12
真夏のじりじりとした日差しが肌を刺す。部活の練習の帰り道、午後の通学路を歩いていると、喉が渇いてきた。
肩から下げた水筒を振ってみたが、当然のごとく空っぽである。仕方が無いので、今朝ポケットに突っ込んだ小銭を探ってみると、何とかペットボトル一本が買えるくらいのお金にはなった。あと少し歩けばコンビニがある。あそこで何かジュースでも買おう。
梅雨が去ったと同時に夏休みが始まっていた。あと一週間後には部活の合宿が迫っている。去年の合宿練習は本当に辛くて体がついていかなかったけれど、今年は体力もついてきたことだし、何とかついていけそうだ。それでもやはりきついだろうなぁと内心しり込みしていたが、今となってはきついくらいのほうがいいのかもしれないと思えてきた。くたくたになるまで体を動かしていたほうが、何も考えなくていいし、気持ちも晴れるというものだ。
前田さんと喫茶店で話をしてから、一ヶ月あまりが経っていた。もちろんあれ以来、小枝さんには一度も会っていない。あんな風に言われた以上、もう会わないほうがいいと思っていた。このまますっぱりと忘れたほうが自分のためだということも分かってはいたが、あれからここ一ヶ月の間、くどくどと色んなことを考え続けていた。正直、あの人のことを考えない日はなかった。それは彼女に対する好意からくるものではあったけれど、前田さんから聞いた話があまりに悲しい内容だったから、ということもあった。
もし本当に、小枝さんが僕に息子さんの姿を重ねていたのならば、内心すごく複雑だった。前田さんの言うとおり、僕はあの人たちの子供ではないし、それどころか心ひそかに小枝さんに対して憧れの気持ちさえ持っている。そんな風に思っている人に死んだ息子さんの面影を重ねられ、しかも会えばよくない影響を与える存在になっているなんて。僕自身が彼女に対して抱く気持ちの持って行き場など、どこにも見当たりようがなかった。
それともうひとつ、小枝さんのことを忘れられない理由があった。小枝さん自身から何の言葉も聞けていなかったことだ。あんな風にまた来週会えるようなつもりで気軽にさよならを言ったまま、二度と会えなくなるなんて、どうしても気持ちがいいものではなかった。前田さんの言いたいことはよく分かっているつもりではいたが、心のどこかで小枝さんの気持ちを、本人の口から直接聞いてみたいと思う気持ちは拭えなかった。
立ち寄ったコンビニでコーラを買うと、店の前でごくごくと飲んだ。冷たさと炭酸が喉を心地よく刺激する。半分ほど飲んでようやく落ち着くと、手のひらで汗を拭い、再び歩きだした。
よく晴れた、暑い日だった。ここのところテレビでは毎日のように熱中症への注意を促すニュースが流れていた。アスファルトに溜まった熱気にあてられて、練習で疲れた体から汗がぽたぽたと流れてくる。道を歩く人はまばらで、誰もが日傘を差したり帽子をかぶっていた。
日傘が欲しいな、と思った。あれは帽子よりもずっと涼しいから。小さい頃は母が日傘を差すのを見て、どうして晴れているのに傘なんて鬱陶しいものを差すのだろうと思ったものだが、この間冗談で母の日傘を差してみたら、これが思いのほか涼しかったのだ。男が日傘を差すのは変なのかもしれないけど、これほどに暑いのなら、そんな小さなことを気にすること自体、馬鹿馬鹿しくさえ思えてくる。
そんなとりとめのないことを思いながら歩いていると、車道を挟んで向かい側の道沿いにある小さな花屋さんの前で、誰かがすっと日傘を差すのが目に入った。涼しげな、白いレースの傘がぱっと開く。
目の覚めるような綺麗な白だった。ああなんだか、あの人みたいだな――、そう思った瞬間、自分の足が止まった。小さなブーケを片手に持って日傘を差し、歩き出したその人は、本当に小枝さんだったのだ。
心臓が飛び出るかと思うくらい驚いた。いや、きっと近所に住んでいるはずなのだから、道で会っても何の不思議もないのだろうけれど、それでもこんな偶然は滅多にない。声を掛けようかと一瞬迷った。けれど、声が出てこない。車道を挟んでいたのもあるし、無理に声を掛けたところで何を話せばいいのか、ちょっと想像がつかなかった。
彼女は花束を手に、歩いていく。どこに行くのだろう。足は自然に彼女の後を追った。気付かれなければいい。どこに行くのか見届けるくらいなら、小枝さんの迷惑にもならないだろう。
彼女は白い日傘を差し、シンプルな白いワンピースを着ていた。白づくめのその恰好は楚々としていて、どこか厳かな雰囲気を持っていた。彼女の長い髪は後ろでひとつに結ばれていて、歩くたびにゆらゆらと揺れた。短い袖から伸びた腕はすんなりとしていて美しかった。それらを眺めながら、少し離れて彼女の後を追った。
駅に続く大通りに出て、小枝さんは歩道橋を渡った。そして、あの道へと続く階段を降りていく。
あの道――僕が小枝さんと出会ったあの場所である。後をついて歩くうちに、あの大きな公園が見えてきたが、彼女の足取りに迷いは感じられなかった。小枝さんが一人であそこに近づくことはないと思っていたのに。この通りを歩くなんて、体のほうは大丈夫なのだろうか。というか、何のために? 花束を持っているってことは、もしかしたら事故現場に花を供えにいくのかもしれない。
もしそうなら、きちんと最後まで見届けよう。そして彼女が何事も無くあの場所を離れることができたら、僕も黙って家に帰ろう。声を掛けてはいけない。そして今日ですべてを終わりにするのだ。彼女がやることを無事に見届けたら、それが出来るような気がしてきた。
前を行く小枝さんは歩調を緩めず、淡々と歩いている。が、彼女の歩く道の先から、公園へ遊びに来たらしい四、五人の子供たちがこちらへと向かって駆けてくるのが目に入った。
あっ、と思った。いけない。彼らがもしあの横断歩道を渡ったら、また小枝さんが大変なことになるんじゃないか?
咄嗟に「小枝さん!」と大声で叫んだ。こっちを振り向いて欲しかった。何も見なくて済むように。これ以上、悲しい思いをしなくて済むように。
小枝さんは足を止め、こちらを振り返った。そして驚いたようにこちらに向き直った。
「佐伯くん?」
頭が真っ白になった。あまりに考えなしに声を掛けてしまったので、次に何を言うべきなのかまったく思い浮かばず、あの、ええと、と繰り返すことしかできなかった。
「こんにちは。今、学校帰り?」
しどろもどろになっている僕に、小枝さんは以前と変わりない調子で笑いかけてくれた。彼女の肩越しに、公園へ向かって駆けて行く子供たちを見送りながら、僕は「はい」と答えた。
「日焼けしたね」
そう言うと、小枝さんはこちらに歩み寄ってくれた。
「今はもう夏休みではないの?」
「はい、でも、部活で学校には毎日行ってるから」
「そう――」
そこで小枝さんは言葉を切った。
「あの、その花……」
「これ?」
そう言うと、彼女は「ほら」と言って見せてくれた。
「きれいでしょう?小さなひまわり」
黄色を基調とした、小さな夏らしいブーケだった。
「今日が命日だから、あの子に持ってきたの」
小枝さんは淡々と、小さな声で言った。
「佐伯くん、主人と会ったのよね?」
「はい」
「あの子のことも、聞いて知っているのよね」
「……はい」
「ごめんなさいね、色々と。私、あなたに――」
「あの、」
謝らないで欲しくて、つい彼女の言葉を遮ってしまう。
「お花、供えましょう。僕も一緒にいいですか?」
そう言うと、小枝さんは微笑んで、「もちろん」と言った。
***
公園の水道で水を汲み、小さなガラスのビンにブーケを差すと、小枝さんはそれを横断歩道の脇に置いた。水を得た花はぴんと張りがあって、きらきらと輝いて見えた。
「きれいね」
彼女はしゃがんだまま、しばらく花に見入っていたが、ふと目を閉じると手を合わせた。僕も後ろで彼女にならった。
「毎年、こうやっておられるんですか?」
そう訊ねると「ううん」という返事が返ってくる。
「あの子の命日に、ここに来たのは初めてなの。――これがきっと、最初で最後」
最初で最後。その言葉が妙に胸にひっかかった。
「ね、佐伯君」
「はい」
「今、時間ある?」
「……え?」
「お話させて欲しいの。少しの間でいいから」
「――はい」
時間なんて、あるに決まっている。なかったって、あるって言っただろう。小枝さんは僕を連れて、そのまま公園に向かった。
夕暮れが近づいていた。夏の日差しは幾分か弱まったが、相変わらず蝉の声は辺りに満ちていた。この公園には小さな頃、よく遊びに来た。広くて、相変わらずよく整備されている。子供たちのための遊具が置いてある賑やかな広場からは離れて、彼女は木が生い茂る遊歩道へと向かって歩いていく。僕は黙々とついて歩いた。
「主人にね、随分怒られたわ。あなたに対して失礼だって。あなたを巻き込むなって」
「そんな……、僕は何も」
「ううん、確かにあの人の言うとおりなの。主人に言われなければ、自分では気付けなかったかもしれないけれど」
綺麗に手入れされた林の中に、小さなベンチがあった。青々と生い茂る銀杏やポプラの葉が日差しを遮り、他の場所に比べて幾分か涼しかった。小枝さんはベンチに腰掛けると、僕に隣に座るようにと言った。
「いつまでもこんな風でいるといけないと思って、今日、あの花を持って来たの。あの子に……優人に、いい加減さよならを言わなければと思って」
「…………」
「あの日、佐伯くんが声を掛けてくれたとき、もしもあなたが優人だったらって、あの子が成長してこうして戻ってきてくれて、私を元気付けてくれているのだとしたら、きっと私はもう一度頑張れるだろう、って思った。そう考えてみたら嬉しくて、あなたに会いたくて、それでいつもあそこで待っていたの、佐伯くんを」
「…………」
「だけど、本当は分かっていたのよ。佐伯くんは優人じゃないってことくらい。あなたはあなただってことくらいは分かっていた、つもりだったんだけど――」
小枝さんは俯くと、少し首を傾げた。
「なんだか、それもよく分からなくなってきちゃって」
どうしよう、と思った。胸がドキドキして、何も言えない自分に腹が立った。隣に座る小枝さんの今にも泣きそうな横顔をただ見つめた。分かっている。小枝さんは頼りたいのだ、誰かに。こんな頼りない僕にでさえ、頼らないときっと一人で歩くことができないくらいに、彼女は弱っているのだ。
けれど――僕はそれをどうにかしてあげられるほど、大人じゃない。
「……ごめんなさいね。何の関係も無いあなたにこんなこと」
気を取り直したようにそう言うと、小枝さんは持っていたかごバッグから携帯電話を取り出した。その手元で、あのプラスチックの黄色い車がゆらゆらと揺れている。
ストラップを手に取ると、彼女は車の胴体を両手で真っ二つに割った。どうやらその車は小物入れになっていたらしく、小枝さんはその中に収まっていた小さな包み紙を取り出した。
「主人に、これをもらったの。どうしようもなくなったら、これを飲めって」
包みを開けると、中には小さな植物の種がひとつ入っていた。
「彼がね、これを飲めば幸せになれるって言うのよ。だけど、簡単に飲んではいけないって言われていて。自分ではどうにもならなくなったとき――それこそ、生きているのが辛くなったとき、これを飲めばいいって」
「幸せの、種、ですか?」
「うん」
彼女は手にその種を摘まんで、空にかざした。
「普段はそんな夢みたいなことを言うような人じゃないから、ちょっと不思議なのだけど」
「これは薬か何かですか?」
「さあ――どうかしら。聞いたのだけど、詳しいことは教えてくれないの」
「……」
「これ、飲んでみようかしらね?」
「でも、何か分からないものを飲むなんて」
「心配はいらないわ。主人は私に毒を渡すような人ではないから。それに……」
手のひらに乗せた種を眺めながら、小枝さんは言った。
「このままだと私より先に、あの人のほうが参ってしまうから」
「前田さんが?」
「ええ」
彼女は持っていた籠のバッグから小さな水筒を取り出し、コップにお茶を注ぎはじめた。
本当に、飲むのだろうか?じっと様子を窺っていると、種を持つ手がかすかに震えているのが分かった。小枝さんの表情は淡々としていて一見落ち着いて見えたが、顔色は青白く透き通り、種をじっと見つめる瞳は、どことなく虚ろで、ぼんやりとして見えた。
なんだろう、やけに胸がざわざわとした。本当にこのまま、彼女が種を飲むのをただ見ていてもいいのだろうか?
「あの、その種」
思わずそう声を掛けた。
「ちょっと見せてくれませんか?」
種に見入っていた小枝さんは我に帰ったようにこちらを振り向くと、何も言わずに手のひらを差し出した。
そこには大豆ほどの大きさの小さな茶色い種が乗っている。
僕はそれを摘まむと、じっくりと観察した。
何の変哲もない、普通の植物の種である。
……これが、幸せの種だって?
どうしよう。どうするべきだろう? 彼女に種を戻してあげないと、と思ったが、意に反して体が動かない。気付かぬうちに心は、返したくない、という方向に傾きはじめていた。何故だかは自分でもよく分からなかった。分からないままに、目の前の種を手のひらでぎゅっと握り締めた。
「……本当は……」
握り締めた手のひらに、じっとりと汗が滲む。一向にまとまらない思いの渦の中、ぽつぽつと浮かび上がってくる言葉の欠片を拾い集めるようにして、僕は彼女に訊ねてみた。
「小枝さんは、この種がどういうものなのか知っているんじゃないですか?」
「――え?」
「だって、それを眺めているとき、このまま死んでしまうんじゃないかっていうくらい、悲しそうな顔をしていたから」
小枝さんは蒼白な顔色のまま、ぴくりともせずに黙ってそれを聞いていたが、やがて小声で「返して」と呟いた。
「佐伯くん。その種はね」
「本当は、毒なんじゃないですか?」
「いいえ、違うの、返して」
「いやです」
僕はベンチから立ち上がり、種を持っている手のひらを後ろ手に隠した。
「小枝さんは僕のいる前でこの種を飲もうとした。それはきっと、僕に……いや、あなたの息子さんに、そうするのを止めて欲しかったからじゃないんですか?」
そう言った途端、彼女の顔にさっと赤みが差した。
「そんなこと――!」
「その黄色いストラップ。息子さんのですよね」
彼女の手のひらに握られた小さな車。その表面に付いた傷の意味が、今なら痛いくらいによく分かる。
「以前、小枝さんはそれを、とても大事なものだっておっしゃいました。それはその小さな車のことだったんですか?それとも、その中に入っていた種のことだったんですか?」
「…………」
そう訊ねると、彼女の目から涙が溢れて、一筋こぼれ落ちた。
「……もう、だめなの」
ストラップを握り締めて、小枝さんはぽろぽろと涙を流した。
「もう、さよならしなきゃならないの……だから、返して」
「返したくありません」
「毒なんかじゃないのよ、それは」
「じゃあ、幸せの種、なんですか?」
「…………」
しばらくの沈黙の後、「そうよ」と彼女は言った。
「それがなければ、私はもう生きてはいけないの。だから、返して」
「…………」
彼女の言葉を聞くうちに、返しちゃいけない、と強く感じた。どこかがおかしい。何かが間違っている。説明できない不安と共に、その思いが確信へと変わっていく。
「身体に害のあるものではないわ。本当に大丈夫だから、ね、私に返して」
「その言葉、信じていいですか?」
ええ。と彼女は言う。
「もちろん。うそじゃないわ」
「――わかりました」
そう言うと、僕は自分でも信じられないことをした。
その種をつまむと、そのまま口に放り込んで飲み込んだのだ。
小さく息を飲む音が聞こえた。小枝さんが、呆然とした顔でこちらを見ている。
「毒じゃないんなら、幸せの種なんだったら、誰が飲んでも大丈夫ですよね?」
「佐伯くん――」
「ほら、なくなっちゃいました。だからもう、あの種のことは忘れましょう」
「どうして……」
「小枝さんは、本当はこれを飲むことを望んでいないって、分かったから」
「…………」
「あの……、確かに僕は何の関係のない人間かもしれないけど、小枝さんの力になれることがあれば、出来るだけのことがやりたいって思ってます。ええと……まずはそうだな、前田さんに、小枝さんの作ったお菓子を食べるようにと言ってやりたいです。甘いものが嫌いだからって、あんなに手間をかけて作られた美味しいものを食べないなんて、絶対におかしいと思います」
そんなとんちんかんなことを言っているうちに、小枝さんは両の手のひらで顔を覆い、泣きだしてしまった。無力でバカな自分が、ただ情けなかった。彼女を泣かしてしまった。大事な種を勝手に飲んだりするからだ。小枝さんはあれがないと生きていけないとまで言っていたのに。一体僕は何をやっているんだろう?
「……あの。大事なものだったのに……ごめんなさい」
だんだんと意気消沈してきた。やはり間違ったことをしてしまったのだと思ってそう言うと、彼女はうつむけていた顔を少し上げ、小さく首を振ると、涙声でううん、と言った。
「謝るのは、私のほう」
そう言うと、小枝さんは立ち上がってこちらにやってくるなり、その細い両腕を伸ばして僕の背中をぎゅっと抱いた。
「ごめんね」
ごめんね、と彼女は泣きながら、何度も何度も繰り返した。
正直、彼女に抱きつかれた途端、心の中は千々に乱れるわ心臓はバクバク言うわでそれはもう大変なことになっていたのだけど、小枝さんはきっと、亡くした息子さんをいつくしむような気持ちでいるんだ、と繰り返し何度も自分に言い聞かせるうちに、ようやく幾らか気持ちが落ち着いてきた。やっとのことで手を伸ばし、小枝さんの背中にこわごわ触れると、なるべくそっと気配を消すようにして、その場につっ立っていた。
「……体、大丈夫?」
どれくらい経ったのかなんてまるで分からないくらい、頭も体もくらくらしていたが、涙でくぐもった小枝さんの声が耳に届いたとき、ようやく少しだけ現実感が戻ってきた。
「――え?」
「種、飲んじゃったでしょう?」
「えっ……じゃあこれって、やっぱり毒だったんですか?」
「いえ、毒とはまた違うのだけれど」
そう言うと、小枝さんは身体を離し、僕の顔を見上げた。
「でも、なるべく早く主人に相談しなければいけないわ。あの人から、決して他人に渡してはいけないものだって言われていたから」
「――――」
今日のことを、前田さんに話さなければならないのだろうか。
「……怒られます、よね?」
そう訊ねてみると、小枝さんは最初、驚いたような戸惑ったような顔で僕を眺めていたが、やがてその張り詰めていた表情をふと緩めると、少し可笑しそうにふふ、と笑った。
「そうね、多分。私もあなたも」
どきりとした。小枝さんが笑った。なんだかもう、それだけでこっちまで救われたようで、胸がいっぱいになった。
「だけど、それよりも今は、あなたの体が心配なの。私では詳しいことが分からないから、申し訳ないけれど、もう一度主人に会ってもらえないかしら」
「……はい」
やはり、どうやら自分は大変なことをしてしまったらしい。ほんとにすみませんでした、と小さな声で言うと、小枝さんは「謝らないで」と言った。
「だけど、勝手なことをして、大事なものを」
ううん、と、彼女は首を振る。
「もう、種はいらないの」
そう言って、小枝さんはもう一度、僕の顔を見上げた。
「あなたが、私に教えてくれたから」
流れ落ちる涙を拭い、彼女は手を伸ばして僕の頬に触れた。そして「ありがとう、佐伯くん」と言った。
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