ある人の夢の話

 時々転びそうになる弟の手を引きながら走った。弟は泣きそうな顔で必死についてくる。この辺りにいるのも、もう無理かもしれない。町外れへと続く角を曲がり、少しして見えた納屋の陰に隠れて息をひそめる。やがて追ってきた彼らが悪態をつき帰っていくのをじっと見送った。

 ほっと息を吐き出す。ぺちぺちと右手をたたかれ、抱え込んでいた弟をのぞき込む。弟は涙を目にためて必死に声を我慢していた。

「ごめんな、苦しかったよな」

 ばっと弟の口をふさいでいた右手をはずして声をかける。弟はすぅっと息を吸い込むと我慢していた分を一気に吐き出した。

 うわあああぁぁぁぁと泣き出す弟を抱きしめ、周りを見渡す。人通りの少ない場所とはいえ、さっきの彼らが戻ってきたら一発ずつ殴られるだけじゃ済まされないかもしれない。幸い彼らは自分の仕事を優先したらしく、ここへ走ってくる人影はなかった。

 弟の頭を撫でながらこれからのことを考える。この辺りでの居場所はもうない。日雇いの仕事も買い物も断られるだろう。次の町に移動しなければ。ここから近いのはガトロラの町だったはずだ。近いと言っても歩いて行くにはかなりの距離がある。だが旅支度をしようにも町を歩くだけでも危険かもしれない。顔も名前も知られ目を付けられている。

 くそっ生きるためにしただけなのに。

 彼らにも生活があることは分かっている。それでも日雇いの仕事を転々と続けるだけでは金が足りない。いつ消えるか分からない奴を正式に雇うのは馬鹿だと自分でもわかる。そうして盗みをするような奴ならなおさら。

 気づかれないように食料を買って、今日明日でここをたとう。いつの間にかすすり泣きになっていた弟に目線を合わせた。

 ああ、また思ってしまう。

「また新しいところに行くぞ。俺は少し買い物をしてくるから、お前はここで待っていられるな。もし何かあったらどこでもいい、とにかく逃げろ」

「にいちゃんは……?」

「すぐ戻ってくる。お前がここにいなくてもちゃんと探し出すから」

 弟がぎゅっと俺の服を掴み、ぐちゃぐちゃになった顔でじっと俺を見る。その頭をもう一度撫で、小さな手をはずす。さっき言ったことを繰り返し言い聞かせ、足早に町に入った。


 今度はちゃんと金を払っただろ。ふざけんな……。

 じんじんと身体中が痛む。蹴られた腹をさすりながら拾い集めた食べ物を見た。ばれずに買うことは無理だと思っていたが、考えていたよりも少ない。ガトロラに行くのはかなり厳しい。

 食べ物を盗んだ回数はそれほど多くないが顔を覚えられてしまっているからだろう。盗みの鬱憤を俺で晴らそうと思ったのか、関係のない奴らまで参加してきやがって。それに、あいつら……。

 町外れに出て納屋へと歩いていると、小さな影がこちらに向かってやってくる。走ってきた勢いのまま足元に抱きつかれ、倒れそうになった。

「すぐっていった! すぐっていった!」

 弟は俺の帰りが遅いことを怒っているらしい。しゃがみ込んで、俺だって遅くなるつもりはなかったんだと謝る。弟は俺の顔を見て怒るのをやめた。小さな両手が俺の頬に触れる。

「ほっぺ、あかい。いたい?」

 弟の眉がきゅっと下がる。自分が殴られて痛むわけじゃないだろうに。

「ちょっとな。でも兄ちゃんは強いから平気だ」

 それでも心配そうに弟は俺の頬をなでる。

「ありがとな、もう痛くないよ」

 そっと弟の手を取って立ち上がる。そのまま弟の手を引いて街道を進んだ。

 今まで雨風をしのいでいた場所からもいくつか役に立ちそうなものを持ってきているが、あまりに心もとない。俺たちのことを知らない旅人から何か買えればいいが。かなり運が良ければの話だ。


 流れのまま町を出て数日が経った。食べ物はとっくに尽きて水も残り少ない。時々出会う商人も俺の悪評を耳にしたことがあるのか、流れの者に売るものはないと考えているのか、食べ物を高額で売りつけてくるような奴ばかりだった。あいつらだって、いつこうなるか分からねぇのに。

 弟はぐったりと横になっている。少ない食べ物に連日歩き通しでは身体に応えるのだろう。幼い身ではなおさらに。そんな弟を背負えるほどの体力が俺には残っていなかった。休む回数を増やしながらも、歩くしかない。


「おや、これはかわいそうに」

 日が高すぎる時間に木陰で休んでいると、通り過ぎるだろうと思った馬車が止まり、身なりのいい男がゆっくりと歩いてきた。そうして俺たちを見下ろしながら言った。

「君たちはここで何を?」

 男が聞く。

「ガト、ロラに、向けて……。あんた、水、くれないか……」

 かすれる声でなんとか答える。哀れみでもなんでもいい。

 男は俺と弟を見比べて何かを考えていたが、少しして馬車の方に歩いて行った。心の中でため息をついて目を閉じた。日が暮れる頃にまた少し歩かなければならない。

 しばらくすると足音が聞こえた。薄く目を開ける。男が戻ってきたらしい。男はまず隣の弟の体を起こし、そっと水袋を弟の口に添えた。弟の表情が柔らかくなるのを見てほっとする。男は俺にも同じようにした。身体に力が戻る感覚がして男に礼を言った。

「助かった、ありがとう」

「礼を言うのはまだ少し早いよ」

 男はそう言って、弟を抱え込む。

「何すんだ!」

 ばっと立ち上がろうとするが、すぐには力が入らない。男は空いている方の手でよろめいた俺を支えると、後ろを向いて馬車に向かって呼びかけた。馬車から青年が駆けてくる。男と視線を交わした青年が俺を立ち上がらせた。

「先生、幼いヒトなんですから慎重に運んでくださいね」

「わかってるよ、僕でもそれくらいできるさ」

 青年が男に言う。俺は訳が分からないまま馬車に乗った。


「さて、説明が遅れたね。僕は水を与えるだけでなく、君たちを助けることにした。まぁ、ちょっと条件はあるけど」

 ごとごとと揺れる馬車の中で男が話し出した。弟は青年の膝で眠っている。俺は話を聞くことしかできない。

「これから僕らはファルガンに行くんだけど、途中ガトロラに用事があってね。だからそこまで連れて行ってもいいかなと思って。その代わり僕のところで働いてもらいたいんだ。いま人手が足りなくてさ。給与を払う余裕はあまりないんだけど、衣食住の保証はするよ。危険なことはさせないし、任せるのは雑用ばかりだから誰でもできるはずだよ」

「多くの場合、私が指示をするので安心してください。先生から何か言われたときも、言ってもらえれば私が対応します」

 命を助けるからその恩を労働で返せということか。胡散臭いが、今までロクな労働環境じゃなかったことを考えればいい話かもしれない。

「ただね、ちょっと問題があるんだ」

 男がわざとらしく困ったように言った。

「僕たちが面倒を見られるのは一人だけなんだよ。兄弟の仲を裂くのは心苦しいが君には選んでもらわないといけない」

「安全な暮らしができるなら仕事の報酬は」

「ごめんね、そういう問題じゃないんだ」

 俺の言葉をさえぎって男が言う。

「人手が足りないのは事実なんだけどね、人が増えるのも困るんだ。機密を守れないとかって規則があってね。研究に足りない人数で成果を上げろっていうんだ。ひどい話だよねぇ。それに向こうは規則をないがしろにするのに僕がそれをすると怒るんだよ? いやになっちゃうよ」

 男は大きくため息をつく。

「ああ、それでもう一つ。同じような理由で連れていけない方には生きていられると困る」

 それはつまり……。

「絶対に殺さなくちゃいけないわけじゃないけど、その方が手っ取り早いんだよね。僕らのことを詮索されたり、後で襲われたりするとかなわない。そんなことにかける時間はないんだ。悲しいけど合理的だよね」

 ごとごとと馬車が揺れる。弟はまだ眠っていた。

「あんた達に何もしないと、誰にも話さないと約束しても……?」

「約束というのはよく破られるものだよ。それこそ命の危険でもあればね。残念ながら特定の記憶を失うような薬も、その約束を絶対的なものにするかつての呪術も僕は持ち得ていないから」

 男は少し残念そうに言う。さっきは安心させるように話しかけてくれた青年は、何も言わず弟の頭を優しく撫でている。

 俺と弟のどちらかは、この男の研究か何かの雑用係として安全な生活を送る。そしてどちらかは、知りもしない機密を漏らさないためという理由で殺される。

「まあ、すぐには決められないよね。ガトロラに着くまで時間はある。それまでに決めてくれるといいよ。その間の食べ物の共有はするけど、それ以外何もしないから。馬車の乗り合わせだとでも思ってくれていいからね」


 しばらくして弟が目を覚ました。知らないうちに馬車に乗っていることなど初めは戸惑っていたが、男に助けられたことやガトロラまで連れて行ってくれることを説明すると、あっという間に彼らになついた。

 俺はそんな弟の様子を複雑な思いで見ていた。


 馬車が止まっている間、弟が青年に遊んでもらっているのを遠目に見ながら、俺は男に聞いた。

「あいつには話していないのか」

「君こそ話さないのかい?」

 男は間を開けず俺に聞き返した。

「彼は幼いからね。言っても理解できるとは思えない。それに変なかたちで心に残って、あとが面倒になってもいやだからね」

 男は俺に向き直った。

「僕はどっちでも構わないんだよ。君が彼を憎いなら、いい機会じゃないのかな」

 軽く話す男を睨みつける。男は少し驚いて言った。

「いいお兄さんなんだね。でも自分のことこそ大切にするべきだよ。そうだ、君が選べないのなら選ばせてあげよう。ガトロラについたらお茶の席を用意するよ」

 いいことを思いついたと楽しげにする男の言っていることが分からず、彼の説明を待つ。

「君たち兄弟、二人だけのお茶会さ。小さなテーブルにティーカップが二つ。カップの中は、ガトロラ産の香りの強い紅茶にしようかな。片方のカップにはスイートリリィを入れよう。甘さの強い毒でね、苦しむことはないんだ。眠るようにすうっと力が抜けていくものさ。ほとんど睡眠薬と言っていいくらいにね。まぁそれは永遠の眠りだけれど。本人ですら気づかないんだから、たとえ目の前で飲もうと相手には気づかれない。眠った方は後で連れていくとでも言って、ガトロラをたとう」

「それだとどっちが生き残れるか分からないじゃないか」

「それもそうだね。それじゃあ、お茶の前に教えよう。どうだい? 選びやすくなったかな?」

 俺は男の質問には答えず、馬車に戻った。


「ガトロラの町が見えてきましたね」

 青年が俺たちに言った。それを聞いた弟はぱっと目を覚まし、窓に顔を押し付けるようにして外を見た。今までいくつかの町を転々としてきたが、そのたびに弟はあたりをきょろきょろと見渡していた。俺は新しい土地が嫌いだ。弟のようにただ興奮して周りを見ることなんて、いつからしていないだろう。住むところ、働くところ、買い物だって気が抜けない。新顔があまり良く思われないのはどこでも同じだった。

 もうすぐその時がやってくる。弟は手汗を握る俺の気も知らないで無邪気に目を輝かせていた。


 町に入り、入り口近くで馬車が止まった。青年が先に降り、運転手と話をしている。俺はとび出しそうになる弟の腕をつかんで男と共に馬車を降りた。男はぐぐっと身体をのばしている。

「ずっと馬車にいるのは疲れるねぇ。時々はこうやって他の町に行かなきゃいけないんだけど、本当に面倒だよ」

 男は俺たちに話すわけでもなく言う。青年が戻ってきた。

「先生、宿をとってきます。以前と同じところに行きますが、どうされますか」

「ありがとう、後から行くよ」

「わかりました」

 青年は馬車の荷台から荷物を受け取ってから町の方へと歩いて行った。男が俺たちに向き直った。

「逃げようと思ったりしないのかい?」

「おとなしく逃がしてもらえるのなら、今からでも逃げるさ。あんたたちは俺たちと違って金がある。適当なやつを雇えば、逃げたって捕まるのは時間の問題だろ」

「まあそうだけどね。でも、それだと死んでしまうかもしれないよ?」

 そんなことわかっている。

「それとも殺してほしいのかな?」

 男が弟を見る。弟は俺につながれたまま、町の方に行きたそうに時々手を引っ張る。

「違う!」

 俺が大声を上げたことに驚いた弟が不安そうな声を上げた。ハッとしてしゃがみ込み、弟の頭を撫でる。少しして弟が落ち着いたのを見て、ほっとする。違う、俺はそんなふうに思っていない。でも、どうすればいい。

「少し買い物に付き合ってもらえるかな。あの子が行ってしまって荷物持ちがいないから」

 男がそう言って歩き出し、俺たちはそのあとに続いた。


 いくつか菓子を抱えた弟が男の隣を歩く。俺が手をつながなくとも大人しくついてきていた。さっきから男は出店があるたびに弟に買い与えている。初めは警戒していたが、その菓子の多さにやがて俺は気にしないことにした。

 弟が幼いこともあるだろうが、見られて困るということが理由だろう。店に入るとき、男は俺たちを外に待たせた。弟はもらった菓子を一つずつ口に入れる。

「うまいか?」

「うん! にいちゃんもたべる?」

 弟が持っていた菓子の一つを差し出してくる。俺はそれを受け取って口に運ぶ。ふわりと香る砂糖のかかった焼き菓子。甘いものはめったに口にすることがなく、思わす目を閉じて味わってしまっていた。

「おいしい?」

「ああ。うまいな」

 弟がいつになく笑顔でいるのもよく分かった。

「もっとどうぞ!」

「いいよ、あとはお前だけで食べな」

 弟は何度か俺に聞き直した後、ぱっと笑って一つ一つ丁寧に食べた。

 なんのために男はこんなことをしているのだろうか。男からすると選ばせるのは早い方がいいだろうに。やがて男が店から出てくると買ったものを俺に預け、次の店に向かった。


 何件か店をまわったあと、先ほど買った袋を俺に預けずに男が歩き出した。しばらく歩くと青年の姿が見えた。宿に着いたらしい。

「おかえりなさい。買い物をしてきたのですか」

 青年が男と俺から買い物袋を持てる分だけ受け取った。青年は一度それらを部屋に置いて戻ってくると、俺が持っていた残りを受け取って男に聞いた。視線で弟を指す。

「それで? 先生、彼が抱えている菓子は何ですか?」

「いやぁ、なんだか餌付けしているみたいで楽しくて」

「少しくらいなら何も言いませんよ。でも、これとか屋台のもので一番高いものじゃないですか? いつも費用が足りないと言っているのは誰ですか、買い物に行かれるのは結構ですが、こういう無駄遣いが生活を苦しくさせていることをわかってますか?」

 青年の言葉に男が口を尖らせた。

「お金がないのは僕のせいじゃないでしょ」

「それはそうですが、研究費が足りないから生活費を削っているんです。その生活費を圧迫してどうするんですか」

 青年がこれまでの行動をあげて男を責めた。男はむっつりとした顔で話が終わるのを待っている。ふいに服の裾を引っ張られて、弟を見た。

「どうした?」

「もらっちゃダメだった?」

 弟が小声で聞いてくる。自分が菓子をもらったことで男が怒られていると思ったのだろう。

「ダメじゃねぇよ。ダメだったのはあっちだから、お前は気にすんな」

「ほんとう?」

「ああ。だからあのお兄さんはお前じゃなくてあいつを怒ってるだろ?」

 弟は納得したようで、残っていた菓子をまたそろそろと食べ始めた。

 男と青年のやり取りも、菓子の匂いがする弟もどうにかなってしまえと思った。その時が来ることは恐ろしいが、それ以上に選択を引き延ばされているこの状況の方が耐えられなかった。


 その夜、俺たちは彼らと同じ宿で別の部屋に泊まった。小さな部屋にはテーブルとベッドが一組あるだけだったが、彼らからすれば安宿の狭い部屋も俺たちにとっては高価な部屋だった。

 歩き疲れた弟は使い慣れた毛布を抱いて眠っている。俺はその上から白いシーツをかけて弟の隣で横になった。身体は疲れているのに眠れない。

(ガトロラに着いたらお茶の席を用意しよう)

(甘さの強い毒でね)

 男の言葉がよみがえる。ガトロラに来てすぐだと思っていた。男の考えが分からない。面倒を避けるために殺すことを合理的だと言いながら、弟に菓子を与え、こうして金をかけて俺たちを生かしている。弟を連れていくような言い方をしてから、弟を捨てないのかと俺に聞く。

 知らない機密もこうして共にいる時間が長くなれば、何か知ってしまうかもしれないのに。彼らにとって困ることではなかったのか。いや、殺してしまえばいいと考えているのかもしれない。

 それとも、この間に逃げろとでも言われているのだろうか。

 どこにいっても変わらず弟の寝息が聞こえる。その小さな温もりを抱きしめながら俺はやがて眠りについた。


「おはようございます」

 青年が毛布とシーツをはがして言った。弟は寒さに体を丸めている。俺は弟と同じようにしたいのを我慢して身体を起こした。

「すみませんが、今日は私に付き合ってもらいます。弟さんも一緒に」

 青年がそう言う。俺は弟を起こしながら聞いた。

「あいつはいないのか」

「ああ、先生でしたら、別に用事があるのでそちらに行かれます。なので私と」


 身支度を済ませ、一階に降りると簡単な朝食が用意されていた。当然のように食べ始めた青年に倣って、俺はおずおずと手を付けた。

 まだ眠そうな顔でパンを食べる弟を見ながら青年に話しかける。

「なぁ、あいつが何考えてるのか分からねえんだけど」

「私にもわかりませんよ」

 青年は俺の言葉が何を指すかを理解したのか、少しだけ手を止めたが、それだけ言ってまた食べ始めた。青年と俺は食べ終わり、弟を待っている間、青年が言った。

「私もあなたと同じ疑問を持っていますが、先生がどうされるかはその時が来るまでわかりません。あの人はひどく気まぐれなところがあるので」

 淡々と話しながら、弟を見る青年の目には少しばかりの哀愁が見えた気がした。弟はこの青年になついている。青年も弟の相手をするときに特別いやな顔はしていなかった。むしろ、あの男のそばにいる時よりも柔らかな表情にすら見えた。

 青年が付け足す。

「ただ……気まぐれで、少し意地の悪い人ですが、合理性だけで行動される方ではありませんよ」

 青年は男を信頼してそう言ったのだろうが、俺は青年ほどあの男のことを知らない。気まぐれで意地が悪いことは何となくわかる。でも、それが俺にとってどうなるかは別の話だ。

 弟が食べ終わり、宿屋の人が器を下げる。青年はこれからの予定を話して立ち上がった。


 今度は青年の荷物持ちとして、俺は昨日と同じように紙袋を抱えて宿に戻った。弟は小さな飴玉の入った袋を手にしている。昨日、男にああいいながら青年も同じことをしていた。飴玉を買ってもらった弟が嬉しそうにすると青年はにこりと笑った。

 紙袋を置きに青年に続いて部屋に入ると、男がイスに座っていた。何かを飲みながら書類を読んでいる。男は青年と一言二言交わした後、俺たちを見ていった。

「付き合わせて悪かったね、礼を言うよ。そうそう、お茶会の用意ができたんだ。疲れているだろう? すぐに始めよう。特別にお茶菓子もつけてあげたよ」

 にこやかに話す男の言葉に、少しだけ忘れていた焦りと恐怖がよみがえった。瞬時に口が渇き、心臓がドッドッとうるさく鳴り始める。男の傍らに立つ青年の顔が曇っているのが見えた。唯一声を上げた弟は突然のお茶会に驚いていたが、わくわくしているのが分かった。


 俺たちが寝泊まりした部屋から紅茶の香りがする。一脚だけだったイスは別の部屋から一時的に運び込まれて二脚になっていた。小さなテーブルには同じ模様の赤と黄のティーカップ。焼き菓子がいくつか添えられている。

「さあお茶の時間だ」

 男が俺たちを呼び、弟は呼ばれたまま部屋へと入った。高そうな茶器やうまそうな菓子を弟はキラキラした目で見ている。少ししてから振り向き、ぼくたちだけでいいの? と青年に確認をとった。頷いた青年の顔は無表情で、彼と俺とだけが真実を知っているような気がした。

「どうしたんだい? お茶が冷めてしまうよ」

 部屋にすら入れないでいる俺を見て男が言った。弟も不思議そうに俺を待っている。ようやく一歩踏み入れた俺に男が言った。

「眠り薬は赤いカップだよ」

 一歩一歩が重く感じられる。入り口からテーブルまで数歩しかないのに遠い。実際の距離の倍以上を歩いているようだ。やっと隣に立つと弟が言った。

「こっちとこっち、いろがちがうね。にいちゃんはどっちがいい?」

「どっちでもいいよ。お前が選びな」

 声が震えそうになる。弟からすればカップの色の違いなんて何でもないはずなのに。そんなこと気にするなよ。

「うーん、いっつもぼくがきめてるから、にいちゃんがきめて」

 弟は全くの好意でそう言ったと理解している。いつも先に選ばせて俺は残った方をとっていたから、こいつなりに気を遣ったんだろう。それが嬉しくないわけがない。だけど、なんで、今。

「俺は……」


 弟は再びカップを眺め、同時に匂いを嗅いだ。そうして何度か息を吹きかけると、そうっと口を付けた。ずずずと音を立てて、弟が紅茶をすする。部屋の照明と反射してカップの模様がキラリと光った。

「いいにおいだけど、へんなあじがするね」

 ほうっと息を吐きだした後、弟は初めての紅茶についてそう言った。初めてのものに触れるとその感想を俺に伝えてくる。幼い弟にとってはそれが自己理解の過程だと分かっているが、俺は時々それが鬱陶しかった。

「にいちゃんはのまないの?」

 弟が聞いた。喉はカラカラに渇いている。

 俺は注がれた鮮やかな液体を見た。比べてはいないが、色も匂いも弟のものと変わらないのだろう。わずかな甘さを除いて。

 俺は手の震えを隠しながらカップに触れた。これを飲み干せば俺は永遠に眠る。弟は連れていかれて、おそらくは安全が保証された生活を送る。胡散臭い男の話ではあるが、青年がそばにいてくれるなら少しはそう信じられる。

 弟は俺のことを忘れるだろうか。俺は自分が幼いころのことをあまり覚えていない。きっとそういうものなんだろう。でも、俺は弟を抱え、いろいろなことをしてきたのに、弟はそのことをほとんど知らず、俺のことさえも忘れるかもしれない。

 町を出る前にすすり泣く弟を見て思った。蹴られ殴られたあと町の奴らに言われた。

 こいつがいなかったらよかったのにな。

 手の震えは抑えきれず、カップが受け皿とあたってカチャカチャと俺を嗤った。頭の中でそれでいいのかと俺が言う。

 いいわけない。でも、こうすることしかできない。

 ここから逃げても捕まるだけだ。仮に彼らが見逃してくれても二人とも飢えて倒れるのが目に見える。だったら一人だけでも助かるほうがまだマシだ。

 ようやく唇へとカップを添える。ぎゅっと目を閉じ、味も匂いも感じない液体をぐいっと流し込んだ。


 ぐるぐると考えていたからなのか、あの毒の作用なのか、頭がぼーっとする。口内が焼けてじんじんと痛んだ。

 このあとはどうなるんだったかな。俺はもうすぐ死んで、弟は彼らに連れていかれるんだっけ。誰でもできるような雑用って言っていたけど、こいつでもできるだろうか。

 弟はお茶菓子を食べながら、このおかしなお茶会を楽しんでいる。やっと俺は一人になれる。こののんきな顔を見るのもこれが最後だ。

 ふと弟と目が合った。弟はニコッと笑って、おいしいねと言った。俺はそれに頷いてからイスに背を預けた。

「兄ちゃん、眠いから少し休むな。お前、あいつらの言うこと、ちゃんと聞けよ。何かあったら、あのお兄さんに頼れよな」

 言いながら意識があいまいになる。弟が何か言っているのが聞こえたが、眠気に引っ張られ、俺は瞼を閉じた。


 ***


 馬と土のにおいがする。何度か砂埃が顔にかかり、ガラガラと馬車が走る音とわずかに人の話し声が聞こえた。

 瞼を開けると、感じていたものがそのまま目に映った。夢じゃない。

 少し手前を馬車と人が通り過ぎる。ここはどこだろう。ふと右隣が温かいことに気が付いた。顔を向けると、身体を丸めた弟が俺に寄りかかっている。顔は見えなかったが、弟からはすうすうと寝息が聞こえた。

 俺、生きているのか……。

 弟も俺も眠る前と変わらない格好をしている。身ぐるみをはがされたわけではないらしい。はっとしてあたりを見渡すが、男と青年は見当たらなかった。道端に置かれていることを考えれば捨てられたようだ。なぜだかは分からないが。

 きしむ身体を動かそうとすると弟がもぞもぞと反応したが、それでも起きないらしい。そうして体勢が変わった拍子に小さな包みが落ちた。

 軽く砂埃を起こした包みを引き寄せる。小さな見た目に反してずっしりと重い包みには手紙のようなものが結ばれていた。紐をほどいて手紙を読む。

 これを読んでいるってことは目が覚めたんだね。おはよう、僕はとても嬉しいよ。君に話した通り、弟君を連れて行こうと思ったんだけど、僕たちが思うより彼は強情でね。僕の話を全然聞いてくれなくてさ、君と一緒じゃないと行かないって言い張ったんだ。君たちにかける時間を僕は持ち合わせていないからね、人手は惜しいけど君の生命力に賭けて見ることにした。生き延びたのなら、そのわずかな時を楽しむといい。

 おめでとう、これは目覚めの祝いだよ。

 包みをほどいて中身を確認した。ずっしりと重かったのは包みのほとんどだった食料で、二人分としても数日分はある。挟まれていた巾着には金貨が数枚入っていた。すくなくとも一か月ほどは暮らせる。

 何が何だかわからないが、俺も弟も生きている。手紙に書いてあることを考えれば、死ななかっただけかもしれないけれど。

 弟が唸って、またもぞもぞと姿勢を変えた。こんなときでものんきにしやがって。危機感ってものがなさすぎる。

 もしかしたら、あの誘いはこの生活から抜け出せるチャンスだったかもしれない。弟をおいて、男と青年の雑用をしながら暮らせていたかも……。そう思って、俺は笑った。それができなかったから、こんな風に道端に座っているというのに。

 弟の頭をそっと撫でる。

 もう少し面倒を見よう。俺がこいつを見捨てられるその日まで。

 生き延びたわずかな時と手紙には書いてあった。どうせその日はすぐやってくるだろうから。


 ****


 時折、馬車の陰になる二人を数日の間、青年がじっと観察していた。青年は二日に一度ほど、食料と水を娘に化けて幼い子に渡しながら、馬車宿の向かいの建物で生活している。その傍らに男の姿はなかった。男はファルガンへとすでに発ち、青年は薬の結果を伝えるよう言われて一人ガトロラに残っていた。

 砂で汚れたガラス越しに、兄が包みを開け手紙を読んでいるのを確認して、青年は目を細めた。彼が眠った後のこと、そして男と話したことを青年は思い出した。


 何度後から兄を連れていくと言っても納得しない弟を見て、男がため息をついた。そうして部屋から小瓶をとって戻ってくると、眠っている兄に飲ませ、弟に言った。

「お兄さんはずっと眠っているかもしれない。それでも、君はそばで待つかい?」

 弟は兄をぎゅっと握って頷き、男は再びため息をついた。


「いいんですか、あんなことをして」

「ただの実験さ、まだまだ試作品だしね」

「彼らにバレたら面倒なことになりますよ?」

「研究費を出さない奴らに言われることはないよ。モルモットを飼う余裕もないんだ。これくらい大目に見るべきだろう?」

 それに、と男は付け足す。

「彼の生命力が及ばなければ、結果は変わらないからね」


 兄が弟の頭を撫でる様子をしばらく見守った後、青年は荷物をまとめた。彼らに見つからないように町を離れる青年の顔は笑っていた。



 了

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短編…? 沙夜 @sayo-newbie

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