呼び声

桐富

呼び声




 昔話をしようと思う。


 いつの頃からかは曖昧だけど、誰かに名前を呼ばれることがあった。

 それは下の名前の呼び捨てであったり、ちゃん付けであったり、まちまちで。その度に私は振り向いたり、辺りを見渡すのだけど、誰もいない。ただ確かなのは女の人の声だということだ。聞いたことのあるような、ないような、若い女性のような、少し懐かしいような、形容しがたいそんな声だった。

「れいちゃん」

 いつだったか、名前を呼ばれて目が覚めた。大学進学をきっかけに一人暮らしを始めた頃のことだったと思う。はっとして目覚めた私は目覚ましをセットし忘れていたことを思い出し、急いで時計を見た。時計の示す時間はその日の講義までに少しだけ余裕が持てる時間だった。ほっと胸を撫で下ろし、そのまま大学に向かった。

 安堵もあり、意気揚々とその日同じ講義を受けていた友人に朝の話をしてみた。その話を聞いた友人は私の話が進むにつれ怪訝そうな顔になった。

「ねぇ、それってやばいんじゃないの?」

 どうして、そう聞き返す前に「そういうのって反応するとダメだとか言うじゃん。気を付けなよ」それだけ言って友人はこの話を終わらせた。

 友人にはそう言われたけど、それでも私にはこれが悪いもののようには思えなかった。考えにふけっていたり、夢現で在ったり、そんなときに良く呼び声は聞こえた。だから寧ろ、その声からは見守ってくれているような安心さえ感じていた。

「お祖母ちゃんはいつも見守ってくれてるんだよ」

 だからふと頭を過ったいつかの叔母のそんな言葉に、妙に納得する自分がいた。

 祖母が亡くなったのは中学の時だ。試験中教師が私を呼びに来たことも、迎えに来た父の病院に向かう車内から見つめた、流れていく景色も、車内で連絡を受けた父がハンドルを叩きながら涙していたことも、着いた病院で、触れてみた、ベッドに横たわる祖母の腕が人形のように思えたことも、よく覚えている。でも、全ての出来事にまるで現実味がない。これは別世界の話なんですよ、なんて突拍子のないことを言われても、きっと言葉通りに素直に受け入れてしまえたと思う。私1人、その場の空気になじめなくて、夢をみているようだった。

 想い出の中の祖母はいつも笑っている。初孫で、私のことをとても可愛がってくれていた祖母。祖母はどんな日も農業用の一輪車に弟と私を乗せて保育所へと送ってくれた。家に帰ればいつだってお菓子やアイスが用意されていた。学校から帰ってその日あったことを話すと

「背中が痛くなるから笑わせんでくれ」

 そう言ってコルセットを付けたお腹を抱え、涙目で微笑んでいた。祖父もそれを見て嬉しそうにしていた。私も嬉しかった。

 今ではすっかりそんな呼び声も聞こえなくなってしまったけれど、実家に帰るとその度に、夜遅く、実家の前を通る道路の長い直線の真ん中に立ってみる。車の通りもなくなった頃、見上げる夜空にはたくさんの星が静かに佇んでいる。それを見つめていると、ふとあれは祖母の声だったのではないかと思う。考えているようで、何も考えず突っ走って行動してしまう危なげな私を、きっと心配して見守ってくれていたに違いない。

 今でも祖母は私を心配しているのだろうか。私はまだまだ随分と自由奔放にさせてもらっている。恐らく今なお、祖母の心労は計り知れないだろう。

 もう祖母の声は覚えていないけれど、あの呼び声が祖母のものであってくれればいいな、と少しだけ思っている。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

呼び声 桐富 @zero10_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ