生産品
湿原工房
生産品
採用通知が届いた。が、その社名に見覚えはなかった。忘れているだけだろうか……いや、そんなはずは無い。いくつも採用試験に向かったが、手帳にメモしていない会社に顔は出していない。大体にして、この会社名、偶然なのか私の苗字と一致しているというのに、忘れることがあるだろうか。最近は物騒だ、何処の誰が何を企んでいるか分からない、と妻は寝癖頭を梳きながら言った。妻の言葉はもっともで、葉書のむこうでなにやら知れない不気味な影が蠢いているようだった。
葉書の内容では何の会社だか想像もできない。住所を見ると驚いたことに家の隣の会社だった。すると、知らず知らずのうちに私を見て試験をしていたのだろうか。何気なく想像してますます身の毛がよだつ。朝日ののぞく他に、覗く者が窓越しにいるような気がして朝食は味がなかった。
「行くの?」非常識と言っている妻の目が、スーツに腕を通す私に向けられた。「一応ね」「止めなさいよ」「隣の会社だよ。ほら窓から見えてる。こんな近所の人間を騙すなんてしないだろ」「余計に怪しいんじゃない。今まで何している会社かさえ知らなかったんでしょ」「今も知らない」そう言っている間に私の準備は着々と済まされていく。
「とにかく、採用されたのはいいことだよ」妻はある会社に勤めていた。私は不安を振り払うようにして言った。「大丈夫だよ。心配しないでもいいから、おまえも会社に遅れるぞ」私は靴べらに踵を滑らせる。妻の顔は曇っていたが、私は気付かぬ素振りで家を出た。そこへ何かに追われるように男が横切り、走っていった。危うくぶつかりそうだった。
会社の高い塀に沿って入口に向かう。灰色のコンクリート塀が建物を隠して、外からは中を伺えない。入口の門は私の家の出口と同じ通りに向かって開かれていた。ひっそりと静かで、大型トラックが何台も置けそうなただ広いだけの空間があり、その向こうにコンクリート造りの工場があった。
どこに行けばいいのか分からず足を困らせていると、後ろから声をかけられた。驚き、振り向くと、そこには疲れに皺を刻まれたような顔の作業服の男が立っていた。「今日、入社された方ですね。どうぞ、中の方にお進みください」と男は私が何か言うより早く、私を案内していった。「どうして」私を採用したのですか、と尋ねたかったが「はい、何でしょう」とこちらを向いた男の疲労した顔に圧され、喉元で言葉が詰まってしまった。「どうして建物の入口が門の反対側にあるんですか」「ああ、私もよく存じませんが……安全、のためですかねえ」「はあ……」
入口が近くなってくると、少しずつ機械の唸りが聞こえてきた。ごんごんと鳴っているその本体はコンベアかと想像した。建物の角を曲がるとその壁の先に入口が見えた。男が扉を開けて「どうぞ」と私を促す。扉が開くと音は大きくなり、蒸気の噴出する音や、金属を叩く音が私の耳を裂いた。しかし目の前には、頼りなく黄色い電球がぽっぽと続く廊下しかない。「どうぞ、そのままお進み下さい」廊下の奥には銀色に光沢する鉄製の扉が見えていた。
「ところで、ここは何をしている工場なんですか」後ろから着いてくる男に私は尋ねた。「基本はみんな流れ作業ですから、心配なさらずとも構いませんよ」「……そうですか」廊下に響く、いかにも――いかにも過ぎてむしろ漫画みたいなこの音は、どこから聞こえてくるのか。耳についてしかたない、気にすることを強要しているようだ。廊下の奥からのようでもあり、両側に張られた壁の向こうからのようでもあり、私の頭の中からのようでさえあった。金属製の扉が近づき、男が私の前に回りこんで扉を開けた。急に光が強くなり、音も一層大きくなった。
高い天井に届きかけた大きな機械が、ゴウンゴウンと小刻みに震えているのが正面のスペースにすえられ、その機械の足元からコンベアが流れ、脇に並び作業をする男たちは機械の一部のように、黙々とただすべき事のみをしていた。皆一様に同じ格好で、顔まで同じように見えた。
「あなたの担当はこちらです。付いていらしてください」いつの間にか案内してくれた男は部屋の奥まで進んでいた。私は言われるままに付いて行った。コンベアの上を通りすがりに見ると、握りこぶしひとつ分くらいの、赤黒く、ニスを塗ったような光沢の塊が等間隔に流れている。コンベアをたどり、さきには大きな機械の四角い穴につながっていた。
男はその機械の中にコンベアの隣にある入口から入って行った。入口は小さく、身体を屈めなければ入れなかった。中にも作業中の人が数人いたが、ただそこにあるメーターを眺めているだけのようだった。「こちらです」と男が案内したそこには、小さな部屋の入口が三つあり、そのうちの一つが私を呼ぶように開いている。中に見えるのは人一人分のスペースと、背凭れを七割倒した椅子がある他には何もなかった。「どうぞ、こちらにお掛け下さい」中に入ると、私を認識して周りがぼ……と淡く青い光が灯った。言われるままに座ってみたが、どこを向いても何をすればいいのか見当がつかなかった。男に尋ねようと首を扉の方にひねると、音もないまま扉はすでに閉まっていた。一畳ほどしかない部屋に閉じ込められ、私は急に恐ろしくなり立ち上がろうとした。
手首に痛みが走る。見ると肘掛から鉄製の枷が手首を捕らえていた。シャー、シャーとスライドする音がして、足首と首にも枷が掛けられた。
「止めろ、止めろーッ」相手の意図を掴みかね、背中に毛虫が這うような気持ちがした。これから何をされるのか見当も付かず、ただ恐怖だけが私を叫ばせた。「出せ、ここから出してくれ、出してくれぇ」反応を見せない相手は私をじと見て、見詰め殺す気だと思った。体中から汗が溢れて、頭痛がしていた。
いつまでも叫ぶ力も無く、三十分後には目をむいて息切れをしていた。工場の目的は何だろう、メーターを凝視していた男は、あのコンベアの上の塊は、無表情の作業員は……思い出す光景は恐ろしく、この状態は私に最悪の空想をさせた。息が落ち着いてきたから再び叫ぶ。「人殺し人殺し出せ出せ出せ、ここから出せぇぇ!」そのあと気力は続かず、私は気を失った。
目を覚ました時には、家のベッドの上に私はいた。そして工場でのことを思い出す。夢だったのだろうか。隣りの工場が、夕べはうるさかったのかもしれない。知らず知らず工場に何か不気味なものを感じていたのかもしれない。職の無い私の世間へのコンプレックスが生んだ妄想かもしれない。
部屋から出ると、階下から朝食の準備をする音が聞こえてきた。
「おはよう」「あ、おはよう」食卓にはすでに朝食が用意されていた。ご飯とベーコンエッグ。「塩が無いよ」「ああ、こっちにあるわ……はい」白身の中でぷっくり膨れた黄身から、渦を描いて徐々に外へと塩をまぶしていった。さあ食べようかと思ったその時、妻が言った。「今日も工場行くの?」
私の手が止まり、思考も一瞬停止した。「え」自分から漏れたその声が頭を再起動させた。「やっぱり怪しいわよ、やめときましょうよ。昨日は何してきたか知らないけど、危なっかしくて見てられないわ。お願い、あそこだけはやめときましょう」言われずとも私は辞める気でいた。あんな工場にいると、いつかは気をおかしくするに違いない。「そうだな、辞めるよ」何があったのかは話す気になれなかった。自分の力を過信していた私がどうにもみっともなかった。「それがきっといいわ」「ああ」「生活のことは私に任せといてくれればいいのよ。焦ることなんてないから、ゆっくりやりましょう」「……いや」私の中で引っ掛かった妻の言葉に、私は思う前に声に出していた。「やっぱり行くよ」「どうして。あんな得体の知れない会社に勤めることなんてないわ」「いや、そんなことないよ。やることは流れ作業だし、それで給料がもらえるんだから、辞める手はないよ」「何言ってるのよ、それこそ怪しいじゃない。あなた、もっと冷静になって」「いやいや、大丈夫だって。心配なんて無いよ、みんないい人で、嘘なんて吐ける人たちじゃないよ」私は精一杯笑顔を作って話した。それでも妻は私にすがりつくように訴えたが、私は聞こうとしなかった。
昨日と同じスーツを着て工場に向かったが、門の前に来ると足がすくんだ。どこか公園にでも行って時間を潰そうかと思ったが、それでは妻を振り切って来た意味が無い。私は白い顔をして工場の中に足を踏み入れた。そのあとは、建物に入るまで自動的に足が動いた。中では相変わらず鳴っている機械の音に、耳を奪われた。
横から誰かが私の肩を叩いた。見ると、私の恐怖心を掻き立てる昨日の男がいた。「おはようございます」と私は言う。何でもいい、男より先に声を出したかった。男は軽く頭を下げ「今日はあちらの方へ行ってもらいます」と、私の言葉を流した。
男の指差す先は、あの大きな機械の隣り、それとは太いチューブで連結している比較的小さな機械があった。「わかりました、あそこで何をすればいいんですか」「ひとまず、あちらに行って下されば」私の背を掌がゆっくり押し、言われるままその場所へ向かった。男は付いて来ず、私はまだ口を利かない機械の前に立ち尽くし、助けを乞うように後ろを振り返り周囲を見た。無機質な表情、一様に同じ顔を並べ働く姿は狂気的で、乾いた目が白い光を反射して光っていた。今、私もこの工場の一人なのだと拭えない恐怖を感じた。
突然、唸るような大音が私を包み、私の身体は飛び上がった。背後の機械ががたがた振るえて騒音をたて始めたのだった。見ると機械の中を覗くガラス張りの窓がちょうど立った私の顔のあたりにあった。中を見ようと一歩近づき、音のうるささに嫌悪した。ゴウン、ゴウン、ゴウンという音は子供だましの工場のイメージのようで、機械のその大きさもそうだが全てが一昔、二昔ふるかった。中は熟れた柿のように朱い光は重たく充満して、ひよこの養卵箱を彷彿させた。何かが動いている。よく見ようとしても光が逆に細部を消して、それが何かわからなくしていた。一つや二つではない、同じ形のものが機械の振動に揺れていた。朱い光にその色はつかめないが、有機的な柔らかさを想像させる表面だった。
「ご苦労様、今日はもう上がってもらっていいよ」
後ろから聞こえた声に私は振り返る。機械の中の情景に魅せられていた自分に始めて気付く。「ごめんなさい、私、今日は何もやってなかったんですが」気圧に潰されそうな思いで言ったが、目の前の男は何のことなしに「いいよいいよ。ここでは新人はみんなそうなんだ、私もその一人だったよ。気にすることはない。そのうちにすべきはなにか、わかってくるものだから」そう言って持ち場に戻っていったようだった。
そのうちわかる。そんなもんだろうか。そんなに簡単に仕事は出来るようになるのだろうか。頭の中で思考をぐるぐる回していると、いつか我が家の食事の並ぶ食卓を挟んで妻と向き合っていた。「気分でも悪いの?」「え、どうして?」「あなたの好きなカニクリームコロッケ、一口も食べてないわ」ご飯の盛られた茶碗の隣りに、白い光の玉を反射させる小皿がある。「いや、何、今手をつけようと思っていたんだ」はははと笑って食卓中央の皿の上に並べられたカニクリームコロッケを箸で一つ、小皿に移す。しかしそのままそれを口に運ぶのもどこか恥ずかしく、一度それからは箸を離してご飯を掬った。
「ふふ、可笑しな人」箸を握った右手で口を隠して笑った妻に、理由もない苛立ちを覚えた。私はカニクリームコロッケの真ん中に二本揃えた箸を突き立て、彼女を睨んだ。「可笑しいか?」「ええ、可笑しいわ」「これも可笑しいか」私はぐりぐりと箸でころもの中身をかき回した。「ほほほほほ、やだ、この人やめてよ、窒息させたいの」「はは、可笑しいか。可笑しいか。もっと笑えもっと、はは、ははは」いつの間にか私も可笑しくなって、笑わずにいられなかった。激しく回すその手の下に、中身のどろりとはみ出したカニクリームコロッケ。
それを見た瞬間、今日見たあの朱い光の光景を思い出した。一つも同じところは無いのに、二つは酷似していた。思わず握られた箸を即座に離した。顔が青くなる。寒い、首筋が、頬が、額が、頭が。唇が震える。「あなた? どうしたの、それはちゃんと食べてよね」妻が笑いながら言う。食べる? これを?
私は洗面所に駆け出し、洗面台にうなだれうめいた。食道がひりひりする。口の中に未消化の細かい粒が不快に貼り付いている。「どうしたの? 大丈夫? ホントに気分悪かったの?」妻が入口の所で心配そうに顔を出す。「……いや、大丈夫。久しぶりに体動かしたから、少し疲れているだけだ。心配無いよ」「どうする……カニクリームコロッケ捨てようか?」再び私の中で二つの影が混同し、体は無理から胃液を吐いた。
「昨日の機械の中のものは、あれは何だったのです?」案内するものに歩速を合わせながら、案内するその男に訊いた。しかし男は工場の音に、私の声が聞こえなかったようだ。もう一度同じ事を質問してみたが、結果は同じで、もうそれ以上私も口を開かなかった。
私と案内の男は工場の奥へ奥へと入っていった。あの巨大な機械の右側の通路、それは初日に通った通路だった。しかし私がそれを思い出して恐怖を感じていないのは、この工場に慣れてきている証明になるのだろうか。
「ここが今日の君の持ち場だ。どうだ、一日ずつ昇格しているみたいで毎日身に気が入るだろ」こちらを向いた男のすぐ向こうに、メータが横二列にずらと並ぶ機械の上で、がしゅーがしゅーと巨大なジャバラ状の筒が二本、交互に伸びたり縮んだりしている。「ほら、ぼけっとしてないでこの前に立って」と言われるままに私は機械の前に立つ。メータの針は細かく同じ幅を振れている。ただ、中央の上のメータと右から二番目の下のメータが右いっぱいに振れ、決して動かなかった。それが何を意味しているのか知らない私は、再び立ち尽くし、ただその気体の漏れる音に耳をあずけ、メータの規則性を見守るしかなかった。振り向いても案内人の男はもういないだろうと言う直感は、私に振り向くことの無価値を確信させた。無価値と言えば、この工場の正体もいまだ知らぬ私にとってこの工場の知らぬ生産品は無価値であった。ここで私に価値のあるものは金銭だけだ。
しかし、今のところ何も能動的な働きをしていないことにいささか不安もあった。目の前の機械も、ボタンの一つでもあれば押しておこうかと思えるのだが、こうもメータばかりでは手の出しようがない。周りを見ても唸る機械らを形作る鉄板部分が鈍く青い光沢を跳ね返すだけで、触る必要のかけらも無い。ただ持て余す時間をどう潰せばいいのか考える以外なかった。そして、ふとここの初任給を知らないことに気付いた。どこかに書いていたのだろうか、見落としていたのだろうかわからない。
ジャバラのリズムが変わった。私はただそれを見つめている。心地の良いと悪いを同時に感じて、時間と縁遠い関係になった私を音だけが包み込んだ。がしゅー、しゅしゅがしゅーというこの音のみ聞いていられるのなら何も無くていいと思った。思っていたのにどこかで邪魔な音が鳴り始めた。洗濯機にプリンをいっぱい詰めて回しているような、そう丁度昨日のあれのような……あれの。
途端に私は現実に引きずり出され、音の原因が形に成っていく。同時に私の胃が物を戻している。目の前のメータの機械の側面に、何かをその機械内に入れるための管が上を向いていた。それに、喉から溢れる物を流した。いつからいたのか、私の後ろに男が来て私の背をさすってくれていた。なんとか気が落ち着いて涙をにじませた私に、男は「今日はもうあがっていいぞ」と言った。私はその言葉に甘えて帰ることにしたが、機械が壊れやしないか、壊れないにしても不調になりはしないかと心配した。最悪、首をはねられかねないとも考えたが、背をさすってくれた男はまるでいつものことのように私に対応していたのを思い浮かべると、無神経にも何もかも大丈夫な気がしてくるのだった。
太陽のまだ黄色い時間帯に家に帰った私は、真っ先に採用通知の封筒を出してきた。どこかに初任給を書いているのではと思ったからだ。が、表にも裏返してもどこにも記載してなかった。封筒にしまいもせずにその紙を床にほったらかして、昼食を摂ろうとキッチンに向かった。少しのご飯と、冷蔵庫にはカニクリームコロッケの残り。それだけで腹は足りた。テレビを点けてみたが、どのチャンネルも砂嵐だった。アンテナが向くべき方向に向いていないのだろうが、わざわざ直しに行くほどテレビに執着は無かった。
財布だけをポケットに入れ、外に出ることにした。人通りは少なく、しかし車の交通量は多かった。あてもなく歩いてみると、みんながみんな私と同じように、暇を潰しに外に出ているような気がした。大型トラックの図体と振動が、私を抜いて交差点を右に曲がる。慣れた町のはずなのに、私には何かぎこちなかった。つい二、三日前に突如つくられた町のような錯覚、その感覚はどれだけ歩いても私にまとわりついて離れなかった。ここで生まれ育った私なのに……と考えていると不意に古い友達に会いたくなった。この近くでは誰がいたろうかと頭を巡らせた。誰も思い出せなかった。遠くに見えるあの高いマンションのように白くかすんでいる記憶しかない。仕事探しに力を入れ過ぎていたからだろうか。行き先も定まらぬまま歩き続けた。交通量は相変わらずの量で、街らしい音が街に響いている。そのうちにビルが高さを競うオフィス街に入っていた。事務用の服装をした女性が三人、むかいから歩いて来る。
「あなた、何してるの」そのうちの一人は妻だった。他の二人に妻が私を紹介して、もう一度同じことを私に訊いた。工場の一件を大雑把に説明して「おまえは何やってんだ」と訊いた。「これから昼食よ、あなたも一緒に行く?」「いや、いいよ。家で食べてきたから」そう言って彼女ら三人の横を通ろうとしたら「あなたそっちに行っても何もないのに用でもあるの」と妻が言って三人は行ってしまった。そう言われ、私は立ち止まり、道を失った。
その時遠くに優しい川の音が聞こえて、私は静かなその音の方へと歩いて行った。時々、電車の音に消されながらも、せせらぎは涼しく空間を落ち着けていた。仕事の疲れも抜け切らないまま足の疲労は、すでにある程度溜まっていたのだろうが私はそのことに気を使うこともなかった
しかし、やっと辿り着き、川を望めば白い泡が漂い、水の色は洗剤を溶かしたような青白く濁って、臭いは鼻の骨を溶かしてしまいそうなほど不快だった。
何を夢見てこの川まで歩いてきたのだろうか、その喪失感は私の体温を奪っていく。私は抜け殻のように中身を無くし、家に自分の辛うじての居場所を求めた。家に待つ妻の顔を思い浮かべながら。
家に帰り着いた時にはもう日が落ち、月が光っていた。工場からは何も聞こえてこず、辺りは静かなものだった。
「ただいま」家の中はしんとして明かりが一つも点っていなかった。まだ、仕事から帰っていないのか、そう思いながら玄関の明かりを点け、腰を掛けて靴を脱いでいたいた。「お帰りなさい」前触れのない妻の声が聞こえ心臓が飛びあがった。見ると腰掛けた私の背後で妻が暗い廊下に私服姿で立っていた。「ああ、ただいま」「遅かったわね、今まで何してたの」私たち二人は部屋に入った。「町を歩いていたんだ」「遠くまで行ってたの?」「いや、川を見に行ってたんだ。これがたまらなく汚くて」「川?」「そう、川」「隣町の?」「え?何言ってんだよ、あるだろ、おまえの勤めてるところをこう行ったとこに……」「そう……川、あったかしら」「頼むぜ……おい、何してんだ」「地図どこにあったかしら」「信用ないな、俺」「えっとお」「もういいから飯食おうぜ」
毎日違う場所に使わされ、一つ一つの作業の意味がわからないまま、しかし、それを日常と感じるようになっていた。その場所に行くだけ行って、機械の前でぼっとしていると一日は終わる。ただ立っていればよかった。それでも案外退屈しないのは、毎日違う所にやられるからだろうか。お偉方の、職員を工場に留めているためのひとつの策なのだろうか。
それにしても、ここにはどれだけの機械があるのだろう。最後の機械を見た次の日は私たちはどこに行くことになるのだろう。考えている私の隣で今日の機械が唸っている。今までの機械ならコードやらチューブやらで別の機械とつながっていたのだが、今回のこの機械はどこともつながっていなかった。
何のためにひとつの機械に一人の人間をつけているのだろうか。私たちに何の意味があるのだろうか。機械を動かしているわけでも、機械を管理しているわけでもない。この工場に私がいる意味は? みんなそのことを疑問に思うことはないのだろうか。
なんだか急に足がふらふらと軽くなったような気がする。いつものようにまわりは誰もいない。私の胸で気持ちが隣の機械と一緒に、うずうずと振るえていた。それはついにここから離れる決心をさせた。工場中を探ってみよう。私はどうにもこの工場の目的を知りたくて堪え切れなかった。
工場としてはそれほど大きい方でもないのだろうが、あまりに機械が乱雑に置かれているせいで迷いかねない。目印といったら、だいたいどこからでも見えるあの、中央にある背の高い機械くらいしかない。
仕事の作業は日をおうごとに、少しずつ工場の奥へと進んで行く。私はまだ見ない奥の方へと歩いて行った。やはり用途不明の機械が道の両脇をかためている。形や高さもてんでばらばらで、同じなのはどれもが、ぶるぶるがたがたと振るえていることだった。人はどれも立っていない、それはむしろ私には好都合だったが。
さらに奥に進むとパイプが並列してアーチをつくっているところに出た。アーチの下はトンネル状に奥へと続く。これほど大きなパイプは、中央の機械に付いていたほかでは見たことが無かった。アーチの下を通るしかこの先を進む方法はなさそうだったが、暗く先が見えないその空間に足を踏み入れるのは、想像するだけで不気味だった。しかも、その暗闇からは得体の知れない怪物の声のようなものまで聞こえてくる。恐らく機械の音がアーチのトンネルによってエコーしているのだろうが、それをわざわざ確認しようとは思わなかった。
私は震える足を返して、今度は今まで仕事をした作業場を見てまわる事にした。人の気配を気にかけながら進む。子供の頃、探検ごっこをした記憶が思い出される。と、機械の音に混じって人の声が聞こえた。私は声のする方に向かった。機械の陰から除き見ると、一人の男が機械の前で背中を丸めている。その機械は、前に私が吐瀉物を中に入れてしまったジャバラがうるさい機械だ。見ていると彼も同じようにして機械の中へ吐いた。私の体はなかば勝手に動いていた。私は彼の背中をさすっていた。涙ぐんだ男が私を見た。「もう今日はあがっていいぞ」私は思わずしてそう言っていた。なぜ言ったのか自分で分からない。あるいは彼に同情したのかもしれない。ジャバラががしゅーがしゅーと音している。
ここ最近、朝の調子がすぐれない。働き疲れが溜まってきたのだろうと思う。しかし何だろう、どうもそれ以外に曖昧な違和感を感じるのだ。どこか身体が自分のものでないかのような不思議な感覚を、毎朝感じている。それもお昼くらいになれば治るのだが……やはり、仕事疲れなのだろうか。それにしても違和感は日増しに酷くなっているような気がしてならない。
毎日そんなことを思いながら、しかし体は全くそれを気にしていないかのようにベッドをさっさとぬけだして、顔を洗いに行くのだった。タオルで顔を拭き、あらためて鏡を見て、私は身を強張らした。
そこに写っている顔は、初めての頃から持ち場を案内してくれている男の顔だった。鏡の中の男の目は私の姿を探して落ち着かない。スイッチを切ったように私はその顔が自分の顔だと気付いた。……本当にこれが俺の顔なのか? 疲れに起源するような皺が幾本も幾本も刻まれ、まるで老人じゃないか……。私は信じられず何度も見返した。両手で何度も撫でまわした。しかしそれは紛れもない私の顔だった。
「おはよう」「……おはよ」「どうしたの、元気ないのね」椅子を引いて腰掛けると、その腰に違和感は増した。「なあ……俺、昔からこんなだったか」「え? いいえ」妻はきっぱりと言った。「今日は気分悪そうだわ」
かすかすの灰でもかじっているような朝食をとって、今日も工場へ向かう支度をする。妻が言う。「それにしても、最近やっと安心したわ」気もないのに私は訊き返す。「なにが」「だって、どう言ったってあの工場は怪しいわよ。でも、もう一年になるわ。それでも何にもないんだから、ほんと、ほっとしてるわ」虚ろな私に靄のような疑念が浮かんだ。「……君は……ほんとに俺の女房だよな……」「え?」
工場に入ると男が今日も出迎える。男の顔をまじまじ見る。見ているとだんだん無気力になっていく。私は、あらゆるものをただ嫌悪するだけの器になっていた。前を歩き、案内する男が背中を向けたまま言う。「今日の仕事が済めば、明日からあなたの担当する仕事が変わります」意味がわからなかったが、私は「はあ」とだけこたえた。
昨日の持ち場のところを通り過ぎ、例の無気味に思ったパイプのアーチをくぐって行く。怪物の声が耳を掻きたてている。それでも私は無味乾燥し、昨日ここで感じた恐怖感はなんだったのかわからない。一メートル先を歩いている男の姿は見えず、彼の足音だけが私を導くたよりだった。頭上に隙間なくぴったりと並ぶパイプの中でなにかが流動している。それは液体であるか、気体であるか、固体であるかすら判別できないが、パイプを震わすほどそれは凄まじい流れをもっていた。
「あそこです」男が言った。見ると、前方にぽつりと赤く点灯するものがあった。そこまでの距離はつかめない。気が付いてみると怪物の声は、入口で聞いたときとは比べものにならない大きさになっていた――闇そのものが怪物であるかのように。赤い光が男に隠れたかと思うと、私は男の背にぶつかる。男は立ち止まっていた。がしゃん、ノブを回す金属の音。そして眩しい白い亀裂が生まれる。生まれたもののつぎつぎと闇に喰われてしまう。亀裂が膨らむ。「どうぞ、お入りください」
そこは光るように白い部屋だった。あとから入ってきた男が扉を閉めた。部屋を見回してみたが、何も見つけられない。真っ白いだけの空間に、私と男が浮かぶように二人立っている。今まで養ってきた工場の印象とはかけ離れ、宇宙人でも出てきそうな雰囲気だ。
「ここはなんですか」男との沈黙に堪えかねて私は尋ねた。「ここで今の担当での最後の仕事をしてもらいます」彼は至ってすんとしている。「最後の仕事……」納得するように言おうとしたができなかった。「何をするんですか?」すると彼は事務的な足取りで、部屋を奥に進んだ。「こちらに」
行ってみると、そこは壁だった。男が壁に手を添えた。その箇所がスライドし飛行機の小窓ほどの窓があらわれた。男はそこを覗くよう私を促した。窓のむこうには見覚えのある光景が見えていた。
私の家、洗面所だ。鏡から見た視点のようだ。そこへ妻が、たたんだタオルを持ってきた。いつもの場所にそれを置くとダイニングのほうへと戻っていった。
「どういうことだ、これは」私は男に答えを求めた。が、彼は、まあ見ていろと言うように黙っている。私の頭は氷に浸けられたように冷めていく。もっとも明確な答えを与えてくれそうなのは窓の中のように思えた。体が死体のように硬く、しかし、異様な高鳴りする心臓に息が詰まる。今にも真っ白に意識を失ってしまいそうだ。
そこに男が現れた。男の顔は隣にいる男にも似ているが、それは私だった。こちらを見て目を丸くしている。男は自分の顔に手をあてて見る。気付くと、私も彼と同じように手をあてていた。
これは今朝私が体験した事だ。向こう側にいるのは私か? すると私は誰なんだ。隣の男が笑っているような気がする。錯乱した私を笑っているのだ。「大丈夫、全ては順調です」と男が言う。逃げ出すチャンスを窺っていた私の手首を握り言葉を続ける。「あなたは逃げても構いません。しかし、その前に行かねばなりません」どこへ。男が手を引く。「こちらです」壁を伝い右に歩き、右の壁に着く。
男が壁に手を触れる。そこには扉があった。もう一つの部屋があるようだった。その部屋は二人分ほどのゆとりしかなく、ぼんやりと青暗い。入って正面の壁にも扉がついている。初日に来たあの部屋の雰囲気によく似ていて、私の頭が入ることを拒んでいる。男の手はそれでも強引に私の手を引き、私の体は望んでいるようにそれを逆らえない。
入ると扉が閉まり、ぐうん、と音がして体が浮くような感覚をおぼえ、間もなく、扉が開いて、そこはまた青暗い部屋――広さは暗くて全くつかめない――、そこに誰か立っている。今度は男が先に部屋に入る。後に続いて部屋に踏み入る。
影を纏い顔が定まらないその人物が近付いてくる。私の体は冷えきって震えていた。「ようこそ、六十二番目」ゆっくり私の前に右手を差し出した。……。私はそれに応じないと判ると、その手を引っ込めた。訊きたいことがあったが、私のあごは言うことをきいてくれず、声にならない喉のかすかな音しか出せなかった。「大丈夫だ、分かっている」私はなぜこんなにも恐怖しているのだろう。「まず私は……」彼は名前を言った、私の心臓が大きく高鳴った。「……この工場を取り締まる会社の社長だ」彼の言った名は私の名だった。突然体内に異物を入れられたような心地悪さのなか、社長の言葉は続けられる。が、その意味を理解するだけのちからが、私にはもう残っていなかった。水の中にいるようなぐおんぐおんという音が聞こえている。それに倣って視界も水面を覗くようにぐらぐらと揺らいだ。現実感はかけらもない、泥酔しているときのように。
その時、ぱっと白い照明が明かり、瞬間にして頭も明瞭さをとりもどし、目の前の男を見た。私の顔がそこにあった。それも皺の深さはほかに見たそれとは比較にならず、生気は完全に失われ、残酷な描写を見るような嫌悪感を覚える顔だった。
溶けかけた胃にいっぱい、餅のように粘るヘドロを呑んだような不快感。
私は振り返って走り出した。扉は開きっぱなし、入ると自動的に閉まった。狭い空間が気分を苛つかせる。体じゅういたるところを掻き毟った。「ああ、ああああ、あ、あああ」気味の悪い昆虫が群をなして衣類の下に這い入ってくる。凭れていた側の扉が開き、そのまま外に倒れ出た。メーターが壁に並ぶ洞窟のようだった。「あ、ああ、ああ」下半身が思うように動かない。腕を必死に動かして這い進む。
と、後方から叫び声がする。私はしかしそんなことに構う余裕もなく、とにかく工場を抜け出そうとした。「人殺し人殺し出せここから出せぇぇ……!」
小さな出口をどうにか出て、やっと足も自由を思い出したようだった。私は人の見えない工場の中を出口にむかって走った。抜け出ることに難なく成功し、広いだけの空間を走り抜け、無意識のうちに私の家に向かっていた。が、家が視界に入ったとたん、家の中に危険を鋭く感じた。家は工場からは節穴だ。私は家の前を駆け抜けた。誰かが家から出てきたが、妻は仕事に出ているはずだし空き巣かもしれないとも思ったが、きっと、あの家には二度と入らないだろうからと、駆ける速度を緩めなかった。
それにしても、私はこのあと、どこに辿り着くのだろうと、工場を離れてきたあたりで思った。あてどのない我が身はどこにも預けようなかった。だからといって、引き返したとしても安息の地は後ろにはもうなかった。走ることが私の生来の目的であったかのように走った。さもないとジェンガのように崩れてしまうような気がしていた。だが、それはむしろ逆だった。車が私を勢いよくはね飛ばした。
転がりながら、私は不思議と落ち着いて、安心していた。道路わきの汚い川に落ちた。私に気力は残っていなかった。反吐のような川の流れにのって、ふさわしい所だと思った。
目が覚めると社長が立っていた。私は窮屈な椅子に寝ている。社長が言った。「これから、君は生産作業担当から、作業案内担当に移ってもらう」私は奇妙なくらい素直な気持ちになっていた。
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