しあわせのおいしさ

榮織タスク

茶漬けとひやじる

「おかえりぃ」


 ドアを開けると同時に聞こえてくる声に、軽く顔をほころばせながら、アキオは玄関で靴を脱いだ。


「ただいまぁ」


 ミカの顔を見て、告げる。これだけは結婚してから今日まで、帰宅時の暗黙のルールとして――自分の中で――守ってきたものだ。


「お疲れ様。どうする? 先にお風呂入っちゃう?」

「あぁ……うん。どうしようかな。何か軽く食べようかな」

「ん、分かった。……じゃ、あれかなぁ」


 楽しそうにキッチンに引っ込むミカの様子を目で追いつつ、リビングに向かう。

 一日――いや、この一週間の疲れが、何だかどっと出てきたような。

 アキオはネクタイを緩め、ワイシャツをくつろげながら自分の指定席に座る。


「ふぅ」


 見えるのはミカの背中と、視線を巡らせればテレビ。

 涼を提供してくれるクーラーの風が気持ちよく、ふわぁとひとつ欠伸を漏らす。

 カチリ、という音。コンロのスイッチだ。何かを温めているらしい。

 アキオはテレビのリモコンを手にして、チャンネルを変えてみる。


「げっ、負けてる」


 ひいきの球団が六点も取られていた。帰宅してまでイライラしたくないので、アキオは素直にチャンネルを戻した。


「野球?」

「ん。今日はダメかな」

「残念ね」


 ミカがどんぶりを持ってキッチンから出てきた。

 置かれたどんぶりを覗けば、半分ほどの白米に、白身魚の刺身と刻んだネギ。ゴマの香りが鼻に嬉しい。


「これ……」

「んふ、ちょっと待ってね」


 再びキッチンに戻り、ヤカンを持ってくるミカ。

 先ほど温めていたのはこれらしい。


「はい、どうぞ」


 目の前で、温めた中身――出汁の色だ――をさぁっとどんぶりに注ぐ。

 白身の刺身が、熱で純白にさっと色を変える。

 金色に透き通った出汁が、ゴマだれと交じり合って白みがかり、米粒がくるくると舞い踊る。

 ごくり。喉が鳴った。


「鯛茶漬けかぁ!」

「安かったの」


 と言うことは、何尾か買っているはずだ。出汁の用意があるなら、明日辺り鯛めしにするつもりだったのかも。

 なんにしても、軽く食べるには最適な一品だ。

 レンゲを手にして、いただきます。


「うぁー、贅沢な美味しさだなぁ」


 口の中に広がる、半生の鯛の甘味と、出汁の上品な味わい。

 豪快に掻き込むには勿体なくて、でも美味しさに手を止められない。


「美味しい?」

「美味しい」


 程なく全部を胃袋に納めて、アキオはどんぶりをテーブルに置いた。

 対面の指定席で、にこにことこちらの様子を眺めていたミカに、こちらも柔らかく笑いかける。


「明日のお昼は、僕が作るよ」

「そっか、お休みなんだっけ」

「うん。鯛のほかに、何か買ってある?」

「魚はないかな。何作るの?」

「明日も暑いみたいだし、ひやじるでも作ろうかなって」

「あ、いいわねぇ。そしたら朝、買いにいかないとね」


 休日の予定が決まった。取り敢えず指折りながら、父親直伝のひやじるのレシピを確認する。


「白身魚と、ピーナツと、ゴマと、白味噌だね。ええと、ああそうだ。あと麦。ひやじるは麦飯じゃないと」

「お義父さんが前に作ってくれたよね」

「そうそう。焼いた魚の身をほぐして、ピーナツとゴマと味噌といっしょにしっかり擂ってからひと炙り。あとは出汁に絡めて冷蔵庫!」

「明日はお昼がひやじるで、晩御飯が鯛めしだね。わぁ、魚づくしだ」


 想像するだけで美味しさを感じるのか、ミカの表情がだらしなく緩む。

 アキオもまた、普段は料理なんてしなかった父の無骨な味を思い出しつつ、微笑むのだった。



 同じおいしさを共有できること。

 それもきっと、しあわせのかたち。

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