月を見ながら

@sameyuki

月を見ながら

 ――あ、変わった。

 僕の前の席でうつ伏せに寝ている女子生徒の背中――長い髪がかかる制服の白いポロシャツには、うっすらと紺色の線が透けて見える。この子は1学期の間はずっと薄い色しか身に付けていなかったのだが、夏休みが明けた今日は紺色のものを身に付けていることに僕は気付いてしまった。きっとこの夏、彼氏でもできたのだろう。よく見たら机の横にかけてある通学用のリュックには、新しいマスコットが付いている。人気がある某ランドパークのペアキャラクターの、片割れだ。

 南向きの窓から大きく風が吹き込み、カーテンの裾が彼女を叩いた。が、起きる気配はない。この暑さの中、テスト用紙の上に突っ伏したら紙は汗で湿って書き直しにくくなる。夏休み明けの抜打ちミニテストはまだ開始3分だが、前の席の田中香苗は早々に諦めたようだった。

 一応教室に冷房はあるものの、フロア単位でしか稼働出来ないシステムの上、学校を上げての節電という名目ために最弱設定になっている。当然、太陽が暴力を振るうこの暑さの中、最弱設定などでは高校生40人が密集する教室を冷やしきれるはずがない。息苦しさに耐えられず、窓を全開にして風を呼び込む生徒が出てくるが、現場の教師はどうすることもできず、結果、弱冷房の電気代を垂れ流して自然風を浴びているのだからバカバカしい。学校のエライヒト達は、10代の熱量を見くびりすぎだろう。身体も、こころも、行動すらも、いつだって熱に浮かされているようだというのに。

 僕はまだ問題文を読んでいる途中だが、集中力が切れた。田中と、暑さのせいだ。

 一つ空気を吐き出して外を見ると、校門からこちらに一人、男子生徒が歩いてくるのが見えた。陽射しはほぼ真上から照り付け、彼の影は短い。――柳原貴之だ。アイツ、また新学期早々に遅刻かよ。高校3年生というのに、このクラスの人間は実にのびのびとしている。


 ミニテストがそろそろ終わる頃、廊下の向こうから騒がしい足音と怒声が聞こえてきた。

「お前どこへ行く!待て、逃げても無駄だってわかってるだろう!」

「いやいやいやいやーぁ、ボク何にも悪いことしてませんって!プールに行きまくっただけですって!

 あ、もしかして――そう思った瞬間、柳原が廊下から飛び込んできた。そいつの髪、夏休み前までは真っ黒だったはずの柳原の髪は、うっすらと茶色を帯びている。元々背が高く端正な顔立ちの人間だから、茶髪もなかなか似合っている。

「あ、おはよーございます。あ、何?テスト?早退するんであとで追試させて下さーい」

 そう言いながら柳原は右から左へ教室を駆け抜けて、ロッカーを乗り越え窓からベランダに出た。どうやら夏休み中に髪を染めたことが生徒指導の先生の目に留まり、全力で逃げているようだ。いかつい生徒指導担当の先生が、息を切らして飛び込んできて後を追う。あまりの勢いに、教室にいた担任は動けず呆気に取られる。


 ベランダに逃げてもここは3階だし、ベランダ伝いに他の教室に行ったところで別の先生がいる。どうせ袋小路で逃げ切れない――と、誰もが思った。しかし、柳原はベランダの床に設置された非常用避難梯子のふたを開け、空いた四角い穴から颯爽と階下に逃げた。下のフロアからは、悲鳴とどよめきが聞こえる。突然ベランダに梯子と上級生が降ってきたんだ、そりゃあ1年生はびっくりするだろう。クラスメイトは立ち上がりはしないものの、視線も窓の外に釘付けでもはやテストどころではない。


 生徒指導の先生がベランダに出て階下を覗く頃には、既に柳原は1階の柵を超えて校庭に出ていた。先程の来た道を、上履きのままで走って逃げていく。

 ベランダに開け放たれた銀色のふた。ぽっかり空いた四角い穴。<非常時以外お手を触れないで下さい>と書かれたステッカー。階下に垂れ下がる非常用梯子。それらを睨み付け汗をぬぐいつつ「あの野郎……」と、苛立ちと悔しさが混ざった声で先生が呟いたところで、テスト終了のチャイムが鳴った。

 ***


「やー、さっきはお騒がせしましたー」

 放課後、柳原はいつも通り塾に来た。どさっと鞄を置いて、僕の隣の席に座る。

「お騒がせ、じゃないだろ馬鹿。夏休み明けは生徒指導が張り込んでるって、この学校の常識なのにさ」

 僕は呆れて、挨拶もせずに言った。

「いやぁ、いつもは生徒指導の先生達って昇降口の前辺りにいるじゃん?今日は遠目から見たら先生いなくてさ。やっぱり時間ずらして来て正解!って安心して靴脱いで、悠々と廊下曲がったら、そこにいたんだよ。はめられた。」

 馬鹿がバカな浅知恵を発揮することを、先生は見越していたわけだ。

「しかも昇降口に逃げたらさ、そっちにも別の先生が待機しててさ。しょうがないから追われて自分の教室まで来たって訳」

「そんなに逃げなくても、素直に捕まればよかったじゃん」

「捕まったら財布の中まで持物検査されるだろ。見られたら困るもの持ってるの、思い出しちゃって。」

「何?」

「ポイントカード。ホテルの」

 そういえば、春から付き合ってる年上の彼女とよく行くとか言ってたな。この学校には「不純異性交遊を禁ず」という校則があって、証拠があれば停学だとか、相手と相手の親も呼び出して説教だとか、いろんな噂がある。最も停学でも退学でも、掲示される告示には明確な理由が書かれないため実際のところはよくわからないし、何より僕には無縁のことなのでよく知らない。

「夏休み前に元カノとは別れたんだけどさー、うっかりポイントカードそのままにしてて。これで先生に捕まってポイント貯まってるのばれちゃったら、アウトでしょ。それに、新しい彼女とはまだ行ってないし」

「え、年上の彼女と別れてたの?そんで、また彼女できたの?」

「今度は同級生だよ。やっぱ年上は疲れる。さすがに乗り換え早すぎるって言われるから、まだ皆には隠してるけどな」

 少し汗に濡れた髪をかきあげ、カルピスを飲みながら爽やかに言い放った。まるでCMのような雰囲気なのに、言ってることがおよそ似つかわしくない。

「っていうか、残念なことに俺が浮気されたんだけどね」

 そう軽く付け加えて、飲みかけのペットボトルを差し出してきた。受け取り残りを一気飲みして、空のペットボトルを鞄を柳原の鞄にねじ込む。そして柳原の自虐を無視し、自分の鞄から柳原の靴が入ったビニル袋を取り出して差し出した。

「おーさすが山口!心の友よ、ありがとう!助かったよ、指定靴以外で登校すると怒られるし、どうしようかと思ってたところでさ。 」

 柳原は恭しく両手で受け取り、深々と大げさなお辞儀をした。上履きのまま逃げた大馬鹿野郎は、明日、登校時に履く靴のことを忘れているだろうと思い、どうせ塾で会うからと持ってきてやったのだ。僕らが通う私立高校は、持ち物や校則にはそれなりにうるさく、靴も内側に校章が縫い付けられた指定靴を履くことになっている。今日あれだけ騒いだのだから、明日も先生は見張っているはずだ。

「頼むから次に逃げるときは、靴を持って、もっと静かに逃げてくれ。さらに言えば、捕まるなら勝手に捕まってくれ。おかげでテストの見直しをし損ねた。」

「そんなこと言ったって、どうせ山口は点数良いだろ。」

「よかったら塾になんて通わないだろ。それにしても、よくベランダから逃げたよな。まぁもう2回目以降は通用しないだろうけど」

「緊急事態の非常時だったからな、あれは。とっさに思いついたんだよ。気づいた瞬間、さすが俺!って、自分でも思った」

 笑って自画自讃しなが柳原は塾のテキストを取り出し、そして表紙にアイドルのグラビア写真が載った漫画雑誌を取り出して、自慢気にこちらに見せてきた。

「今回の表紙、可愛かったから買っちゃった。」

 それを見て、周りの席の男子が群がってくる。

「お。柳原それ買ったんだ。ちょっとカラーページだけ見せてよ」

「グラビア、水着特集じゃん。俺も見たい」

「やっぱ水着は白だよなー。日焼けした金髪ギャルの白が良い」

「何言ってんだよ、俺は昔から清純黒髪ストレートに、巨乳黒ビキニのギャップ派だ」

 柳原が女性が表紙の雑誌を取り出したという、たったそれだけで発情期の男子が群がってくる。男子高校生には当たり前の光景だが、一体彼らのこの熱量はどこからくるんだろう。僕は巻き込まれないように無関心を装ってノートを広げ、文房具を用意する。

「なぁ、山口は?どんな水着が好み?白派?黒派?」

 突然、こっちに会話が飛んできた。

「………………裸かな」

「そりゃ反則だろ」

 ぺしっと頭を叩かれたところで、講師が入ってきた。慌てて雑誌をしまい、漢文のテキストを取り出す。講師がホワイトボードに今日の題材を書く。今日の題材は、李白の『月下独酌』だった。



 僕らが通う学校は、偏差値も進学率も高くない。「当高校は、高校生活を営む場所である。受験勉強という特殊な勉強は、各自で取り組むように。尚、先生は相談に応じる準備はある」というスタンスの学校である。偏差値の高い大学に進みたいごく一部の生徒には、教師がさぼっている教育怠慢な学校だと思われている。しかし、成績や素行が良ければ推薦で大学にも行け、短大や専門学校の選択肢も幅広く、留学や就職だって希望すればサポートしてくれるし、本気で受験したければ先生が個別で対応してくれるというのは、ある意味自由度が高く、僕らのようなただの高校生にとっては有り難い学校だ。少し厳しく思える校則だって、気が緩んだら余計なことを仕出かす馬鹿共だから必要だという自覚もある。

 僕は映画が好きで、洋画を字幕なしで見たい、原作を原文で読んでみたいというありきたりな好奇心で、とりあえず指定校推薦を使った進学を考えている。成績を落とさないために塾に通っているが、柳原は「数学が苦手だから文系」とだけ言っていて内心どうだかわからない。

 僕らは決して成績も頭も良いわけでないし、特に語るような夢や希望があるわけでもない。もっと小さい頃は夢があったような気がするし、大人になれば絶望や諦めも待っているというが、今はどっちつかずのフワフワした感覚があるだけだ。ならば今は、当たり前すぎる陳腐な表現だが、その中間なのだろう。子供と大人の中間。夢と諦めの間。希望と絶望の狭間。ニュートラルな状態で熱量だけが行き場をなくし、日常僕らの心の中でひたすらに燃える。その内燃機関はいつか大人になった時に、夢が見つかった時の推進力か、絶望に落ちた時に這い上がるための原動力になるはずだが、どちらともない今は、いつだって熱に浮かされているような感覚で、ただただエネルギーを垂れ流す。なんだ、まるで学校の冷房の電気代と変わらないじゃないか。そう思えば、学校の冷房も悪いもんじゃないように思えてきた。



 ***



 塾が終わり、いつも通り川沿いの道を柳原と並んで帰る。日中は陽が照り付けて残暑厳しくても、日が落ちれば秋の虫が鳴くような季節になった。昼の暴力的な太陽に代わり、低い位置に穏やかな月が浮かんでいる。お腹が減って、コンビニで買った菓子パンをかじりながら、僕は今日の題材の作者李白の人物像について感想を述べた。

「今日の授業の李白だっけ?頭良くて政治もできるけど、所詮詩人ってあしらわれて、絶望して酒と女に浸って、最後は酔っ払って死ぬって、なんかすごい人だよね。教科書に載っていい人なの?」

「それ省略しすぎだろ。それ言ったら心中失敗して女だけ死んじゃった奴とか、切腹自殺した奴とか、女囲って誑かしまくった奴とか、ダメな大人が他にもたくさん載ってるじゃん」

「確かに」

 僕は偉人とされる人の奇行や失敗を思い返した。時代にもよるが、さんざんひどいことをしている人も多い。

「でもさ、酒を美味しそうに呑む詩っていうのはやりすぎだと思うよ。俺たちまだ酒飲んで補導される年齢なのに、あんな満足気な飲酒シーン、なんで教科書に載ってるんだよ。飲んでみたくなっちゃうじゃん。PTAとか何も言わないのかな」

「うーん、それ言っちゃったら光源氏の言動とかもまずいからじゃない?」

「あー、女はべらして酒飲んでみたい」

「酒飲んだのがばれると、B組の佐藤達みたいに停学になるよ。ほら、夏祭りでやらかした件みたいに」

 適当なことを言って、柳原はコーラの蓋を開けた。そして、女はともかく酒については僕も賛同する。

「でも『月下独酌』、憧れるね。想像したら、カッコいいじゃん。大人になったらいつか、一人で月を見ながら、月光でできた自分の影を御伴にして酒を呑むことにする」

「それ、ちょっとナルシストっぽいっていうか、中二病っぽいけどな」

「そうでもしなきゃやりきれない場面が、大人にはいつかきっと出てくるんだよ。今は、全くわかんないけど」

 僕も適当なことを言って、2個目のパンをかじった。帰ったら夕飯があるのだが、燃費が悪くて腹がすくのだから仕方がない。


 ひんやりと滑らかな川面には、町の光と月が映りこんでいる。きっと李白がお酒を呑みながら眺めた月明かりは、澄んだ水面に一つだけだっただろうが、この町中では余計な明かりも多い上、淀んだ水ではとても掴む気持ちにはなれそうにない。李白は酔って水面の月を掴もうとして水に落ちたらしいが、僕にはまだ、その気持ちがわからない。水面に映ったものは掴めないし、そもそも月を掴むなんて不可能だ。酔ったことで月とは別の綺麗な何かに見えたのかもしれないし、自身の内燃機関が燃え尽きて絶望に抗う力がなく自殺したのかもしれない。孤独な男が水面に浮かんだひとつの明かりを求めて、落ちる。冷たい水は身体の端々から温度を奪い、心からも感情を奪っていく様を想像する――が、「泳げば良い」なんて思う辺り、まだ僕は熱量を削ぎ落とした心理状態に対して理解が浅いのだろう。きっと、大人になったらわかるのだろう。いつかそんな酒を呑んでみたいと思うとともに、そんな語り継がれるようなカッコいい死に方をしたいと僕は思った。


 川辺の道から外れて住宅街に入ったところで、柳原に聞いた。

「ところでさ、明日その茶色の髪で登校したらまずいんじゃない?」

「プールに行って傷んだって言えば大丈夫かなって思ったんだけどな。しょうがないからボウズにする。野球部の丸刈りはダサいから嫌だけど、サッカー選手のボウズはカッコいいじゃん。あんなイメージ。」

 なんとも切り替えが早い奴だ。柳原はサッカーボールを蹴る真似をして、長い足を高く振り上げた。

「ボウズか、なんか柳原の場合サッカー選手っていうよりヤンキーっぽい。似合いそうだけど」

「山口にはボウズ、似合わなさそうだよな。まぁ当たり前か」

 そう笑いながら、僕を見下ろして髪をくしゃくしゃにかき混ぜた。やめろよ、と手で振り払ったが、耳を覆う程度の長さの髪は、絡まってぼさぼさになった。ごめんごめん、と言いながら、ちゃんと髪を撫でて直してくれた。一見ヤンキーっぽくても、先生と鬼ごっこをしても、何だかんだ言って柳原は優しい。


 家が近づいて、柳原が鞄から家の鍵を取り出した。その鍵には、何かついているようだ。よく見ると、今日どこかで見たような――そうだ、田中の鞄についていたキャラクターの片割れ――と思われる真新しいマスコットがついていた。その瞬間、頭の中でピースがかみ合う。あぁ、なんだ。新しくできた彼女って田中早苗のことだったのか。そっか、そういえば柳原、塾で清純派の黒ビキニが好みって言ってたっけ。それをどこかで知った田中は、別に何事もまだ起きていないのに、透けるのを承知で濃い色の下着で登校してきたのか。そして柳原は何も知らない田中を守るためにも、全力で逃げたのか。マスコットはお互い鞄につけたらバレバレだから、柳原はあえて学校で取り出さない鍵につけたのか。その鍵を僕の目の前に取り出すということは、それが僕に全く悟られていないと思っているのか。


 あぁ。なんて奴らだ。単純だな。馬鹿ばっかだな。くだらないな。好きなんだな。一途で、一生懸命で、熱くて、平静を装う態度すら熱っぽくて、無駄で、何もかもが羨ましくて、何だかもう爆発しそうだ。


 僕は別れ際、唐突に言った。

「ねぇ、柳原。田中早苗といったランドは楽しかった?あの子のこと、泣かせたら承知しないから」

 それを聞いた柳原は、一瞬奇妙な声を発し、文字通り硬直して立ち止まった。そして、ぎこちなく顔だけをゆっくりこっちを向けて、それから平静を装おうように何のことか疑問を呈した顔を見せる。しかし、僕がにっこり笑顔で笑い返したところで観念したようだ。

「……お前、田中から俺らのこと聞いてた?」

「いや、自分で気づいた」

「ランドのことも?!気づくポイント、あったか?」

「それはもう、女の勘と、最後はカマを懸けた」

「……女って、怖ぇ。山口が女だって、普段忘れてるけど、改めて思い知ったわ」

「まだ隠しておきたいみたいだから、内緒にしとく。口止め料として、明日カルピスおごって」

「わかったよ……」

 柳原は不思議そうに鍵とマスコットを握り返し、そして、

「早苗ちゃんといったランドは、すっげー楽しかった!早苗ちゃんはめちゃくちゃかわいくて優しくて最高!彼女のこと!大切にします!」

 そう叫んで、逃げるように全力でマンションに走っていった。


 僕は、噴き出して笑った。決して柳原が滑稽だったのではない。爆発しそうな僕の気持ちに柳原の全力の言葉が全部混ざって、もう、笑ってしまうしかなかったのだ。お腹が痛くなるほど笑って、なぜか涙が出てきた。姿が見えなくなるまで柳原を見送り、そして制服のスカートを翻して僕は歩き出した。


 明日から、また通常の学校生活が始まる。ボウズの柳原。ピリピリした先生。何食わぬ顔の田中。そして僕。明日はどんな熱い日になるんだろう。残りたった半年の高校生活が、また明日から始まる。今日一日は、とても良い日だった。きっと大人になっても忘れない。今夜は月を見ながら、カルピスを呑もうと僕は決めた。

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