13
軽トラックの助手席に乗せてもらい、小一時間ほどもうねうねと曲がりくねる山道を行くうちに、すっかり車に酔ってしまった。駅前の色あせたベンチで仰向けになってぐったりしていると、龍樹がどこからか見覚えの無い、ひどくレトロなデザインの缶ジュースを買って戻ってきた。
「ほらこれ。うまいぞ」
差し出された缶をありがとうございます、と言って受け取る。冷たい缶を頬に当てると、それだけで胸のむかつきがすうっと軽くなる気がした。
時刻はもう午後に差しかかっていた。あの山にやってきて丁度七日目の昼だ。今朝目覚めてみると、それまで頭に分厚くのしかかっていた靄がすっきりと消え失せていて、思わず大きく深呼吸した。龍樹の言葉通り、どうやら種に奪われていた記憶をあらかた取り戻すことができたらしかった。
目が覚めてからもしばらくは夢の中から抜け出せず、小枝さんと公園で過ごしたあの日の記憶を引きずりながら食堂へと向かったのだが、先に朝食を食べていた龍樹と実花に顔を合わせるなり大爆笑され、あっさりと現実に引き戻されてしまった。起きぬけだったのも手伝って、何故笑われているのか最初はよく分からなかったのだが、例の種から発芽した新芽が自分のおでこの真ん中あたりからわさわさと生えていて、どうやらそれが相当間抜けに見えていたらしい。
「いや、あの。おめでとう、よかったな」
笑いをかみ殺して龍樹が言った。実花は写真撮りたい写真! と言いつつ、遠慮の欠片も無い様子で笑いこけている。恥ずかしくてしょうがなかったがどうすることもできず、おでこに葉を茂らせたまま、黙々と朝食を食べた。気になって額のあたりを恐る恐る探ってみると、確かに手のひらに何らかの異物が触れて、すぐにでも引っこ抜きたい衝動に駆られた。
「まだ触るなよ。後で山に登ってから引き抜くからな」
龍樹に言われ、慌てて手を引っ込めた。せっかく生えてきたものをフイにしてしまったら大変だ。ここまで来るのに、本当に大変な思いをしたのだから。
それから龍樹に案内され、山に登った。昼の山は、一人で登ったあの夜とはまるで違う顔を見せていた。蚊やら虻やら、主に不快な生き物たちの気配におののきながら龍樹の後を必死で付いていくと、案外あっさりとその場所は姿を現した。
龍樹が言うには、そこはまだ若木の森なのだそうだ。整地された山肌に自分と同じくらいの背丈の木が、適度な間隔を置いて植樹されていた。
どうやって額からこの芽を引き抜くのだろう? 痛いのかな、と内心心配していたのだが、龍樹が芽を掴んでゆっくりと引っ張ると、それは案外するりと頭から離れてくれた。例えてみれば、やや強引に髪の毛を抜くときの感覚に近いかもしれない。ほら、と龍樹が見せてくれた新芽をまじまじと観察してみた。その根は髪の毛よりも細い繊毛がたくさん枝分かれしていて、わた飴のようにふわふわとしていた。ところどころに自分の血が付いていて痛々しくはあったが、おでこに傷もほとんどつかず、痛みもあまり感じなかった。龍樹に絆創膏を渡されて、一応傷に貼っておくようにと言われ、素直に従った。
「せっかくだから、自分で植えてやれよ」
芽を手渡され、指定された場所に屈みこんで土を軽く掘り起こすと、そこにそっと茎を立たせ、根っこに土をかぶせた。
「ほら。ここに戻ることができて喜んでる。きっと大きく育つぞ」
「そうですね」と言った。本当にその新芽の美しい緑は、きらきらと輝いているように見えた。
「この木に限っては、悲しい記憶を何も引き受けてはいないんですよね?」
そう訊ねてみると、そうだな、と龍樹は答えた。
「でも、ま、ほんのちょっとだけ、おまえから発芽するための力をもらってはいるんだけどな」
えっ、と思った。いやいや、そんなの聞いてないんだけど。
「あの、それってもしかして、僕の記憶をこの芽が奪っていったってことですか?」
「うん、少しだけな。けどまぁ、これからのおまえに必要なものではないから心配するな」
「いやでも、そんな。一体何の記憶を奪われたんですか?」
いいじゃないか、気にすんな、と言って龍樹は曖昧に笑う。
「仕方ないんだ。こいつだって、ひとつくらいは土産が欲しいだろうし」
龍樹は目の前の小さな芽を指でつん、とつついた。
「ひとつだけ、こいつにくれてやってくれないか?」
「…………」
龍樹の言葉に、しぶしぶながらも頷いてみせた。
「よし。じゃあ、帰る支度をしろ。駅まで送ってってやるから」
「……はい」
山道を下りながら、前を歩く龍樹の背中を眺めた。つい昨日までは自分に降りかかった災難に翻弄されるばかりでその後のことを考える余裕などなかったのだが、この一連の事件が収束すれば、当然ここを離れないといけないのだ。その事実に今になって気付き、寂しさが一気に募っていた。
たったの一週間ではあったが、龍樹や実花には本当に世話になったし、ここでの出来事はきっと一生忘れられないほど特別な意味を持っていることも確かだった。本当は彼らに感謝の言葉を伝えたかったが、なんだかそれを口にしてしまうともう一生会えなくなるような気がして、二人の顔を見るとどうしても何も言えなくなってしまう。そんなこんなで実花に別れを告げる時も、最後まで中途半端なことになってしまった。龍樹が近隣の農地に置いてある軽トラックを取りに行っている間、実花と二人きりでいたのだが、いつもはおしゃべりな彼女がどんどん言葉少なになっていくので、内心ひどく動揺して、こっちまで何も言えなくなってしまった。しかしそれでも最後には「元気でね」と言って手を差し出してくれた。その手を握り返すと、泣きそうな、それでいて嬉しそうな笑顔で「もう戻ってきたらだめよ」と言ってくれた。その言葉の意味はよく分かったし、実際こくりと頷きもしたのだけれど、それでも正直、ちょっと寂しかった。本当は、嘘でもいいから「また会おうね」と言って欲しかった。
「今、時刻表見てきたけどさ、電車、あと十五分ほどで来るらしいぞ」
ベンチに寝転んだまま流れていく雲を眺めていると、龍樹の声が聞こえた。何となくぼんやりとした焦点の定まらない気持ちで、こちらへと歩いてくる彼の顔を見上げる。
「そうですか……」
ベンチに座りなおして「ありがとうございます」と答えると、龍樹はこちらをチラリと一瞥し、隣に座ってジュースの缶をぷしゅりと空け、あっという間に飲み干してしまった。
「終点まで着いたら、そこからはどうするんだ?」
「父に迎えに来てもらいます」
「ご両親にはせっかく隠し通せそうだったのに、そんなことをしたら、ここ一週間に起こったこと全部を一から説明しないといけないんじゃないか?」
「はい。だけどまぁ、仕方ないです。信じてくれるか分からないけど、正直に本当のことを話してみようと思います」
めんどくさいことするなぁ、と龍樹は笑った。
「無理しないで前田さんに迎えに来てもらったらよかったんだ。連絡をくれればいつでもすぐに迎えに行くからって再三言われていたのに」
「いやでも、やっぱりそれはちょっと……」
これ以上迷惑をかけたくないという気持ちもあったが、自分が何をしたのかを知った今、前田さんと面と向かって話すのはどうにも気が引けた。あの人と二人っきりで車に何時間も乗っているなんて、想像しただけで胃が縮みそうな気分だった。
「まぁ、おまえの気持ちも分からなくもないけどな」
そう言うと、くっくっと龍樹は笑った。
「前田さんは彼女の旦那さん、なわけだしなぁ」
「…………」
「とはいえ、彼のほうはおまえに対して感謝の気持ちしか持っていないと思うよ。一週間前、彼がおまえをここに連れて来たときにも、篤のおかげで奥さんとまた一からやり直していける気がする、って言っていたし」
「……よく、分からないんです」
「え?」
「だって、何もしてないのに、感謝されるいわれなんてないんです。小枝さんにも前田さんにも」
「…………」
あの日、公園で種を飲んでしまった後、小枝さんは泣きながら僕に「ありがとう」と言ってくれた。だけど正直、なぜそう言われたのかまったく訳が分からなかった。だって単に彼女に種を返したくなくて、勝手なことをしただけだったのに。
龍樹はしばらく黙ってこちらを眺めていたが、やがてにっと笑うと、言った。
「おまえさぁ。自分がどうして彼女の持っていた種を飲み込んだのか、ちゃんと分かっているか?」
「なんでって、それは、あの人に種を返したくなくて、ほんとにただそれだけで」
「返したくなかっただけなら、種を遠くに投げ捨てるなり地面に捨てて踏みつぶすなりしちまえば良かったじゃないか。わざわざ得体の知れないおかしなものを飲むリスクを負わなくたって、あの種を彼女に渡さないようにすることは幾らでもできたはずだ」
「……あれ。言われてみれば、そうです、よね」
自分のバカさ加減を指摘されたようで、顔がかあっと赤くなった。確かに落ち着いてよく考えてみれば、飲み込むなんてどうかしている。まったく龍樹の言うとおりで、どうしてそうしなかったのか、自分でも理解できなかった。
「それなのにおまえは、わざわざ彼女の種を飲み込んだ。それってさ、種っていうより、本当はもっと別のものを飲み込んで……いや、『引き受けて』やりたかったんじゃないか?」
「別のものって?」
訊ねると、彼はこちらに顔を寄せ、小さな声で囁いた。
「彼女の抱えているもの、全部。違うか?」
「…………」
そう言われて、まじまじと龍樹の顔を見つめた。
「……そんなこと、考えてもみませんでした、けど……そうなん、でしょう、か?」
声を潜めてそう呟き返すと、龍樹はぶっと噴き出して、ひとしきり大笑いした。
「ちょっと! なんで笑うんですか」
ムッとして言うと、龍樹に片手で頭を掴まれて、ぐしゃぐしゃに撫でられた。
「ほんと、お前のそういうとこ、いいよなぁ」
「でも、本当にそんなこと」
龍樹に言われるまで、まったく思ってもみなかったのだ。
「うん。だけどな、そういうことは相手に伝わるんだよ、お前が自覚していようといなかろうと」
笑みを浮かべ、龍樹は言った。
「おまえは確かに、彼女を助けたんだ。そしてその代償としてこの一週間、大変な目に遭った。でも、そこを越えて今ここにいる。だから自分に誇りを持っていい」
「……本当に?」
「疑り深いなぁ」
ハハハと笑う龍樹に、もう一度頭をぐしゃぐしゃにされた。
「前田さんご夫妻はおまえのことをとても心配していたぞ。俺のほうからもあの二人に篤の無事を報告するつもりではいるが、家に戻った後、おまえは改めて彼らに会いたいと思っているか?」
その言葉に、う~ん、と唸ってさんざん考えたが、結局「分かりません」としか答えられなかった。
まだ色々と気持ちの整理が付いていなくて、もし会えたにせよ、彼らを前にどんな顔をすればいいのか、まるで分からなかった。
「また会えるよ、絶対」
励ますように、龍樹に背中をぽんと叩かれる。
「今でなくても、いつかきっとな」
彼はベンチから立ち上がり、駅のホームへと歩きだした。
「ほら行くぞ。もうそろそろこっちで待っておかないと、乗り遅れたらコトだ」
はい、と言って彼の後をついて歩いた。先ほどよりも日差しは少し傾きかけていて、夏の暑さも和らいできた。小さな無人の駅舎は古びていて、来たことがないはずなのに何故か懐かしい匂いがした。二人でホームに並んで待っていると、やがて遠い線路の向こうに、電車の影が小さく姿を現した。近づいてくる電車をじっと眺めているとなんだか胸がいっぱいになってきて、目を上げると、隣に立つ龍樹をじっと見つめた。
「あの、また、会えますか?――龍樹さんや、実花さんに」
我慢するつもりだったのに、ずっと気がかりだった言葉がつい口をついて出てしまう。それを聞くと、龍樹はしんとした目でこちらを見下ろした。
「おまえにそれが必要であれば、な。だが、そうならない人生のほうがはるかにいい。分かるだろ?」
「だけど――」
「今朝、おまえの体から出てきた芽を二人で植えたよな? あの芽が、篤の記憶の欠片を預かっているから」
龍樹はこちらに腕を伸ばし、絆創膏を貼ったままの額に軽く手を当てた。
「篤のことは、絶対に忘れない。俺はずっと、あの木と一緒に生きていく」
「…………」
そんなのいやだ、寂しいって言いたかった。さっき、前田さんたちにはまた絶対に会えるって言ってくれたのに、どうして同じように言ってくれないのだろう? いつかまたあの山を、あの場所を訪ねて来いって言ってくれないのだろう?
いや、だけど地名さえ分かっていれば、こちらからいつだって探しに行くことはできるはずだ。……って、あれ……?
はっとして、龍樹に目をやった。そこでようやく自分が最後に、種にどんな記憶を奪われたのかに気付いた。
「あの――あの山、は」
一体、何という場所だっただろう?
龍樹は少し申し訳なさそうな顔をして、こちらを見下ろしている。
いや、落ち着け。たまたま忘れてしまっただけかもしれないし。確かあの吊り橋のたもとにあった立て札に、大きく地名が書かれていたはずだ。しかし、何とか思い出そうと試みても、立て札の姿形はそっくりそのまま頭に浮かぶのに、記憶の中に浮かぶその札には、何の言葉も書かれてはいなかった。
その時、大きなブレーキ音を響かせて、一両編成の古ぼけた電車がホームに滑り込んできた。
「……篤」
龍樹の声が聞こえた。
「時間だ」
彼の言葉に呼応するように、背後で扉が開く音がした。
「元気でな」
涙がひとりでに溢れてきた。やはりもう、これで最後なんだ。
だったら、きちんと言わなければ。
「ほらもう、泣くなよ。早く乗れってば」
苦笑する龍樹に肩を押され、何とか乗り込む。
「……あの」
ピーッと笛が鳴って、ドアが閉まった。急いで窓に走り寄ると、半開きになっていた窓に手を掛けて、上にぐいっと押し上げる。
「龍樹さん、本当にお世話になりました。実花さんにも伝えてください、ありがとうって」
涙をこらえて何とか言うと、彼は笑顔で頷き、軽く手を上げた。
「どうかお元気で」
ガタン、と音を立てて電車が動き出す。窓から顔を出し、離れていくホームに向かって手を振った。
「さようなら」
言えなかった言葉をようやく搾り出すように叫んだ。そして彼の姿が見えなくなるまで、何度も何度も手を振り続けた。
(終)
記憶の棲む森 西乃 まりも @nishinomarimo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます