可読体験版 後
迷いのない剣閃がツキアカリに襲いかかる。光を剣筋に残しながら、横凪ぎに殺意が振るわれる。四つ足を地につけたツキアカリの、その脚を確実に切り裂くつもりで振るわれた一撃。ヨルヒの細い体躯からは想像もつかない神速のそれは、しかし、軽く後ろに跳ねたツキアカリを捉えなかった。自らの本質を、表層世界に映しただけの姿とはいえ、ツキアカリは超常の存在である。その身を傷つけることはおろか、捉えることすらも容易にいく訳がなかった。
ヨルヒは、次の一撃を焦る身体を押さえつけ、ツキアカリをじっと見据えた。彼我間の距離を慎重に測る。踏み込めば刃が届くくらいの距離。しかしそれは、踏み込まなければ届かないほどの距離とも言える。そういった、一手足らずで死ぬ微妙な距離の恐ろしさを、ヨルヒは知っていた。踏み込んだ後の隙だらけな少女に食い込むケモノの牙。その感触を思い浮かべ、ヨルヒは追撃を止めた。
ツキアカリも、ヨルヒとの距離を詰めることはしなかった。しかしそれは、ヨルヒのように先の死を想定してのことではなかった。迷いを捨てきれぬが故の俊巡。いつの日か愛した者を己の手で殺めなければいけないことへの躊躇いが彼の牙を、爪を鈍らせていた。
そんな彼の迷いを感じ取れないヨルヒではなかった。幾度か合わせた爪と剣から伝わった迷いは、少女に踏み込む勇気を与える。
じりじりと距離を詰め、ヨルヒは確実に一撃を叩き込める距離を探る。ツキアカリはそんなヨルヒの思惑には気づく余裕が無く、ただ、円に動き、ヨルヒとの対角を維持することしか出来ない。いつしか十分にヨルヒが距離を詰めたところで、膠着は一気に解けた。
「覚悟!」
声とともに、渾身の力で踏み込んだヨルヒ。ツキアカリはその動きに対して、反応が一拍遅れた。神速真剣の殺陣の中でその一拍は、致命的な遅延だった。
ヨルヒの剣がツキアカリの左前脚を確実に捉える。肩口から袈裟斬り。深く刃が食い込む。ヨルヒはそのまま神力にモノを言わせ、剣を振り抜く。結果、ツキアカリは脚を一つ、肩から綺麗に失うことになった。
その衝撃に、更に動きを鈍らせるツキアカリに、ヨルヒの二手目が迫る。今度は斜めに振り上げるような剣閃。必死に身を捩るツキアカリの、その後右脚を深く斬りつける。その追撃は、脚を斬り落としこそ出来なかったが、しかし確実に機能を奪った。ツキアカリは、自らの姿勢を保てず、崩れるように地に臥した。
ヨルヒは、剣を青眼に構えた。その瞳は真っ直ぐツキアカリを見つめる。両者の視線が交差し、次の一手でこの戦いが終わることを互いに悟る。少女は、握る剣に思いを込めた。輝く、剣身。
ツキアカリは、静かに眼を細める。その狭まる視界に映るはかつての日々。ヒトの少女を拾い、育て、そして別れた、その全ての時間がツキアカリの眼前を駆け抜けた。
――我が死して、ヨルヒが幸せになるのならそれは。
ツキアカリは、今更ながらに覚悟を固め、眼を閉じた。
「さようなら。ヨルの王」
ヨルヒの剣が輝きを強める。振り上げられた切っ先と、振るい手の見据えるは、ツキアカリの首筋。致命の一撃がツキアカリを狙う。
ツキアカリはここに来て動くことはせず、その一撃を受け入れる。
これは一つの決着だった。
「願わくば、安らかな眠りを」
ヨルヒが剣を振り降ろす。一辺の鈍りも躊躇いもないその剣閃は、ただ真っ直ぐにツキアカリの首筋へ襲いかかり、そして。
ツキアカリの身体に触れた途端に、飴細工の様に砕けて散った。
どちらともなく驚愕。振り抜いた姿勢のまま前につんのめり、体勢を大きく崩すヨルヒと、それを見止めるツキアカリ。彼の耳は聞こえるはずのない声を聞く。
――無垢な光を掻き消すのだ!
それは、自らの護るべきケモノたちの叫び。猛り。鳴き声。その声は、一度湧いた諦めを吹き飛ばし、ツキアカリをヨルの王にする。
心の中に未だ蟠る迷いと葛藤を押し殺し、ツキアカリはその牙で、目の前の少女を貫いた。
一撃で致命。心臓を的確に貫かれたヨルヒは、痛みと衝撃に身体を痙攣させる。それによって牙がズレ、少女の身体に開いた孔から血が溢れだす。ヨルヒの身体とツキアカリの顎を通って、地面には赤の鏡が出来上がった。
「……ごめん……な……さい」
一言だけ。ヨルヒが零したその一言が、ツキアカリの心の蓋を壊した。動揺に力が抜け、ヨルヒの身体がくずおれる。血溜まりに倒れ込むヨルヒと、その血で出来た鏡に写る自らの涙を見て、ツキアカリは、どうしようもない悲しみと愁いと怒りとに包まれる。生まれる衝動は
慟哭と化し、森の中を駆け抜ける。
それが開戦の合図。これが、ヒルの終わり。黄昏の訪れだった。
鳴り響く幾つものケモノの足音の中でツキアカリは、静かに哭いた。
そして、精霊ヒノヒカリは、それをただ呆然と見つめる。その頬には静かに滴が伝っていった。
牡丹、一華咲き誇り 葱間 @n4o
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