55回目

 結論から述べれば、私は無事に回復した。とはいえ、手術の跡はまだ痛むし、時折頭痛もする時がある。これでも前と比べればずっと良くなったと言えるのが悲しい。

 いきなり全快とはいかないまでも、少しずつ症状は好転してきているらしい。これからは投薬治療を行い、四ヶ月ぐらいで退院してもよくなるそうだ。

 ここまでかかった時間を考えると、あっさりし過ぎて拍子抜けしてしまう。医療の進歩の凄まじさが分かる。もっと早く開発してくれれば良いのにと思ったのは自分の不徳の致すところだ。助けてもらっておいて文句は言えない。

 一番良かったのは文庫本ぐらいの重さの物なら手に取れるようになった事だ。お陰でいちいち看護師さんを煩わせずに思う存分読書に励める。枕元に積み重ねられた物語の山脈をじっくりと踏破していく時間は、独り誰か来るのを待ちながら窓から外を見下ろすか眠るかしかなかった頃に比べれば雲泥の差だった。

 これから更にリハビリに取り組んでいけば、日常生活に支障がない程度には運動能力も回復するとお医者様は言っていた。とはいえ、誰の助けも借りずに生きていけるようになるにはまだまだ年月がかかりそうなのは否めない。

 手術してからはいいことばかりだと纏めてしまいたいのは山々だけれど、残念ながら私の心はとても重大な悩みを抱え込んでいた。

 そう、あの死神のことだ。ソラはもう四ヵ月ぐらいここに来ていない。あのおざなりな挨拶を最後に、彼が姿を現すことはなかった。

 自分だけが好き勝手言ってこれきりだなんて卑怯だ。結局何しに来ていたのか説明しろとか、今までの礼を言えとか、そういうことではなくて。もう会えないのなら会えないと聞かされた上で大事に彼との結末を過ごしたかった。

 そっと伝えたい、相談したいことがあった。彼についてもっと詳しく知りたかった。そんな思いが全部『今更遅い』で片付けられてしまうのは、どうしても納得がいかない。せめてやれるだけやってみるぐらいの機会は与えられるべきだ。

 そんなことばかり考えていたせいで、とんでもない事を思いついてしまった。

 実行したところで来てくれるとは限らない。応えてくれたとしてもすぐに帰ってしまうかもしれない。大変な事態を招く恐れもある。否定材料は山積みだ。

 だとしても、私は一縷の望みに懸けてみることにした。僅かにでも彼に会える可能性があるのなら、挑戦するだけの価値はあると信じたから。

 



 深夜。外では街灯が孤独に光り、無数の蛾を集めている。

 少女は布団の中で目覚まし時計を抱え込んだまま眠っていた。寝返りを打つ度に、上に取り付けられたベルがからからと乾いた音を立てる。

 蝉のか細い鳴き声が何処か遠くから聞こえた。もう九月も終わるというのに時季外れもいい所だ。きっと遅れて出てきた個体だろう。

 短針が3を指した途端、けたたましい音が部屋を満たす。驚かされた猫の様に少女が跳ね起き、反射的に目覚ましの頭を叩いた。停止スイッチはそこにはないが。

「違う。えっと、こっちね」

 部屋の喧騒が収まった後、細く息を吐いて少女は髪をかき上げた。

 そっと床に足を下ろす。すぐによろけた体を支えようと慌てて寝台を掴んだ。

 彼女の挑戦はここからが本番だ。固く握り締めた両手を、ゆっくりと開いていく。

 長い長い時間をかけて、何とか足だけで立つことに成功した。

「や、やった」

 小さく拳を握り腕を前に伸ばす。その先にはよく磨かれた歩行器があった。

 少女にとっての命綱であり、行動範囲を大きく広げてくれる道具。態勢を崩さないよう慎重に引き寄せる。途中で倒れかけたが、最終的には無事に手元に辿り着いた。

 腕の振動が収まってから徐々に前へ。扉の鍵を開け、廊下に何とか踏み出した。

 興奮と疲れのせいで息が荒くなり、全身は既に汗でぐっしょりと濡れている。傍に誰かがいたら、すぐに病室へと彼女を追いやったに違いない。

「さて、行きましょう」

 それでも彼女は、冒険へと乗り出す勇者の様な笑みを浮かべていた。




 本音を洩らせば、俺に再び会う気はあまりなかった。

 彼女は長い間戦っていた試練を乗り越え、人生に立ち向かっていこうとしている。死神の世話になるのは数十年以上後になる筈だ。少なくともそうだと信じたい。

 とはいえ、あんなことをやっているあいつを放っておけない。きっと病が治りかけている喜びのせいで分別を無くしてしまったのだろう。どうして人間はこうも忙しないのか。無茶したいなら退院してからにすればいい。

 俺は『同僚からなんて言われるか』『これからも似たようなことをする羽目になったらどうしよう』という後ろ向きな発想を叩き潰し、人間の世界に急いだ。

 辿り着いた時、彼女は屋上の中心あたりに歩行器の助けを借りて立っていた。顔は不自然に上気し、足はがたがたと震えている。こんな姿は初めて見た。

「おい、馬鹿かお前は。折角助かった命を無駄遣いするな」

 俺の声に少女は振り返ろうとして膝からよろよろと崩れ落ちた。俺が慌てて駆け寄ると、息を切らせながら乾いた音色で笑った。

「漸くのご登場ね。結構待たされたのだけれど、もっと早く来られなかったの?」

 気取った口調でもそんなにボロボロでは優雅さの欠片もない。病室では白い布団によく映えて綺麗だった髪は、身体にべったりと張り付いて鬱陶しそうだった。

「自分で歩けるようになったのか。わざわざ屋上まで上がる労力があるのなら、もとましな場所に行け。公園だの動物園だの、幾らでもある」

「まだ病院からでる許可はもらってない……、ちょっと、離しなさい」

 ひとまず彼女を背中に担ぎ上げる。少女は抵抗しようとはしていたようだが、元々病弱かつ疲れ切った体では無理な話だった。

「思ったより早く回復しているじゃないか。良かったな、まだ若くて」

「まだまだこれからよ。エレベーターまでほんの十歩進めただけ。ボタンを押すのに大分手間取ってしまったし、屋上に着いてからソラが来るまでは殆ど歩行器に寄り掛かっていた。これから少なくとも一週間は筋肉痛に悩まされる代償がこれかと思うと、自分でも情けなくなってくるわ」

 エレベーターに乗り込んでから歩行器を置いてきたことに気が付いた。ひとりでに戻っておくようにしておこう。また運びに行くのも面倒だ。

「まるで説得力がない。素直に『自分だけでここまで出来て嬉しい』と言え」

「ソラの頭が濁っているから勘違いしているだけよ。訂正して」

「辛辣だな。久々に聞くと、なかなかに心に堪える」

 そう言ったものの、俺は悪態をつく元気が残っている彼女に安堵を覚えていた。

 こうして間近で顔を見ていると色々と思い出が蘇ってくる。人間とこんなに深く関わるのは、これが間違いなく最初で最後だ。

「私、ちょっと頭を使ってみたの」

「ほう、屋上に上がる為か。見回りに咎められない時間でも計算したのか」 

 エレベーターから降り、短い廊下を歩いて扉を開く。俺ではほんの十秒とかからない距離だが、少女にとってはさぞかし苦難に満ちた道程だったに違いない。

「違うわ、貴方を呼び出す為よ」

 驚きで足が縺れる。二、三歩片足で飛び跳ね、壁にもたれて難を逃れた。

「危ない。背中にか弱い女の子がいること、忘れてない?」

「あぁ、すまない。俺が悪かった」

 少女を寝台に横たえさせ、改めて彼女の言ったことを考えてみる。

「ほ、本気か。冗談……ではなさそうだな」

 となると、まんまと俺は踊らされたわけだ。放っておいたら一晩寒空の下に取り残されてしまっただろうから、意味がなかったわけではないが。

 理由を聞く必要はない。俺が勝手に割り切っていた二人の関係の終わりに、少女はまだ納得していないというだけ。当然と言えば当然だ。

「今までの貴方との日々を振り返ってみたら、重要なことに気が付いたの」

「ほう、なんのことだ」

 少女はか細い声で語りだした。ここは真剣に聞くべきだろう。

「『魂を運ぶ』のが仕事だってこと」

「あんな酷い行動をする理由に繋がるとは思えないのだが」

「いいから黙って聞いてなさい。そう、死神だなんて名乗るからすっかり騙されたわ。人々の魂を奪い、あの世へと送る血も涙もない集団だと」

「酷い勘違いだな。俺がそんな極悪非道な奴に見えるのか」

「えぇ、見えるけど」

 少女に真顔で返されて、俺は言葉を失った。流石にこれはきつい。

 いや、俺の姿は彼女のイメージで構築されている。だとすると、彼女は俺を危険人物だと考えているのか。これまであんなに楽しく付き合っていたのに。

 少女は目を細めた。よく分からないが虚仮にされているような気がする。

「冗談よ。実際の貴方は大きく異なる存在。時々優しい時もあるし、嫌みは空滑りしがちだし、いちいち格好つける間抜けなところは全然直らないし」

 褒められているのに全く嬉しくない。が、取り敢えずほっとした。いやはや、危うく人間不信になるところだった。

「つまりね、私が言いたいのはこういうことよ」

 少女は息を深々と吸って、得意げに微笑んだ。

「貴方、最初は私が今にも死にそうってだけの理由で来たんでしょ。自分では誰も殺すことが出来ないから。どう、正解?」

「その通りだ。しかし、俺は別にお前に嘘を付いたつもりはないぞ」

 確かに俺は死が近づいていた彼女から魂を得ようとしていた。隠すようなことではない。当たり前だ、死神なのだから。

 『自分では誰も殺すことが出来ない』のも言うまでもない。もし俺が自分の意志で魂を奪えるのなら、わざわざ病院を訪れたり手術の時に慌てたりはしない。

「でしょうね。でも、どちらかと言えば天使を名乗った方がいいと思うわ。その呼び名じゃ誰もが勘違いしてしまいそうだから」

「ふむ。考えておこう」

 天使か。俺の知る限り我々と対極に位置する存在だが、名前と行動が伴わないのは良くない。検討に値する問題だな。

「後は単純よ。貴方が何らかの方法でそういう『死に近づいている人』を察知すると考えていただけ。まぁ、実際は屋上の縁すれすれまで行って『飛び降りようとしている』と錯覚させようとしていたのだけど。貴方がお人好しでよかった」

 深々と頷く姿にこちらは毒気を抜かれてしまった。あやふやな推測だけを頼りにそこまでしようとしていたのか。

「慌てた俺の気分も考えろ。大体、俺以外の奴が来たらどうするつもりだったんだ」

「最初から駄目元だった。終わりよければ総てよし、でいいでしょ?」

 そうか、こいつ本当はそういう女だったのか。俺は戦慄を覚えた。

 死神に会う、だなんて理由の為にここまでするのは、俺が知る限り彼女以外にはいない。嬉しいのは確かだが、寧ろ俺の為にそこまでしてくれた罪悪感が強かった。

「やれやれ。ここまでしたからには、色々言いたい事や聞きたい事があるんだな。いいだろう。会うのもきっとこれで最後だろうし、我儘も出来る範囲なら聞く」

「そうね。それじゃ、最初にこの質問を」

 俺は心の中で覚悟を決めた。今日ぐらいは、彼女の為にどんなことでもすると。

「あのね、貴方、いえ、ソラと一緒に働くには、どうしたらいいのかしら?」




 目を見開いた青年の隙を付いて少女が何処にそんな力が残っていたのかという勢いで飛び出すのを、阻む物は何もなかった。




「意外と簡単ね。魂になって運ばれている最中に頼めだなんて」

「慢性的な人手不足だからな。お前みたいな変わり者は殆どいない。歓迎されるさ」

「お前、じゃないでしょ。ちゃんと名前で呼びなさい。未来の後輩なんだから」

「………了承した。楓香様」

「様は要らない!」


 


                                 終わり

 



 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死んでからは一緒に @RAKUHEI

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ