛ナル父ノ血液ヲ僕ノ中二取リ入レヨウ》


湧き上がる思いはどこか屈折していたが、

不思議な高揚感をはらんでいた。


 方法は本能的にとでも言う様に自然に分かった。


なんの工夫もいらない。

ただその首筋に僕の八重歯を突き立てれば良い。


ただそれだけで僕は血に満たされ、

親父の命は再び芽吹く。

僕は自分に言い聞かせる。


「全て上手くいく。全て良くなる。そう……これがスベテのサイゼンだ」


その時だった。


「そうだな。全て"貴方にとっての"最善にはなるかもしれなわね」


 唐突に僕の影が喋ったかと思えば、影はうねりをあげる様に僕の四肢に纏わりつき拘束した。


「ナ……ナンだコレワァァ!??」


「まったく……貴方が私の説明を聞かずに飛び出したのでしょう……」


僕を拘束した影の一部からずるりと現れたのは先日僕を吸血鬼にしたあの、彼女だった。


「……仕方なイダロ!急イデイタンダ。ソレに今ダッテ……」


「今だって?」


「ウッ……」


キッと睨む彼女に言葉を失った。


「今何が必要かしら?彼は眠り、医師も来た。今、貴方がすべき事は今の貴方が何者かを知る事だけよ」


「モガッ!?ア…アァぁああ!!」


彼女はそう言うと続けて自分の指を噛み、鮮血の流れるその指を僕の口に突き込んだ。


途端に口内にとてつもなく甘く、それでいて安心感のある香りが充満した。


「少しは正気に返った?」


その言葉にハッとする。

その僕の表情を見て彼女は僕を縛る影を解いてくれた。


僕にはその時のそれが衝動だったのか、それとも願いだったのか分からないから、僕を凶行から救ったのが彼女の言葉だったのか血だったのかも分からない。


ただ、おかげで僕は親父に最期の挨拶を、感謝をする事ができた。


数日して親父の遺書が見つかった。


剽軽な親父らしく、まともな遺産分類なんてまったく書いてない、大きな文字で【ありがとう】と【いい人生だった】とだけ書き殴られた親父らしい遺書だった。


だから、きっと、親父にとってそれが最善だったのだと僕も思う事にした。


吸血鬼になっても痛みがない訳じゃない。


足の不自由や慢性的な痛みの中に永遠に閉じ込めてしまう事はもしかしたらすごく酷な事なのかもしれない。


認知症の全てなんて誰にも分からないが、寝過ごした電車で見知らぬ駅の名前を聞いた時のパニックや不安感を定期的に感じているのではないかとある介護士は僕に言っていた。


そして、いささか古い本だが、とある介護本には認知症とは死への逃避行動だと記されている。


だから、僕はそう思う事にした。

親父はとっくに死ぬ事を受け入れていて、僕はそれを邪魔していただけなのかもしれない。


 公園のベンチで雲を眺める。

親父の介護を終えた時、僕は仕事も辞めた。


元より空腹のない吸血鬼の僕に働くメリットなんて無いわけだが、やりたい介護とやらないといけなかった仕事を同時に失ってみると僕は思った以上に空っぽだった。


でも、それもいいかもしれない。

空なのだから今の僕はなんでも受け取れる。


「何をほうけているの?」


「いや、次は先生が僕に何を教えてくれるのかなと思ってたんだ」


僕が彼女に微笑むと彼女の頬が少し色づいたように見えた。


「先生はやめてって言ったでしょ」


「「時間はたっぷりあるんだから」」


「!!?」


僕はクスリと笑い、彼女はワナワナと震えた。


 それは彼女の口癖だった。

出会った頃はウンザリした様な口調で言っていたそれも最近では急かす僕を相手に楽しげに使う事が増えた気がするのは僕にとっても嬉しい変化だ。


 こうして知っていけばいい。

僕を、そして彼女を知っていこう。そして、またやりたい事が出来るまで繰り返していこう。


時間はたっぷりあるのだから

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