恋愛思考

霞ヶ関

夏はなかった

 どこか遠い、と思った。

 砂の上をざくざく歩く感触は耳と、舞い上がる砂埃でよく分かっていた。これが夢であることも理解していた。

 だけど砂漠の終わり、夢の終わりを告げる水辺がどこにあるのか、私にはちっともわからなかった。

 遠くは見通せなくて、近くははっきりしすぎている。

 ただ、そのことだけを、私は覚えていた。



 蛍光ペンが落ちた。カツン、と床に当たった音が先生の声の間に響いて、何人かが振り向く気配がした。びくっと体が反射的に跳ねてしまった。音を立てないように気をつけて、椅子を下げ、しゃがみこむ。指先に少し触れたペンは、横から伸びてきた誰かの手に奪われてしまった。いや、誰かなんてすぐに分かったから、もう誰かじゃない。


「……はい」

「……ありがと、櫻井」

「別に」


 交わす言葉が少ないことは、大して問題じゃない。隣の席になってしまったことの方が、重要な問題点だった。

 櫻井というこの男子高校生は、見た目は素晴らしくかっこいいし、頭も相当素晴らしい人だ。彼の魅力は同学年だけでは収まらず、他学年からも引く手数多である。

 そんな人、普通の高校にいるなんて珍しいが、櫻井は平然と普通科の高校に通い続けている。あと半年もすればはしゃいだ奴らのいる大学へと進むから、在校生は悲しいらしい。


 かく言う私は、そうなんだ、としか言えなかった。

 中学からの付き合いだから、格好の良い上っ面もばかっぽい無邪気さも他の人よりは知っている。体育の授業ではしゃいで怒られた姿なんて、このクラスの女子は知らないだろう。

 上っ面がうまくなった櫻井は、余計に美化されるようになった。

 その裏で、彼は平気で男子と馬鹿騒ぎをしていると、誰が想像できるだろう。巻き込まれていた私もまさか、と思ったものだ。

 それくらい、よく知っている。ひとつ、進学先はどこなんだろうな、とは思うけど。


 時計の針が三を示したところでチャイムが鳴る。先生は黒板に書かれた数式の答えを書かず、次に持ち越すと言った。問題四のかっこ二番、とメモをして消されていく白文字を見送った。シャーペンと消しゴムを筆箱に戻すと、かつん、と机の端を叩かれた。


「なに、何か用?」

「さっきは珍しいなと思って」


 櫻井は既に教科書類を次の科目にかえていて、頬杖をつきながらこちらを見ていた。


「ペン落とすくらい誰でもやるでしょ」

「そっちじゃない。お礼言うなんて思ってなかった」

「そんなに非常識な人間だと思ったの?」

「いや、違うのは分かってるんだけどさ」


 櫻井の言葉は、どうもコントロール不足な気がした。他愛もない会話なら、誰とでも簡単にする彼にしては、滅多にない雰囲気だ。

 熱でもあるのか?顔をよく見てもそんなふうには見えない。


「皐月、お前さ、進路決めたのか」

「さっきから唐突に、…………決めたけど、なにか?」

「県外、行く?」

「行くよ。志望学科が県内の大学にはないから」

「……そっか」


 残念そうに言った櫻井は、もう私に用がないみたいで、引き出しから本を取り出して読み始めた。

 一体なんだというのだ。

 志望大学の話がしたかったなら、初めからそれを聞けばいい。わざわざ他愛のない話を混ぜて来なくても、私はちゃんと答えるのに。

 その程度のこと、櫻井は分かっているはずだ。ただのクラスメイトではない。私たちはよりお互いを理解していた。だが、ぼんやりとした櫻井にイラっとする。


 一体、なに!なにが言いたいの?


 そう強く言おうと口を開けば、スピーカーから無機質なチャイムが鳴ってしまう。時計の針は五を指していた。短い休み時間が終わって、次の担当教科の先生はにこやかにやってくる。

 なんてタイミングの悪い。

 はい、始めます。先生の言葉に委員長が声を上げる。

 起立、気を付け、礼。

 ガタンガタン鳴る椅子の音はうるさく、怒っても仕方ないから、疑問を窓の外へ投げ捨てた。



 部活のない放課後の教室は、勉強する人だけで埋められていた。クラスの半分ほど残るこの景色は、焦りと慌ただしさでいっぱいだ。

 午後の英語は眠気もあって、分からない問題が多かった。そのままにはしておかないと、職員室に行って帰って来たら、私の席は隣のクラスの女子にとられていた。

 彼女の「ごめんねー!」と軽い言葉に、笑って「全然いいよ、すぐに帰るし、ゆっくり使ってね」と返した。邪魔だっただろう鞄は、櫻井の机に移動されている。

 指定鞄とリュックの二つは総重量がかなりあって、肩がじりじりと痛い。これを三年間も続けているからか、肩凝りが随分ひどくなってしまった。

 じゃあね、とクラスメイトに挨拶をし、靴箱までゆっくり歩く。通り過ぎる同級生は、皆気難しそうな顔をしていた。受験生の夏は辛い。そういう時期と分かっていたところで、どうにもならない。

 どうにもならなくてもどうにかしなきゃいけない。受験のことも、その先将来のことも、私たちのことも。

 辛抱強く待っていたのだろう。問題集から視線をあげた櫻井は帰るか、と小さくこぼした。



 五年前、ちょうど初めての中学の夏が迫る頃。私と櫻井は、友人の友人、という形で出会った。小学生から羽を伸ばしたばかりの私たちは、その場のノリですぐに仲良くなった。

 お互いに運動部に入っていて忙しかったけど、合間を縫って遊びに行った。そこで思春期の私たちが意識したのは、恋愛関係のことだった。

 その時から、かっこいい人だと思っていた。見た目も頭もいい、適度に周りが見えている、人当たりは充分。憧れの視線を向ける女子の多さに、目がくらみそうになったが、私たちはごく自然な形で結ばれた。

 見た目で選ばない、彼の内面の良さが一番好きだと思った。

 一緒にいて楽しかったし、楽な気持ちだった。好きだと思えて、手を繋いでキスもしたし、幸せだと思った。


 だけどそれ以上に、この人と一緒にいてはいけない。そんな感情が芽生えるのは、遅くなかった。なぜと言われても分からない。

 友達よりも仲良くしたい。

 恋人みたいに仲が良くてはいけない。

 矛盾した感情が湧き上がってきて、どうしようもなくなった。理由を聞かれても答えられなかった。

 夏の終わりから付き合い始めて、一年足らず。夏が始まる前に、私たちは友人に戻ったのだ。



 思い出せば、あれは遠い過去になっている。三年以上前の話で、私たちはあれ以来、特別親しくしていない。今年はたまたま同じクラスになったが、これまでは会うことも少なかった。隣で並んで帰るなど、付き合っていた時からしていない。

 だから、今日どうして誘われたのか、私は謎だった。

 持つ、と言われて、流されるままに渡してしまった鞄が気になる。彼は彼で重い荷物があるのに、進んで加えたのは私への配慮か。そんなものいらないのに、と溜息をつきそうになる。

 電車通学の私たちは、駅のホームではまるで他人のように振る舞って、話をしたことがない。駅までこの空気を我慢しよう、と私は密かに決めた。

 日向しかない歩道は、アスファルトの熱で焼けそうだ。紫外線ではなく遠赤外線、本当に焼けてしまいそうなほど暑い。

 少し歩くと、太陽がビルに遮られて、影が差した。すると櫻井は、急に足を止めた。私もつられて歩みを止める。浅く息を吸った櫻井の向こう側で、陽炎がはっきり見えていた。


「あのさ」

「……はい」

「俺、多分、皐月と同じ大学受けると思う」

「そう、ですか……」


 思わぬことを口にした櫻井の瞳は、私をうつして、私を見ていた。嫌な音を立てた胸を誤魔化すように、視線を逸らす。櫻井はまだ、話をやめてはいない。


「あのとき、俺たちは多分、お互いのことをよく分かってたよ。だから別れたんだと思う」

「……うん」

「俺はあのあと何人か付き合ったけど、皐月みたいに全部わかってくれる子はいなかった。だから、距離が近すぎたって、こういうことなんだと思ったよ」

「櫻井、何が言いたいの?過去を懐かしみたいの?」

「……そうじゃない」

「なら何?いきなりそういう昔の話されても困る」


 私たちの関係はあのときに終わった。恋人の関係はもう終わっている。

 しかし櫻井は、それの延長戦の話をしているようで頭が痛い。真剣な、告白された時の櫻井の瞳が、私の記憶を焼いている。


「俺は皐月ともう一度、付き合いたいと思ってる。」

「…………なんの冗談?」

「冗談じゃないってわかるだろ」

「わかるよ、わかるから言ってるの!」


 きらきら輝いていた、あの夏のない思い出は、私の宝物だ。宝箱から出してしまったら、きっと錆びついてしまう、そんな脆く儚く煌めいた思い出。

 櫻井はそれをどうしても開けて見たいのだろうか。

 こじ開けたい理由を知りたかった。それは彼の性格にしては荒々しい手段だと思ったからだ。

 過去を掘り返して執着する人ではない。私たちがあまり関わらなくなってからも、彼の本質は絶対的に変わっていない。それは遠くで見ていたからわかることだった。


「俺は、子供だと思う。まだ十八だし」


 櫻井は笑っていた。

 私は困惑して酷い顔をしているだろう。だが、彼は相変わらず人の良い顔で、当然のように据えられた笑顔を浮かべていた。

 それでわかってしまった。彼は高校生活で身についていた、嘘偽りのない笑顔というものを引き剥がそうとしている。

 初めて会った頃の純粋な気持ちと年相応の好奇心、ちょっとした悪戯心。ああいう、その時にしか持てないものを私に見せようとしている。

 宝箱を彩る宝石を彼は持っているのだろうか。


「多分これから先、いろんな人に会っていくと思う。だけど、俺が一番好きだって思えるのは、皐月なんだ。別れた時はそれが最善だって思ったけど、今は違う。……近すぎても駄目で、遠すぎても駄目だとしたら、一緒に距離を考えよう。俺たち、それができると思ったし、できていたから好きになったんじゃないか」


 感性が似ている、と思った。

 仲良くなって話をした時、好きな本が同じことを知った。図書館に行って、お互いにおすすめの本を探すのが、好きだった。作者がかぶっていたり、ジャンルが同じだったり。

 私たちは似ている。そう確信していた。

 ……だから、距離感を間違えてしまったのだ。

 好きが生じて、適当な距離感を見失って、別れた。

 あれからずっと離れていて、寂しくなかったわけがない。好きではなくなったのかもしれない。恋愛感情の中で、相手を見ることができなくなっているかもしれない。

 でもお互いの存在をどこかで探し、求めている。

 私たちはそういう関係。その考えを今、共有しているのだ。


「もう、高校生終わるよ。一年きってる」

「……今からなら夏を一緒に過ごせる。それじゃ、駄目か?」

「駄目じゃない、駄目じゃないけど」

「けど、何?」

「私、櫻井のこと好きかどうかわかんない。もう、前のことだと思ってたし」

「俺だってそれは不明確だ。だから、それも一緒に探していけばいい」


 櫻井が私の手を取って、ぎゅっと握った。少し汗ばんだ手のひらがくっついて、気温以外の熱を持っていた。

 なんだか、泣きそうだった。

 街中の歩道のビル陰で、櫻井に手を握られて泣く。そんな見苦しい真似はしたくないから、必死で涙を我慢した。

 そういえば、別れると言った時は泣かずに、ぼんやりと幸せを考えていたことを思い出した。


「ーーーちゃんと、ちゃんと好きだった。あの時、私、櫻井のこと、」

「わかってる。皐月だってわかってるだろ」

「……うん」


 夏がくる。

 それを私は感じていた。夏のない私たちの関係が、今になってまた、始まろうとしている。上手くいく保証はどこにもない。けれど、この握られた手を離さない限り、確かに私たちは結ばれている。


 あの夢の砂漠には、ようやく雨が降った。降り続く雨が、やがて砂漠を草原にかえて、豊かな大地にしていく。

 砂嵐はもうない。

 晴れやかな朝日が昇る。

 夢が覚めたら、一番に櫻井のことを思い出すだろう。

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