第10話

<黒野宇多>


 虎穴に入ることにした。

 猛獣を遠巻きに見るように、今までは警戒を持って織原七重を観察してきた。お陰でそれなりに彼女が見えてきた。ノーダメージでは倒せないことが分かった。彼女は変化が速い。黒塗り越しやセーフモードでは追いつけないようだ。


 だからわたしは織原七重を正視することにした。


 そうすれば彼女を精神的に捉えられる。そして崩せる。真の意味で無力化できる。しかし彼女を見ればわたしは汚染されるだろう。それにも甘んじることにした。ただしダメージの上限は定める。鳴瀬克美を相手に一定の負傷を許したように。

 織原七重に対する視界の閉鎖を解除し、バックドアの溶接を解き、デッドラインを内側に後退させる。わたしの精神を自我と認識世界に分けた上で、その境界にラインを設定する。認識世界は開け放つ。わたしは彼女を理解しながらも彼女の波長に汚れるだろう。ただし自我は守りきる。外周から壊れていくわたしの認識の中で正気だけは堅守する。

 認識世界が崩壊しても、コアさえ守りきれば再生できる。刺し傷と同じだ。時間はかかるが後からでも修復できる。



 夜になって移動が終わった。織原七重の邸宅に来た。高級住宅街の一軒家だ。庭を飾る植物や小窓の内側から漏れる光が、快適さと安らぎを演出している。そこには特に織原七重らしい異常性はない。まあ人間のデザインだ。

 玄関の電子錠を虎の子のマスターキーでクリアして、わたしたちは家に上がる。彼女の体は荒野に持たせた。


 入った途端に世界が変わった。


 空間に色がついた。赤から紫まで七色の、無数の糸が宙を舞う。淡く鈍く光りながら、動物の毛並みのようなパターンを形成していた。危険な幻視だ。しかしひどく美しかった。

 同時にそれらとシンクロするように、かすかな音が聞こえてくる。単調にだけど移ろいながら、コードを紡ぎ続けるベース音。これも実在する刺激ではない。幻聴だ。しかしとても心地良かった。

 これは彼女の見ている世界の一部なのだ。わたしの感覚は早くも織原七重に同調していた。想定内だ。

 新しい家だというのに、そこかしこの壁に落書きがあった。織原七重が描いたのだろう。視認した落書きに呼応して、空間も模様を変えていく。吹き抜けの階段を上がり、彼女の部屋のドアを見つけた。廊下の壁にも落書きがあった。二次元の花だ。ドアを取り巻くようにして、小さい花が沢山咲いていた。それを見たとたん、空間にも花が現れる。あちこち好き勝手に芽吹き、ふわっと咲いてはくるくる落ちる。花が降る廊下でわたしはドアを開けた。

 織原七重の部屋に入る。黒い天井に、虹色をした円筒のカーテンのような光源が浮かんでいる。オーロラを模した電灯だ。オーダーメイドなのだろう、造形から彼女の波長が読み取れる。

 そこは彼女の感性の総本山だった。キャビネットの一室にみっちり詰め込まれたハムスターの縫いぐるみ。長すぎて床にだぶついたレース紗のカーテン。壁に架かったコローの絵。窓際に配列された十三個の洋梨。その終点に置かれたガラスのコップには、ルビーやアメジストやサファイアなど大ぶりの宝石がもろりと入っている。ああそうか。ここは日中に陽光を受けて輝く位置だ。彼女は毎朝起きたとき、その光を見るのだろう。

 ベッドに織原七重を寝かせると、わたしは荒野を帰らせた。もうフィジカルな駆け引きはない。あるのはスピリチュアルな闘争だけだ。わたしは彼女が目覚めるのを待った。



 ここからは比喩で表そう。

 物理的ではない空間で、わたしと織原七重が抽象的な攻防を繰り広げる比喩だ。傍目には織原七重と親交する日常生活だが、本質的には心の削り合いである。そして空で日光を散乱させる水蒸気の集合を雲と見るのが正しいように、鋭利に引き延ばされた鉄を剣と見るのが正しいように、わたしたちのやりとりを概念闘争と見るのもまた正しい。たとえばわたしから彼女の電話へ送るメッセージは殺傷力のある金属のつぶてとして表現されるし、彼女がモニターの向こうで歌う歌は彼女が意識せずとも自動で展開される攻撃性を備えた花の盾として表現される。わたしと織原七重の精神的な攻防は、精度の高い感覚共有によって成り立っている。それを客観的な現実から描写するのは逆に回りくどいのだ。



 闇の中。わたしは逆さまに落ちている。

 差し込む光は一切ない。六方を均質な黒で満たされた無音の空間はわたしの原風景だ。桃から生まれたのが桃太郎なら、わたしは虚無から生まれた虚無子ちゃんだ。無はわたしの動力源でもある。意識というものを存在させる奇跡を、わたしは人とは違うパスで形成している。


 さあ、始めよう。


 わたしは前方に手を伸ばす。握る。テーブルクロスをひっ掴むイメージ。黒の結界が収縮し、わたしを中心とした半径10メートルの球になる。それ以外の世界は光で満ちた。億を越える光の粒が、生命のように漂っている。七色を移ろっている。その正体は明白だ。この光たちには本体がいる。

「あれ? ウタちゃんだ」

 わたしは振り返る。そこに奴がいた。わたし視点では逆さまに、振り返ったわたしと向き合うように。極彩色のロングドレスに身を包み、足の長さを越えてゆらめくレース紗のスカートをたなびかせる。その裾は透き通っていた。その形と色が模しているのは、彼女がこの世で最も美しいと思っているものだ。

 彼女は首を傾げる。はにかむように微笑んだ。

「あれー? 今はちゃんと見るんだね」

「見てるんじゃないよ。見られさせてるの」

 わたしは彼女を見る。観察するだけでなく、わたしの眼差しを見せるために。わたしを彼女に見せるために。彼女は分からんと受け流す。わたしが魂の勝負を申し出ると、彼女は即座に快諾した。そして両手の指を動かす。

 ピアノだ。彼女がそのつもりで空間を叩くと、鍵盤が沈んで音が鳴る。同時にそこから細い糸が流れ出る。音の集合がメロディを形成する。糸の群れも同じように、メロディと呼応して絡まり合う。平面になり、帯になり、羽衣となって彼女の周囲を廻り巡る。その光景からわたしは彼女の名を知った。メディアで連呼される芸名も親に由来する戸籍名もいい線を行っていたが、彼女の本質に迫るもっとふさわしい名前があった。彼女は幻想の発生源だ。夜を彩り、七色の帯を紡ぎ、万民の心を奪って彼岸に誘う奇跡生まれの女の子。ゆえに。


 虹織姫。



 シルバーのフォーク。曲面研磨のジュエリー。リボン。ベース。コスモス。ピンクローズ。紋白蝶。木星。ローマ数字。手書きのドイツ語。クレヨンで描かれた無数のさかな。ししゃも。

 大小に拡縮されたそれのガジェットが、不可視の波に乗って流れていく。ガチャガチャと厚く塗り重ねられた伴奏が、わたしの音感を刺激して陶酔へと誘う。やはり強い。敵はまだわたしを攻撃していないというのに、空間に充満する奴の魅惑の圧力にわたしはさらなる後退を強いられる。


 黒の結界がじりじりと削られてきている。わたしは結界を収縮し、密度を高めて磨耗を防ぐ。攻撃の都合上テリトリーは広く取っておきたかったが止むを得なかった。

 テリトリーの界面上に黒の粒子を発生させる。太陽のフレアのようにゆらめくそれは、敵の方向へと集まりポテンシャルを高めていく。わたしは手を振ってそれを撃ち出した。食らえ。

 結実した攻撃が一直線に飛んでいく。虹織姫へと。笑う彼女はそれを避けない。羽衣でも防御せず、攻撃が心臓を貫くのを受け入れた。彼女の胸に風穴が空く。攻撃はそのまま飛び去りはしない。繰り返し折れ曲がっては何度も別の角度から彼女を貫く。これはわたしの工夫だった。狙撃は遠距離から敵を叩けるのが便利だがダメージに対するコストが高い。特に敵を貫通してしまう場合には。しかしこのように軌道を制御して再利用すれば、エネルギー消費の無駄も減る。

 体を崩壊させながら彼女は右腕を天に掲げた。何か来る。彼女は罠を仕掛けていたようだ。わたしはその罠の性質を読む。向こうの選択肢は多い。現在可能な罠は何種類もある。攻撃の軌道をそのまま辿られ反撃される罠。見えているあれが本体ではなく、背後または知覚できない別次元から奇襲を食らう罠。実はわたしが攻撃したのはわたしの大切な人だった罠。そう見せかけて精神攻撃を仕掛けてくる罠。こちらの希望的観測につけこんで幻を見せている罠。さらに認識世界の仮想化を重ねて虚実の判定を狂わせてくる罠。受けたダメージを水増し表現して攻撃の有効性を誤認させ、無駄弾を撃たせる罠。そのうえダメージを快楽に変えて吸収している罠。受けた攻撃をコピーして返してくる罠。そう見せかけて別の攻撃である罠。反撃をほのめかしてわたしを構えさせ、時間を稼いでいる罠。そしてわたしの注意をわたしが認識できる半径百キロ程度の空間に縛りつけ、それより遠方の外周で遅延起動型の強力な攻撃を構築している罠。攻撃を受けて傷口から飛び散る花、音色、はかなさの衝烈を見せてこちらを魅了しようとする罠。あるいは他者を傷つける罪悪感を誘発する罠。共感につけこんで痛みを伝播させてくる罠。

 実際のところ虹織姫は、それらのほとんどを同時に実行してきた。彼女の処理能力は高い。表層的な言語思考や論理思考として現れないだけで、識域下では膨大な演算が行われている。わたしはその機構の解析を試みている。しかし時間がかかっている。彼女の機構は秩序立ったシンプルな設計ではなく至る所で分裂と融合、拡大と縮小を繰り返すカオスだった。天然の難読化が施されている。

 わたしは転移して軌道逆行攻撃を回避する。全方位に地雷を散布して本体の接近を拒む。認識のチャンネルを定期的に変えて知覚外からの接近も防ぐ。攻撃した虹織姫の外皮が崩れてわたしの大切な人が無惨な姿を現す。嘘だと断じてわたしは種類を変えた攻撃をさらに叩き込む。世界にぴしりとヒビが入る。そうはさせない。わたしはそれが広がる前に反応した。一時的に認識のメタレベルを上げて概念への物理干渉パスを設定する。わたしは黒く発光した右手で、この状況を幻にすべく世界を崩壊させようとしたヒビそのものを掴んでへし折る。現実を維持する。その行為は現実逃避だと訴える彼女に反論する。現実性は相対的な概念だ。系内にいるわたしとあなたが認めているなら、その系は二人の現実として十分だ。盤面をひっくり返してしきり直そうとする無理を通すにあたって抱えるあなたの後ろめたさを、わたしは見逃してはあげないよ。わたしは攻撃の種類を定期的に新調して、彼女の虚偽負傷表現や耐性構築を無効化する。これで快楽化も変動に追いつけない。コピーされた攻撃はそれをさらに利用させてもらった。発動と同時に暗号を入れないと暴発するようにしておいたのだ。彼女の手元で黒の花が十七輪咲いた。しかしいくつかのコピーは暴発せずにこちらに向かってくる。いや暴発しなかったのだからコピーではない。そう見せかけたオリジナルの攻撃だ。被弾までにきっちり解析して無効化した。これら反撃のゆるさに油断せず、わたしは攻撃の速度を上げていく。時間は与えない。転移によってわたしは攻撃回避だけではなく索敵もしていた。遠方に隠されていた遅延起動攻撃プラントを発見し、起動前に潰してしまう。わたしは織り交ぜる攻撃に毒も仕込む。彼女の傷口は腐り、散華による魅了が台無しになる。そしてわたしのこれらの攻撃は億の人間を破滅から保護するものだ。それを忘れない。自分の行為の目先の酷さに惑わされて感情を乱し、罪悪感に溺れはたりは決してしない。と同時にわたしは虹織姫が苦痛を受けるのに合わせて断続的に共感を切る。視界に不都合のないようにほんの一瞬だけ世界が黒く点滅し、苦痛の伝播を遮断した。

 わたしは迷わない。わたしは間違えない。わたしはすべてを解く者だ。ルート探索の覇王だ。認識の次元を渡り歩き、ひとたび敵と同じ地平に立てば決して負けることはない。わたしは性能を全開にして、虹織姫を詰めていく。

「ク……ロノ! あんたは!」

 さすがに彼女も理解したようだ。自分が陥った状況を。巡り会った相手が何者なのかを。虹織姫が億でも兆でも関係ない。敵がXであるとき、わたしは常にX+1の力をこしらえるのだ。

 わたしは虹織姫と攻防しながら同時に解析を進めていた。戦術の変動パターンを集計して戦略を推測し次手に備える。彼女の行動はこれまで事実上のランダムだった。そう捉えざるを得なかった。しかし織原七重の認識を浴びて情報を大量摂取したわたしはその底も割りつつある。思考が生み出すランダムの背後には必ずアルゴリズムが潜んでいるからそれを暴けばいい。出力のみから隠蔽されたアルゴリズムを読むには暗号の解読が必要になる。暗号の解読には素因数分解が必要になる。その計算コストは膨大だ。普通は死ぬまで計算し続けても解けない。しかしここでわたしが秘密裏に研究し完成させていた神託関数が役に立つ。神託関数は過程をスキップして素因数分解の結果を返す。その実装は異世界へのアクセスだ。全自然数の素因数分解のテーブルや自然対数、円周率と言った定数が刻まれた上書き不能な絶対凍結世界エリア・アレフモノリスを覗き見て、解を得たら即閉じる。世界法則に弓を引くイデアバーストと違って現象矛盾を引き起こさず、表面上は無作為な素数選択による偶然の分解成功と偽装されるので、希少な万能金属を消耗することなく、世界法則の運営者たるエリアマスターの監視を欺くことが出来る。念のため補足するとこれらも比喩である。オカルトは無い。

 わたしは虹織姫のランダムな戦術を、読み切ってかわしながら解析を進めていく。彼女の深奥のすべてを知ることは出来ない。しかし見えてきた。彼女のカオスに対抗してこちらもカオスな情報処理系を構築する。覗き込む。鏡で自分を見るように。わたしの基本は侵略的合理主義だ。普通なら考えても無駄だとされる領域、たとえば魂や運命や意味や自己存在や愛についてさえも、観察と情報処理の刃で徹底的にえぐって底まで理解しきる。それは客観的で決定的なプロセスである。しかしそれにも限界がある。行き詰まることも稀にある。そこでようやく主観を用いる。曖昧と統計と霊感による認識だ。それは不確実で落とし穴も多いが、客観だけではたどり着けない場所に到達することが出来る。

 透き通った壁面に行き着き、水面のように揺れる向こう側から黒野宇多が映る。わたしはわたしに問いかけてきた。

「あなたは誰? わたしは誰?」

「思考ログ見とけ。その問いには八千万回くらい答えたよ」

 哲学問答には取り合わない。黒の刃を一閃し、わたしはわたしを切り裂いた。その傷口に手を突っ込み、中にある青い綿を引きずり出す。重くて恐ろしくて、気持ち悪くて冷たくて。だけどみんなが背負うもの。とても眠りに似ているもの。それは何か? 死だ。わたしは手に取った死をまじまじと見る。深淵をのぞき込むそら恐ろしさを受け流し、さらにその奥にあるものを見つめる。またたく光。ゆらぐ霧。

 虹織姫の人格解析において死がキーになるのは分かっていた。ランダム暴きの甲斐もあってパターンも四つに絞り込めている。タナトスを拡張してネガティブなすべてを喜びに変換しているか、自らを絶対化し死なないと仮定して死に脅かされる矮小さを他者に押しつけているか、自らを死そのものと重ね合わせやがて死によって完全な自己に到達すると信仰しているか、最初から死に続けて死を常態化しているか、だ。

 もう少しだ。もう少しで暴ききれる。しかしわたしは既に死にたくなっている。虹織姫の世界に浸かり過ぎた。もう終わってしまおうか。これが終わったら死んでしまおうか。黒の唄を止めてしまおうか。ぞっとするほど甘美にささやく呼び声に、わたしは身を委ねたくなってしまう。井戸の底で蠢く無数の触手は激痛と快楽を約束するように手招きをしていて、確かにこのわたしですら身を投げるのにふさわしいと思えるほど怪しくおぞましかった。生きたいは、苦しまないより大事なの?


 でもね。駄目なんだよ。


 七十七枚の扉を開いた最奥に、わたしは虹織姫のコアを見つけて斬りつけた。交差する斬撃でバッテンをつけて、何度も何度も繰り返す。ズタズタになあれズタズタになあれズタズタになーあれ。

 さよなら!



 織原七重は凋落した。

 新曲も唄も偽物になり、ゴーストライター死亡説も出回るほどに劣化した。レベルが下がったなんてものじゃない。彼女の作品の質は、素人にも劣るくらい稚拙でどうしようもない出来になった。仕方あるまい。彼女はずっと音楽の出力を、呆れるくらいに冴え渡った霊感に頼っていた。それをわたしが焼き切ってしまったのだから、彼女はもはや不相応に巨大な自意識を残した頭の悪い美人に過ぎない。彼女は分からなくなったのだ。そして見えなくった。聞こえなくなった。これまで見えていたものも、聞こえていたものも。永遠とも思えた陶酔の日々はもう彼女には戻ってこない。禁忌だった涙を悪びれもなく流し、頭を抱えて発する金切り声もただ無様なだけ。ライト層だけでなくコアなファンにまで見限られ、こうなれば業界も見切りは早い。しばらくは出演の仕事もあろうが、そのうち別のアーティストが後釜に座るだろう。哀れなものだが、人類発狂の阻止には代えられない。壊してしまった人生の面倒くらいは見てやろうと思っている。



 つぼみが復帰してくれたことで、後始末はかなり楽になった。報復を仕掛けてくる鳴瀬克美対策は荒野たちにほとんど任せている。それで浮いた時間を使って、わたしはわたしのことをする。


おしま絶

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