神辺 茉莉花 ワンシーン集
神辺 茉莉花
拷問描写①
冷えた地下牢に半裸の青年が全身傷まみれで横たわっていた。筋肉質でやや色黒の、元軍人だ。名前は確か、スコット。国から給付される報奨金と、警備会社から支給される給料が合わせて月に約三千二百ドル。郊外に年老いた母親がひとりで暮らしているらしい。
……が、そんなことはイーストン・ホワイトには興味がなかった。
大事なのは、この男がこの前の仕事の成功報酬として、生きたまま与えられたということ。もちろん殺すも壊すも自由。報告の義務すらない。
情報を吐かせるまでは……そしてそれが真実だと裏がとれるまでは生かしておかなくてはならない面倒くささに比べれば、無期限で何をしてもいいというのは魅力的でありこそすれ、厄介ではなかった。
いつでも息の根を止めてもいい。
やりすぎて鼓動を止めてもいい。
情報を吐かせずに殺してもいい。
何も言わずに命を奪ってもいい。
その自由さに思わず口の端が吊り上がる。スコットの軍人気質というのか、絶叫もせず命乞いもしない態度も好みだった。
「さてスコッティ、続きを始めようか」
びくりと四肢がこわばる。後ろ手にはめた手錠から伸びる錆びた鎖が不安と恐怖と懇願を代弁するかのようにぎちぎちと音を立てた。だが、血のにじんだ唇は相変わらず固くひき結んだままだ。苦痛のうめき声一つあげない。
ここに連れてきてから四日間で計三時間しか寝せていないにもかかわらず、まだ自我を手放そうとしていなかった。それが余計にイーストンの加虐心を煽る。
「今日はさ、少し趣向を変えてみたくなったんだ。ほら、今まではずっと肉体だけを痛めつけていただろう? だからさ、ちょっと心の方を壊してみようかなって」
その結果、どうなろうとも構わない。
好青年としか表現しようがないほど朗らかに笑い、剣呑な言葉を舌に乗せる。シガーケースをミッドナイトブルーのスーツの内ポケットから取り出し、一本に火をつけた。紫煙が、つぅっと立ちのぼる。広がるのは甘いチョコレートフレーバー。アーク・ロイヤル・スイート、チョコレート風味が特徴の一本だ。
革の靴が音を立てる。途中で折り畳みのパイプ椅子を引きずって腰を下ろした。
身構えるスコットの、その指先が細かく震えている。
「おいおい、まだ何もしてないぜ」
薄い唇の端を持ち上げて、鉄パイプで散々痛めつけた下肢を靴底で踏みつけた。まだこの程度ならば暴力のうちにも入らないだろう。
「ひっ……ぐっ!」
靴の裏で暴れる皮膚の感覚をしばらく堪能して、深く煙を吸い込む。柔らかな満足感がイーストンを包み込んだ。
「そういえば風の噂で聞いたんだが、スコッティの退役の原因、あれだって? PTSD」
ぴく、とスコットが動きを止めた。後ろで枷をはめられた手が、ぎゅっと握られる。
「どこまで、知ってる?」
かすれた声は昨日喚いた罵倒によるものか、それとも強引に飲ませた熱湯によるものか。心当たりがありすぎて分からなかった。
「どこまでって、一から十まで全部さ。退役する六か月前、スコットには笑顔がチャーミングな婚約者がいました。彼女とは同棲をしていました」
息をのむ気配。
手元に灯った熱が優しく心をくすぐっていく。
「ただし、テロ集団AAA(トリプルエー)殲滅の特殊任務で家を空けていたわずか数週間後、帰宅すると……」
イーストンは石牢の電灯の光量を調整した。三段階あるうちのレベル一、ぎりぎり手元が見えるくらいの明るさに。
暗くする直前、スコットの顔がこわばるのが見えた。呼吸に喘鳴が混じり始める。喘息の発作が起きる、その前兆だ。
「こういうふうに暗くなったリビングでスコッティを出迎えたのは……」
ぜほぜほと、肺の深いところから湧きあがる咳が激しさを増す。よほど苦しいのか、体をくの字に折り曲げていた。まるで、母親の胎にいる赤子のようだ。
赤ん坊なんて大きさじゃねぇけどな。
薄く笑って、スコットの目の前にペンライトで照らしたA3の写真を突きつける。空いた片手で逃げを打つ頭を掴み、きちんと見えるようにもしてやった。
「見ろ」
「ひっ……ぃぃ!」
やけに鮮明な、無修正の遺体が一つ。
椅子に座らされ、今のスコットと同じように銀色の手錠をはめられ、首から上がぐちゃぐちゃの赤い肉塊と化していた。即席爆発装置・IEDのリード線と有刺鉄線が体中にまとわりついている。膝の上にある段ボールのボードには、黒いマジックで文言が書かれていた。すなわち――
お ま え の せ い だ。
一 生 許 し は し な い。
「スコッティが対テロの殲滅部隊に志願しなければ今頃はハネムーンの真っ最中だったかもな?」
周囲の床に散らばるのは、Aが三つ描かれたコピー用紙。それらの大半が婚約者の血を吸って赤黒く染まっている。
ひそかに別行動をとっていたAAAのメンバーによる犯行だった。
「なぁ、スコッティが殺したようなもんだろ?」
「う、ぐ」
じゅくりと水音が響いた。四日間連日吐き続けたのと、ほとんど何も食べていないせいで、嘔吐物の中に固形のものはほとんど見られない。色もコーンポタージュみたいなクリーム色ではなく、透明に近かった。
ツン、とかすかにすえた臭いが鼻先をかすめる。この仕事について長いが、何度嗅いでも嘔吐物の臭気は慣れない。
写真立てに婚約者の最期の姿をセットして、気のすむまでゆっくりとアーク・ロイヤルの持つ香気を味わう。とびきり丁寧に淹れたコーヒーでも飲みたい気分だった。
「ちゃんと見てろって」
目標物から顔をそむけると暴力の嵐に見舞われる。
それが分かっているのか、手を放してもスコットが写真から視線を外すことはなかった。
胃液とよだれと涙と汗で浅黒い顔を濡らし、くずおれたまま痙攣まじりの歪なダンスを踊ること五分。
さすがに限界が近かった。
「薬、吸入してやろうか?」
こういう仕事についている以上、錠剤の飲ませ方から注射器の使い方、効果的な止血法……医学関係に関しては知識も経験もあった。吸入ステロイド薬の取り扱い方も当然知っている。
「これ、スコッティの持ってた薬だろ?」
効果的に使ってほしい、と身柄を預かるときに渡されたものだ。当初は使い道などないと思っていたが、なかなか有用だったようだ。
「実はさ……この写真もらう時に一緒に音声データもプレゼントされたんだよ。なんの音声か、分かるな?」
せわしない息づかいの隙間から、切羽詰まった、そして苦渋に満ちた肯定の気配が覗く。
甘いチョコレートの香りがどうしようもなく幸せな気分にさせた。もう残り少ない。二本目を取り出そうとして、スコットと遊ぶことを優先させた。
笑みを深める。
「そう、婚約者の最期の悲鳴を収めた秘蔵データだ」
サイコキラーあたりにでも売り込めばそれなりの金にはなる。現にイーストンも仕事の過程でそういった副産物をつくり、小遣い稼ぎをしているのだから。おそらくこの手元にある記録用のチップも数多くつくられたコピーの一つに違いないだろう。
「これ一時間聞き続けられたら薬吸入してやるよ」
どう考えても一時間なんてもたない。この発作が収まらない限り、窒息して死ぬのがオチだ。それでも、スコットは喘ぐように頷いた。
暗闇のなかでもたらされたわずかな希望にすがる。
「じゃあ、始めるか」
悪魔の翼よりもなお黒々とした色のMP3プレーヤーが牙を剥いた。
若い女性の悲鳴と懇願。
下卑た罵倒と低い嘲笑。
衣擦れと追う革靴の音。
連呼される婚約者の名。
――スコット、ねぇ来て!
――スコット、助けて!
――スコット、早く!
すすり泣きの間奏。
そしてまた絶叫と懇願の旋律が始まる。
――嫌、来ないで!
――お願い、嫌!
――スコット!
――だめ!
空気がひずむ。
コンマ何秒かの空白の後、生命が砕け散る音が鼓膜をつんざいた。
「これが一周な」
酷薄に笑う。時間にして二十五分か。幸いスコットはまだ生きているようだ。
すでに虫の息だが。
イーストンはスコットには見えないようにリピート機能をオンにさせた。これで電池が尽きない限り彼を永遠の地獄に叩き込める。
くぅ、と腹の虫が鳴いた。そろそろ食事時なのかもしれない。
「じゃあな。飯食ってくる。しばらくしたらまた来るよ」
一番よく聞こえる位置にMP3プレーヤーを置いて、二歩下がる。それから、ふっと思い出したかのように二本目の煙草を取り出した。
一口、二口……。あまりの充実感にどうにかなってしまいそうだった。
死にかけた目がその動きを緩慢に追う。
「この吸入器、俺が持っててもしかたがねぇじゃん? だからさ……」
一気飲みさせようかと携帯したスピリタスの小瓶を取り出す。女性の絶叫が牢内を震わせるなか、吸入器に振りかけて……
「待っ……!」
まだ長さのある煙草で引火させた。
オレンジ色のゆらめく炎が、命を救う道具にまとわりつく。助かる機会を奪っていく。
ピチピチと爆ぜる音と熱。
炎が柱になる前に、イーストンは靴の底で吸入器を踏み潰した。
「残念。薬はまた今度な」
「う……」
わずかに芽吹いた希望が絶望の鎌で刈り取られる。
『今度』など永遠に来ない。
今まで感心するほどタフだったスコットの心が折れた。薄くあけていた目が、何かを受け入れたかのように閉ざされる。
「どうにかしてその発作止めれば生きられるかもな」
無茶なことを言って踵を返した。
静寂を破るのはコツコツとした靴音。
そして、木枯らしにも似たかすかな呼吸音だけだった。
神辺 茉莉花 ワンシーン集 神辺 茉莉花 @marika
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