泳ぐ日常

春夏野 渚

■ 泳ぐ日常 ■

 ある日目覚めると、僕の部屋の中を大きなエイが泳ぎまわっていた。

 大きなヒレをはためかせ、長いしっぽを舵にして、壁や天井にぶつからないように上手に旋回している。

 驚きはしない。

 なんとなく、こういうことになると分かっていたから。

 僕はエイを驚かせないように静かに起き上がり、のろのろと朝の支度を始めた。

 エイは僕のことを少しも警戒していないようで、すぐ近くを泳ぐこともあった。

 その様子を見ているとうっかり眠くなり、今すぐにもベッドへ逆戻りしたくなるのを堪え、僕は部屋を出た。

 部屋の扉を閉める前に、するりとエイが隙間から出てくる。どうやらついてくるつもりらしい。

 僕はそれを許し、朝食の用意されているであろうキッチンへ向かった。

 母の作ってくれたいつもの朝食を食べている間も、エイは天井付近を泳いでいた。あいつは何を食べるのだろうか?母の目を盗んで鮭の切り身を掲げてみたら、音もなく近付いてきてあっという間にさらっていった。

 いつも通り家を出て、高校へ向かう。

 エイは広い空に出た途端どこかへ泳いでいってしまった。特に寂しいとも思わない。いつもの登校風景になっただけだ。ただ、こんなに広い空を自由に泳ぎ回れるなんて気持ちがいいだろうなと思った。

 学校について、教室に入る。ホームルームが終わって授業が始まる。

 爽やかな風を招き入れるために開放された窓から、イワシの群れが入ってきた。たちまち教室の天井が青白く光る腹でいっぱいになる。教師や生徒たちの周りを、決して触れないように器用に泳ぐ姿が可愛らしい。

 それでも僕はしっかり授業を受けた。イワシが泳ぎ回って黒板はとても見づらかったけれど。

 休み時間になるとイワシは潮の流れるままに教室を出て行ってしまった。

 僕はその後もいつも通りの学校生活を送った。

 トイレに行ったら、居合わせたクラスメイトにお腹の辺りをひどく殴られた。いつも通りの学校生活。またアザが増える。

 掃除の時間、校門の掃き掃除をしていると、たくさん積もった落ち葉の下に大きなアンコウを見つけた。隠れていたはずの体が見つかってしまったはずなのに全く動こうとしないので、僕はアンコウの周りもきれいに掃いてしまって、さっさと落ち葉を集める。するとアンコウはやっとぬらぬら泳ぎだして、地面を這うようにしてどこか体を隠せる場所へ行ってしまった。

 校門の周りがきれいになると僕は帰り支度を終えて学校を後にする。

 下校途中、空を見上げると、高いところで鮫が尾ひれを動かしながら泳ぎ回っていた。

 下から見ると広い腹がまばゆいばかりに白く光っていて、頭も顎もとても大きい。何かを狙っているようにゆっくり慎重に泳いでいる。僕はそっとビルの陰に隠れた。

 するといきなり鮫の動きが素早くなり、急降下してきたかと思うと道を歩いていたサラリーマンの頭に食らいついた。

 鮫がその場から離れると、大きな口で頭からがぶりとやられたサラリーマンにはもう首から上がなかった。真っ赤な血が辺り一面に飛び散る。

 鮫は二度、三度、顎をかみ合わせた。ずらりと並んだ細かい牙の隙間から血が滴り落ちる。サラリーマンの体はその場に尻餅をついた後、上半身からくずおれた。

 僕が警戒してビルの陰に隠れたままでいると、すぐに違う鮫が何匹もやってきてサラリーマンの体に噛み付く。血の臭いに誘き出されてきたのだろう。肉を奪い合っている。

 僕は鮫に見つからないように、遠回りをして家に帰った。

 夕食は魚の刺身だった。庭先にいたカツオのような気がする。美味しかった。


 今夜はとても月が綺麗だ。眠る前に窓を開けて月を眺めようとしたら、朝のエイが泳ぎ込んできた。部屋の明かりを月と間違えたのだろうか。

 電気を消しても出て行く気配がなかったので、僕は窓を閉めてベッドに寝ころんだ。エイは天井付近をぐるぐると泳いでいる。

 今日一日、何をしてきたのかな。僕はいつもと何も変わらない日だったよ。

 頭で語りかけているうちに、いつの間にか眠ってしまった。


 次の日目覚めると、エイはまだ僕の部屋の中で泳いでいた。

 ベッドから起き上がり、のろのろと支度をして、キッチンで朝食を食べる。鮭の切り身をエイにあげた。

 いつもの通り登校して授業を受ける。前の席の女子の後頭部にフジツボがへばりついているのをたまに見ながら、真面目にノートをとった。

 休み時間は机に突っ伏していたら椅子とお尻を蹴られたけれど、知らないふりをする。静かに、波のようにさざめく時間に身を任せていればいい。いつも通りのことだ。

 足下をヤドカリがちょこちょこ移動していた。


 掃除を終えた後にふと、用具入れからぬっとウツボが顔を出した。

 細長く派手な色の体をくねくね動かしながら泳いで行く。僕も後を追った。

 校舎の中、廊下の隅を縫うように移動し、階段を上がって、辿り着いたのは屋上だった。ウツボは柵の隙間からスイッと校庭の方に出て行く。

 僕は、校舎の屋上から、夕日を背にして泳ぎ回るたくさんの魚を見た。

 とても綺麗だ。

 その中にあのエイもいて、僕の方に近寄ってくる。

 触れられそうな気がした。

 思わず手をのばしたら、今までに感じたことのないような浮遊感を感じた。僕の体は屋上の柵を越え、あっという間に落下していった。目の前を、同じようなスピードでマグロが泳いでいる。

 他にも夕日の中のたくさんの魚が見えた。思わず微笑む。綺麗すぎて涙が出た。


 そうだ。

 僕はずっと、こんな海の中で生きていきたいと思っていたのだった。

                                  了

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