寄り添うお茶漬け

荒河 真

寄り添うお茶漬け

 あなたはもうこの件には関わらなくていいですよ。


 家へと向かう道を歩きながら、今日上司から送られてきたメールの一節が頭の中で繰り返される。突然手持ち無沙汰になって、でも自分のデスクで仕事をしている振りをするほかなかったあの屈辱的な時間が再生される。事態を悟って、声をかけようにもかけられないでいる同僚たちから放たれる、憐れむような空気の匂いが蘇る。


 自分が担当していたプロジェクトで致命的なミスが見つかり、多方面に迷惑が掛かることが判明して、俺はプロジェクトから外された。「もっと前に確認しておくべきでしたね。次回から気をつけてください」と上司は言った。上司の言うことは正しかったし、感情的に怒ることもしなかったけど、その冷静さが逆に怖かった。「次回」のチャンスなんてもう一生与えられないんじゃないかと思えた。


 歩きながらズキズキと痛む腰にそっと触れてみると、熱を放っているのを感じる。嫌なことは重なるもので、ついさっき駅を出てすぐの所で、歩道の段差に突っかかって豪快に転んだ。予期していなかった体の動きを制御できず、手をつくことさえままならずそのまま腰の横の部分から墜落した。近くにいた人々の憐れむような視線が、すでに傷んだ俺の心をまた痛めつけた。


 俺この仕事向いてないのかな。街灯が照らす夜道を歩きながら、なるべく考えないようにしていたことが頭をよぎる。自分にはこの仕事しかないと思って、がむしゃらに働いてきたけど、結局このざまだ。


 俺、他に何ができるんだろう。


 というか、何のために生きてるんだろう。


 散々な一日だし、散々な人生だな。職場を出たあたりから始まった頭痛が絶えず神経を締め付けている。足を繰り出す度に腰が唸り声をあげる。なんでこんなに苦しまなくちゃならないんだろう。明日どんな顔して職場に行けば良いのだろう。惨めな自分への問いかけは家に辿り着くまで止むことはなかった。


 玄関で痛む腰を気遣いながら靴を脱いでいると、ミカが「おかえり」とリビングから廊下に顔を出した。


「えっ、どうかしたの?なんか痛そうだけど」


「ちょっと転んだだけだよ。大丈夫」


 「あら」と言ってミカが憐れむような顔をした。正直もう憐れまれるのはたくさんだし、放っておいてほしかった。


「ご飯食べた?」


「ごめん、頭痛がするし食欲が無いんだ」


 ミカの俺を見る目が深刻になったのがわかった。ミカには悪いけど、今日は誰とも話したくないし、そっとしておいてほしいんだ。あまり目を合わせないようにしていると、ミカがリビングから玄関まで出てきた。


「大丈夫?」


「大丈夫だから、気にしないで」


「食べやすいものを作るから、少しでも食べなよ。ね?」


「いいんだ、本当に」


「ダメ。すぐできるからテーブルで待ってて」


 そう言うとミカはさっさとキッチンに行って料理を始めてしまった。こういう時のミカは強引で聞く耳を持たないところがある。仕方なく俺はリビングまで行って、椅子に腰掛けた。

 

 座った途端に1日の疲れがどっと溢れてきた。頭はジリジリと痛むし、腰の転んだ部分も疼いた。目を閉じると、あまり思い出したくない今日の出来事が浮かんでくる。良いことなんて一つでもあったろうか。何より俺は今後も仕事を続けていけるのだろうか。どこまでも惨めな自分に惨めな気持ちになる。よっぽど疲れているのかなんだか幻聴も聞こえる。この曲は…なんて曲だっけ。いや、これは幻聴なのか?


 目を開けるとリビングのオレンジ色の光が差し込んできた。キッチンでミカが料理をしながら、ハミングで歌を唄っていた。透明感のある声で紡がれたメロディーが、柔らかい風に乗ってキッチンから流れてくるみたいだった。ハミングはいつの間にかラララに切り替わり、音に芯を宿した。


 相変わらず綺麗な声だな。料理の音や冷蔵庫から放たれる雑音に、微かに上乗せされるミカの歌が、この家に独特の暖かい空気をもたらしていた。そしてその明るくて優しいメロディーラインが、ズタズタになった俺の体に寄り添っていた。


 ミカがお盆を持ってリビングまでやってきた。


「なんて曲唄ってたの?」


「むかしむかしのきょうのぼくって曲。はい、お茶漬け作ったよ。食べやすいでしょ」


 ミカが運んできた茶碗では、中央でお茶から顔を出しているご飯の上にたらこと釜揚げしらすが乗っており、三つ葉と刻み海苔によって彩りが加えられていた。熱々のお茶を注いだのか、湯気が立ち上っている。


 ひとくち口にすると、たらこの旨味がお茶に溶けて広がった。そういえば今日昼飯食べたっけ?お茶漬けを口にして初めて、実はお腹が空いているんだということに気がついた。ふたくちめを口にした。まだ熱いけれど、柔らかいご飯が美味しかった。色々あったから結局昼飯も食べられずじまいだったんだ。茶碗からは相変わらず湯気が立っている。上司の凍てつくような目や、デスクで呆然と見つめていたディスプレイや、転んだ時にすぐ目の前に落ちていた空き缶の事を思い出した。本当に散々な日だったんだ。体の中から何かがこみ上げてきて、泣きそうな気分になった。


 ふと向かいに座っているミカに目をやった。立ち上る湯気がその輪郭を曖昧にしていたが、ミカは俺のことを見ていた。頬杖をつき、優しく微笑むように俺の事を見ていた。


 -辛かったね-


 無言だったけど、目がそう俺に語りかけていた。さっきの歌から部屋を包んでいる温和な空気と、立ち上る湯気によって、なんだかその姿はゆらいで見えたけど、確かにそう語りかけていた。近すぎず、遠すぎず、ミカは寄り添うようにそこにいてくれた。


「ありがとう。お茶漬けすごい美味しいよ」


「良かった。少しでも食べといて良かったでしょ?」


「うん。ミカの言うとおりだった」


 俺は残りのお茶漬けをかきこむように食べた。頭も腰も痛いままだったけど、気分はさっきに比べればましだった。結婚してからというもの、嫌なことがあったりして気持ちが浮かない時でも、ミカが放つその空気に飲み込まれるように手懐けられることが多々あった気がする。


 生きて前に進むことは、その一歩を繰り出すたびに無条件で大小の苦しみを生み出す。その苦しみに押しつぶされそうな時に、ミカが隣にいてくれたことが、これまでどれだけ励みになっていたんだろう。


「ねえ、俺が会社クビになったらどうする?」


 ミカは突然の問いかけに少し目を見開いたけど、すぐにまたさっきの微笑みに戻った。ミカと話していると、言葉の裏にある気持ちまで全て見透かされている気分になる。


「どうするって、次の職が見つかるまで主夫をやってもらうしかないね」


 ミカは「私が養ったるで」と笑っている。


「クビになりそうなの?」ミカが微笑みながら聞いた。


「いいや。もしもの話。クビになんかならないから安心して」


 今日が終わって、また明日が始まる。明日も平然とした顔で会社に行ってやる。でも迷惑かけた部署に謝りに行かなくちゃな。次はこんな失敗はしないし、上司も見返さなくちゃならない。クビになんかさせるものか。転んでも何度でも立ち上がるんだ。


 守りたい人がいるから。

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