ハーモニカの恋
御手紙 葉
ハーモニカの恋
ハーモニカが好きだった。
僕はそれを口に付けると、息を吹きかけた。すると、透き通るような音色が響き渡って、体中を爽やかな風が包み込んできた。
僕は海辺の砂浜に座って、ずっとずっとハーモニカを弾いていたのだった。それは『なんてことはない一日』という曲だった。今はもう他界した祖父が作曲家で、生前僕に色々な曲を教えてくれた。
それを弾いていると、色々な思い出が胸を過って、懐かしさが心をすっぽりと包んでくる。あの頃は楽しかったな、と思う。何一つとして不安に思うことはなく、のびのびとハーモニカを弾いて、あの子とずっと遊んでいられたのだ。
ハーモニカを吹きながら、それをじっと見つめていると、あの少女の顔がすっと脳裏に浮かんでくる。目元が細くて、優しそうな眼差しでいつも僕を見返してくれた。あの子は僕があげたそれを見て、どう思っただろう。馬鹿らしくなって捨ててしまったのだろうか。
そう言えば、あの子の家もこの海のすぐ近くだったな。なんでこの海に突然来たのかは自分でも判然としなかったが、やはり心の底で彼女のことが気になっていたのかもしれない。
――会いに行こうか。
僕は一瞬そう思ったけれど、しかし今会って一体何が変わるのだろうと後ろめたさが心に広がっていく。
僕はその曲をしばらくずっと弾き続けていた。静かな潮騒が耳元で繰り返され、雲ひとつない青空の下で、銀色に輝く水面がどこまでも広がっていた。その水平線を見ながら、僕はずっと遠くへと心を旅させていく。
そこで、ふと生温かな風がふわりと僕の額を撫でつけてくるのがわかった。同時に風に乗って、どこかで感じたことのある心地良い香りが僕の鼻を掠めた。昔、花の香りがする髪をした綺麗な少女がいたのだ。
僕はそっと振り返った。その瞬間、ふと空からきらきらと輝く日差しが舞い降りた気がした。
一人の少女がそこに立っていたからだ。長い黒髪は太陽の光に煌めき、腰の上でひらひらと揺れていた。麦わら帽子を被っていて、肌は砂浜よりももっと透き通るような白だった。
水色のワンピースを着ていて、サンダルを履いていた。この蒸し暑い海辺の空気とはどこか違う、清純な雰囲気が彼女のほっそりとした体を包んでいた。
僕は思わず食い入るように見つめて、鼓動が跳ね上がったのがわかった。あまりに美しい少女に、どんな言葉を零すこともできずに硬直してしまう。
彼女は両手にアイスクリームを一つずつ持っていて、僕のハーモニカをじいっと食い入るような眼差しで見つめていた。しかし、彼女はふと微笑むと、アイスクリームを僕に差し出してきた。
僕はぽかんと口を開けてそのすらりと細長い指先をじっと見た。
「これ、あげる」
彼女は顎に雫を滴らせながらそう言った。目元は麦わら帽子で隠れていて、見えなかった。その表情を覗きこもうとすると、彼女は俯いて手の甲で顔を擦った。
彼女の頬はやけに赤く、汗の為か少し濡れていた。暑いから仕方がないことだろう。
「え、でも……。本当にもらっていいの?」
僕はアイスクリームをじっと見つめながらそう言う。
「いいから」
彼女はそう言って笑った。彼女の声は何故か震えていた。アイスを差し出すその手も小刻みに揺れている。僕はどうしたんだろう、と思った。
僕はハーモニカをズボンのポケットに入れると、アイスクリームを受け取って頬張った。ソーダ味で、とてもひんやりとしていて美味しかった。
彼女はそんな僕の様子を見つめると、くすくすと笑って隣に腰を下ろし、懐かしいな、と何度も繰り返した。その表情はとても嬉しそうだった。
「あのね。今の曲、私も知ってるよ」
彼女はそう言ってそのメロディを口ずさんだ。
「なんてことはない一日だっけ? すごく陽気で、楽しい曲だよね」
少女はアイスクリームをぺろりと舐めた。僕は目を見開いて、彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。この曲を知っている人がいるなんて本当に驚きだった。
少しずつ僕の胸の中で、予感が形となって浮かび上がってくる。
「この曲ね、私のおじいちゃんが作った曲なんだ」
ふわりと風が吹き付けてきて、僕の前髪を浮き上がらせた。僕は声を失い、彼女の言葉を反芻する。彼女の祖父がこの曲を作った。それは――。
彼女はそこまで語り終えると僕の瞳の奥をじっと見つめてくる。彼女が僕の心を見透かしているような気がして、どぎまぎするのを抑えられなかった。
彼女のその微笑みが、記憶の中の少女と重なっていく。まさか、そんな――本当に?
「あなたは、なんでこの曲を知ってたの?」
彼女はじっと僕の瞳から目を逸らさず、そう聞いてくる。僕は動揺して掠れ掛かった声でなんとかごまかそうとした。
「たまたま友達に教えてもらったんだよ。というより君、名前何て言うの?」
僕は逸る気持ちを抑えて言った。
「山本葉月」
時が止まった気がした。
僕の視界から白い砂浜と澄み渡った青空が消え、彼女の姿がくっきりと浮かび上がる。……山本葉月。本当に、――本当に葉月なのか?
その顔を見れば見るほど、幼い頃の彼女と重なってきてしまう。目元があの頃と全く変わっていなかった。ようやく僕は彼女が葉月であるということを心に刻み付けることができた。
涙が溢れ出てくる。俯き、僕の顎を雫が伝い落ちていった。僕はそれを手の甲で拭い取って、擦った。
どうしたの、と彼女が不思議そうに聞いてくるのがわかる。
「いや、なんでもないんだ。汗が目の中に入って」
僕は自分の声が震えていることに気付いた。彼女に僕の本当の心が悟られてはいないかと動揺していたけれど、彼女は気にした様子もなく、僕へ名前を聞いてきた。
僕の頭の中で思考が駆け巡り、様々な迷いや戸惑い、不安が湧き上がってきた。
本当の名前を教えた方がいいんじゃないのか? 彼女とはもう会えないのかもしれないんだぞ。
それでも、気付けば僕の口からは嘘にまみれた言葉が零れていた。
「僕の名前は、平坂蒼井だよ。変わった名前でしょ」
嘘だ。違う。僕の本当の名前は――。
「いい名前だね、アオイ、か。なんだか海にぴったりだね」
僕は彼女の顔から表情がすっと消えていくのを見た気がした。彼女は何故かそこで俯き、じっと黙っていたけれど、すぐに振り向いて言った。
「君、どこかで会ったことがある? なんか君を初めて見た時から、話しかけたくなっちゃって」
彼女はそう言って僕の手首をぎゅっとつかんでくる。僕ははっとして彼女の潤んだ瞳をじっと見つめた。
会ったことがあるよ、と心の中でつぶやいた。
僕が幼い頃、わずかな期間だけ会ったことがある。彼女は、僕のいとこだった。彼女の髪から漂う花の香りは、あの頃と変わらずまだ残っていた。そのことに、少しだけ心が落ち着いてきた。
「会ったことはないよ。でも、アイスクリーム本当にありがとう」
僕はそう言うと、アイスクリームを頬張った。
本当は彼女に「僕だよ」と伝えたかった。でも、今更僕らが再会したところで、何かを変えることなどできるはずないのだ。そんな気がした。
そこで、彼女が突然ゲホッと激しく咳き込んだ。砂浜に膝をつき、胸を抑えて苦しそうに喘ぎ始める。僕は息を呑んで、そしてすぐに彼女の背中に手を回して擦った。
「ゲホッ、ハッ、ゴッ」
彼女は呼吸することもできないのか、何度も咳を繰り返して、僕の腕を骨が軋むほどにぎゅっと握りしめた。僕は「大丈夫?」と囁きながら、頭から血が引いていくのがわかった。
彼女は息を切らして苦しそうにしていたが、やがて僕へと振り向いて微笑み、僕の手首を縋るように何度も握った。
「私ね、もうあまり長く生きられないんだ」
彼女はそう言って今にも崩れてしまいそうな弱々しい笑みを浮かべた。僕は言葉を失い、彼女の血の滲む程の苦しさを想像して、叫び出してしまいそうになる。
「病気でね。もう半年しか生きられないんだ。でも、全然悲しくないの。もう十分幸せに生きたから」
彼女の手が激しく揺れて震え出し、それでも彼女は僕へと満面の笑顔を向けてうなずいてみせた。
僕は頭から思考が押し潰され、真っ白に掻き消えていくのがわかった。嘘だ、なんでだよ、そんなことって本当にあるのかよ。こんなにも彼女は今、笑って僕と話しているんだぞ。
ふざけるな、ふざけるなよ。
僕は拳を握って、歯を噛み締めた。やっと再会できたと思っていた。だけど、彼女と心を通わせて未来に生きることはできなくなってしまうのだ。
「本当に……本当に、君はもう、」
僕が震える声でそう聞くと、彼女は確かに大きくうなずいてみせた。
「ホントだよ」
彼女の手の震えがゆっくりと収まっていった。息切れも消えていき、やがて彼女は僕の隣に座り直しながら、朗らかな声で言った。
「あのね。私、最後に君のハーモニカをたくさん聞いてみたいんだ。弾いてくれない?」
彼女は僕の手首を強く握ってそう言った。
その嬉しそうな顔が、昔、彼女が僕にハーモニカをせがんだ時のものと重なった。僕はぐっとその想いを抑えつけて、精一杯に笑って言った。
「わかった。ハーモニカ、聞かせてあげるよ」
僕はポケットからハーモニカを取り出し、それを口に近づけた。
そして、『ラザニア』という曲を弾きだす。その瞬間、周囲の海辺の景色が消え、黄色い光が溢れる台所の風景へと移り変わり、僕らは確かに食卓の情景を思い出していた。
その水の上を跳ねるような軽快なリズムに合わせて肩を揺らせ、僕はにっこりと笑いながら『ラザニア』を弾いた。彼女も目を潤めながら何度もうなずき、体を揺らせている。
僕の奏でる旋律は彼女の置かれている状況など全て取るに足らないものとして砂浜に押し込め、心から音楽と繋がることができるように優しいリズムで背中を後押ししてくれる。
ゆっくりと彼女の瞳から涙が溢れ出し、瞬く間に頬を伝いだした。僕は彼女をまっすぐ見つめながら、その演奏に今までの沈黙の意味を伝えようと想いを篭め、今まで会えなかったことを謝った。
でも、彼女は僕のそんな心など気にせず、ただ僕のハーモニカの音色を聴いて笑ってくれる。僕らは確かにその透き通った音色に身を委ねて、言葉を交わしていた。
彼女は目を閉じ、意識を僕のハーモニカへと向けた。僕は彼女の心へと音符と鼓動を伝えていく。やがて曲は静かに終わりを告げ、彼女はぱっと顔を輝かせて瞼を開いた。
「すごい。本当にハーモニカ、うまいんだね。おじいちゃんのこと、いっぱい思い出したよ」
彼女はそう言って涙を拭い取り、嬉しそうに笑った。僕も頬を緩ませて、すかさずハーモニカを口に近づけた。
そして『列車』を弾いた。汽笛と線路の揺れが彼女の胸を揺さぶり、『手紙』が流れ出すと、淡く切ない恋物語が彼女の頬を色づかせる。最後に『花咲く木』を弾いて、彼女は息を切らせながら、満ち足りたような笑顔を浮かべて拍手してくれた。
「君のおじいちゃんが作った曲だよ。僕も好きなんだ。この曲を弾きたくて、ハーモニカを習いだしたんだ」
僕がそう言ってハーモニカを膝の上に置くと、葉月はそこで何故かじっと僕の顔を見つめてきた。その眼差しに何か切実な感情が篭められているような気がして、僕は身を乗り出して彼女に顔を近づけた。
「何か、リクエストはある?」
僕が言った瞬間、彼女の唇から漏れたその言葉に、僕は鼓動が跳ね上がるのがわかった。
――『海』、を聞かせて欲しいの。
彼女は星に願い事をするように、祈る表情で言った。
「『海』、か。なんでこの曲を?」
僕は震える唇を動かせてそう聞いた。すると、彼女は雲の隙間から覗いたお日様みたいな笑顔で言った。
「おじいちゃんの曲の中で、一番好きだから」
彼女は赤みがかった顔でそう小さな声で言った。僕は彼女のはにかむような表情を見て、押し黙っていたけれど、やがて覚悟を決めてうなずいてみせた。
「わかった。弾くよ」
そう言ってハーモニカを再び握り、その想いを口先に篭めて、音色を響かせた。海の潮騒がゆっくりとハーモニカから漏れ出し、波打ち際の水の弾ける音と重なって、彼女の心を暖かく包み込んだ。
僕はその曲を弾きながら、切ない想いが喉元をせり上がってくるのを感じた。この曲を選んだ彼女の心を想像して何もできない自分に対してどうしようもない焦りが湧いてくる。
僕にはまだ、彼女に対して何かできることがあったんじゃないのか。それを今、躊躇って彼女を苦しませることになったら、自分が許せなくなるかもしれない。
それでも僕は本当の想いを彼女に伝えることはできなかった。『海』というその曲はただ優しく、繰り返し繰り返しメロディがゆったりと流れていき、ただ美しく綺麗な旋律を奏でていた。
僕の息吹が恋物語を紡ぎだし、ひっそりとした海の囁き声に変わり、辺りに溶け合っていく。僕は確かに空へと音がふわりふわりと浮き上がって、風に乗って彼方まで旅していくのを見た気がした。
この曲は……君にとって、どんな想いが篭められた曲なんだ?
僕は目の前の彼女の優しい笑顔を見つめながら、目の奥が熱くなっていくのを感じた。
ゆっくりと曲は静かになっていき、僕はハーモニカを口から離すと、笑いかけた。顔が引き攣っていないように、全身の力を篭めて笑いを作った。
彼女はすっと手を上げて、掌を叩いた。その拍手はすぐに大きくなり、彼女は何か声を上げながら嬉しそうにした。
「すごい、この曲いつか聞きたいと思ってたの。ピアノでもない、レコードでもない、そのハーモニカで一度だけ……願いが叶って良かったわ」
彼女はそう語り、胸にそっと手を置いて心を篭めるように言葉を紡ぎ出した。
「私ね、この曲と同じ名前の男の子を知っているんだけど、ずっとずっとその子と会いたいって思ってたんだ。でもね、その願いが――」
そこまで言葉を零して、彼女はふっと微笑みを浮かべて押し黙った。彼女はじっと僕の瞳を見つめ、何か感情がこもった深い眼差しを僕に向けてきた。
そして、口を開きかけたが、彼女はそれ以上何も言うことはなかった。
ゆっくりと僕の近くへとすり寄ってきて、じっとハーモニカを見つめてくる。そして、僕へと元のような純粋な笑顔を見せて、「これ」とつぶやいた。
「ハーモニカの弾き方、教えてくれない?」
彼女のそのはにかんだような笑みを見て、僕はそれまでの想いが体を震わせて、今すぐに彼女の為に何かをしてあげたいと思えてくる。だから自然とうなずき、僕は彼女の手を引いて、近くに引き寄せていた。
「わかった。まずは簡単な曲から弾いてみようか」
今まで、会えなくてごめん。ずっとずっと葉月は僕のことを忘れていなかったのに、会いに行かずに一人ぼっちにさせて、本当に悪かった。だから、僕は君に今までの想いを音楽として全て渡すから。だから――。
僕は彼女と肩を並べて砂浜に座り、そのハーモニカで「列車」を弾く練習を手伝った。彼女はあまり大きな息を吐きつけることはできなかったけれど、微かな音色が夏の風に乗って運ばれてくる、優しい潮の香りのように僕の心に美しい色彩を広げさせた。
彼女は「列車」を何度も何度も弾いて、僕へと満面の笑みを浮かべて、嬉しそうにする。そして、ほんのりと頬を赤くして、はにかんだような顔をした。
「初めてにしては、上出来だよ」
それは僕の心からの言葉だった。葉月はこれからもっともっとハーモニカを弾けば、もっともっとうまくなって、やがて潮風よりももっともっと遠くへと心を旅させていくことができるだろう。
そこで葉月がそっとハーモニカを下ろし、膝の上に置きながら、ぽつりと言った。
「私ね、前にもハーモニカをもらったことがあるんだ」
彼女は水平線のずっと向こうを見つめて、遠い眼差しをしてそう微笑んだ。
「ずっと会っていなかったいとこなんだけど、誕生日プレゼントにそれをくれたの」
僕の喉が激しく震えて、今にも「葉月」と名前を呼びかけそうになってしまう。でも寸前で堪えて、そうなんだ、と掠れかかった声を零す。
「今日帰ったら、そのハーモニカを弾いてみようかな」
うん、と僕は何度も何度もうなずいて、彼女に笑みを浮かべた。
「そうするといいよ」
彼女に「目の前にいるよ」と伝えたいのに、喉まで出掛かった声は胸に落ちて溶けた鉛みたいに張り付いてしまう。
僕は自分の膝に手を置いて拳を握りかけて、それを抑えることを繰り返した。
僕に言葉はなく、ただただ震えながら彼女をじっと見つめることしかできなかった。
彼女はじっと僕を見つめて微笑みながら、長い長い沈黙を過ごした。やがて立ち上がって、「じゃあね」と夏の琥珀色の陽射しに負けないくらいに透き通った笑顔を浮かべて、うなずいてみせた。
僕はうなずき、彼女の笑顔をこの目に焼き付けることしかできなかった。彼女の顎をまた雫が流れていった。
僕が手を振ると、彼女はゆっくりと遠ざかりながら、小さく手を振り返した。
その長い黒髪が背中で揺れる度に、微かな花の香りが僕の元まで漂ってくるような気がした。彼女のサンダルが遺した小さな足跡だけが、僕の前に残った。それはやがて他の子ども達の足跡に掻き消されて、あの水色のワンピースが海と溶け合って僕の心に焼き付いただけだった。
僕は彼女のことを追えずに、ただそこに腰を下ろして唇を噛み締めていた。葉月と会えた嬉しさが彼女を救えなかった情けなさに変わって、僕はハーモニカの感触だけをぎゅっと握り締めた。
全ては潮風に乗って、洗い流されてしまうのだろう。僕が葉月と会ったその確かな記憶も、夏の熱気に掻き消されてしまうに違いない。
でも、それでも――。
そして、その数日後、親戚のおじさんから葉月が亡くなったという連絡をもらった。
*
僕は両親を残して、一人でお通夜に行った。
当然そうするしかなかった。おじさんと僕の父が会ったら、葉月も僕も、死んだ祖父も、心を引き裂かれることになるかもしれないから。
おじさんは全然変わっていなかった。こんな時でも僕を気遣ってくれて、話を聞いてくれた。髪には白いものが半分くらい散りばめられていたけれど、その笑みはあの頃と変わらない優しさを感じさせた。
両親にも、おじさんのそういうところを伝えてあげたかったけれど、もうそれは叶わないのだろうか、と僕は胸が締め付けられた。
「久しぶりだな」
おじさんは僕の頭にぽんと手を置いて、懐かしそうな顔で笑った。でも、その笑みは頼りなくて、今にも崩れ落ちて、僕の足元に蹲ってしまいそうな危うさがあった。
「葉月は君にずっと会いたがっていたんだよ。すぐに来てくれても良かったのに」
おじさんは僕を責める訳でもなく、ただこうして僕が葉月の元にやって来たことが本当に嬉しそうだった。
それでも、僕はおじさんのその言葉が胸を抉り、心臓を突き刺して、哀しみを溢れ出させるのがわかった。僕も、どうして会いに行ってやれなかったんだろう、と拳を握って俯いた。
「僕は……葉月にずっと会いたかった」
涙が浮かんできたけれど、それを堪えて、代わりに言葉を零した。
「でも、今更どういう顔をして会いに行けばいいのか、わからなかったんだ」
葉月の両親は離婚して、おじさんの元に彼女は付いていくことになった。葉月の母親と兄妹である僕の父が、おじさんのことを良く思わなくなるのは当然のことだった。それで、おじさんとうちの両親の仲は険悪なことになり、それ以来葉月の家に寄り付いていなかったのだ。
何度も喧嘩が重なって色々とあり、気付けば僕は葉月と遠く離れた場所にいることになった。無理して会いに行く訳にもいかなかったし、どうしたらいいのかわからなかったのだ。
それでもあの海へと行ったのは、心の底では彼女と会いたいと思っていたからかもしれない。
「不思議なものだな。死ぬ何日か前に海から帰ってきた時に、君からもらったハーモニカを取り出して、弾いたんだ。初めてなのに、とてもうまくてびっくりしたよ」
おじさんはそれだけが死ぬ間際の彼女にとって、唯一の幸せだったかのように、涙を浮かべながら語った。
僕は目を見開いて、そして微笑んだ。やっぱり、弾いてくれたんだな、と。
「何か……葉月は言ってましたか?」
さっきとても嬉しいことがあったの、と彼女はそう言った。
『これで、悔いはないよ。会いたい人に、会えたから。ハーモニカの弾き方、教えてもらったんだ。本当はもっと話したかったんだけど、その子も私のこと見て、悲しそうにしてたから。でも、このハーモニカを持っていれば、ずっと私はあの子と一緒なんだ、って思えて。だから、』
おじさんは彼女の言葉を一つ一つ胸から紐解くように、そうつぶやいた。そして、再び一つ一つ、心に刻むように目を閉じた。
僕はきつくきつく肌に爪を立てる。あの時、どうして彼女に言ってやれなかったんだろう。再会を喜んで、自分が目の前にいることを伝えて、笑い合っていれば、彼女は――。
「葉月に言葉を掛けてやってくれないか?」
おじさんが頬を伝う涙を拭わないままそう笑顔で言うと、僕はその嗚咽を堪えながらうなずいた。
真っ白な肌の葉月に近づいた僕は、その頬に手を当てながら、囁いた。
「僕だよ。また……会ったね」
涙が彼女の頬に弾けて、僕の掌に吸い込まれていく。
「ハーモニカ、弾いたんだって? あのさ、僕が何で葉月にハーモニカを渡したか、わかる?」
葉月の透き通るような白い肌に呑まれてしまいそうになりながら、それでも僕は言った。
「僕のこと、忘れて欲しくなかったからだよ。葉月が僕のハーモニカを聞きたいって何度もせがんできたのを覚えていて、これがあれば僕らは繋がっていられると思ったんだ」
これからは、君の為にハーモニカを弾くよ。
僕はおじさんへと振り向き、ハーモニカを取り出した。そして、いいですか、と問い掛けた。彼は大きくうなずき、聞かせてやってくれ、と懇願した。
僕は「葉月」という曲を弾いた。それは祖父が病弱な葉月の為に書いた曲だった。とても柔らかな空気が流れる曲で、その中で無邪気に跳ね回るメロディが耳に残った。彼女にこの曲を、その曇りのない笑顔の前で弾けたら、どんなに良かっただろうか。
でも、それはもう叶わないのだ。
小さな音の連なりがやがて風となって、ずっと遠くへ旅立った葉月の元へと全てを届けてくれるだろう。だから、僕は今、彼女の笑顔を脳裏に焼き付けて、彼女のことだけを想って弾く。
祖父は自分の孫の為に、一人一人曲を作ったのだった。『海』と、『葉月』だ。僕の名前は海人で、そこから一字取り、僕らは小さい頃、お互いにその曲を唄って遊び続けたのだった。
……葉月。僕は、君のことを絶対に忘れないよ。ずっとずっと、ハーモニカを弾いて、天国の君に届けるから。だから、どうか……安らかに。
そう心の中で囁きかけて、ハーモニカを彼女に近づけ、涼しげな音色を暖かな風に乗せると、そこで彼女の口元に花びらが舞い、微かにそっと微笑んだ気がした。
了
ハーモニカの恋 御手紙 葉 @otegamiyo
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