把握

世界の変貌について詳しく語る前に、俺のこの四畳半について説明しておこう。


俺の四畳半が所属するのはこの建物の1階、

入口から入って1番奥の角部屋、第8号室だ。


少々場合が異なるが、まあアパートみたいな集合住宅みたいなものだと思ってくれていい。

誰か1人ぐらいはこの世界の変貌に気づいて大騒ぎし始めるかと思ったが、そうでもなかった。この現象に気づいているのはどうやら俺だけらしい。


この間隣に大きなビルが建ったせいで日が入らず、おまけに掃除もろくにしないので、

さながらここはホラー映画に登場する恐怖の館のようだが、家具付き飯付きという好待遇なので、仕方なく住んでやっている。

ちなみに先程の大時計は、俺の部屋をでてすぐの左の壁に、どっしりとその身を構えている。部屋との距離が近いので時報の際にはバールで殴り壊したくなる程の音が響くが、

そんなことをする勇気はもちろんない。


次に四畳半の内部について。

ここも廊下同様、限りなくホコリっぽい。

先日まで週一ぐらいで掃除はしていたが、一体どこからやってくるのか、ホコリというのは掃いても掃いても無尽蔵に発生し続けるもので、ついに掃除するのをやめた。

唯一の窓がある南側にはベッドが置いてあり、その脇に生活に必要な諸々の道具が入った棚がある。

あとはベッドとは反対の北側に備え付けのトイレと洗面器。

四畳半にあるのはこれだけだ。

俺は生活するのが下手なので、家具は必要最低限に抑えている。

飯を食べて寝ることさえできれば、どうにか生きていけるだろう。さながら自分の部屋でサバイバルでもしているようだ。


さて、四畳半をおおかた把握したところで、

本題に移らなければならない。


大時計の時報がなる前の世界と、

大時計の時報がなった後のこの世界。

とても似通っていて同じように見えるが、

確実に、それまで存在していた何かが消滅してしまっている。

便宜上、無くなってしまったそのナニカを「」と呼ぶことにする。

俺はロストが一体何なのかが知りたい。

知らなければならない。


まず、ロストが存在した世界とロストが存在しないこの世界で、一体なにが違っているかを理解するべきだ。

ロストが存在したとする大時計の時報前、

俺はこのベッドで窓の外を眺めていた。

風が強いせいか雲の流れが速く、

「明日は天気悪くなるかなぁ」と思ったのを憶えている。


今現在もその時の状況とだいたい変わりは無い。風も吹いているし、雲も速い。

しかし、明らかに違うのは、

のと、

ということだ。

「夜も更けてきたから」とか、

「風がでてきたから」とか、そういう自然現象の範囲を明らかに越えて変化している。


「…ロストは“春”と“夏”か…?」


季節が秋と冬しかなくなったせいで気温が低くなり、月の満ち欠けの周期がズレたせいで、部屋が暗くなったか、と推測したが、

それだとロストが2つ存在することになるので成立しない。

ロストはあくまでも、一つである。


「気温の低下」と「暗くなった部屋」…。

この2つをキーワードに、俺は思考を再開する。

何億年という二重らせんの連続の中で、

ずっと人間に寄り添い続けてきたモノ…それがロストだ。必ず、生活する上で限りなく必要なものに違いない。


ふと思い立ち、窓から見える景色をできる限り遠くまで確認してみる。

大きなビルの向こうに、

世間が静かに眠りについているのがわかる。

こんな大きな変貌なのに騒ぎにならないのは、この夜の深い闇がそうさせているのだろうか。今日は深く考えを起こしているせいか、

夜がとても永く感じられる。


ここで夜空を見上げると、俺は妙な事に気が付いた。


一瞬の困惑の後、状況を理解すると共に、

震えた。

突きつけられた事実に、冷や汗すら出た。


月がない。


あまりにも堂々と消滅しているので誤認していたが、

僕は時報前、窓から覗く満月を見ていたんだった。その明るさで小説すら読めそうな満月が、この空に浮かんでいたハズだった。


しかし、今の空には、小さな星々が点々と散っているだけで、

永きに渡って人類に寄り添ってきたその月の姿は、無い。

少なくとも、時間の経過で移動して見えなくなったとは言いにくい。


………


言葉にならなかった。

ロストは、月だった。

月が消えたのならば、太陽の照り返しの分気温が低くなるのも、部屋が暗くなるのもわかる。


…だからといって、月が無くなっていいのか。

今更だが、月が無くなることが有り得るのか。

なぜ月が無くなって、地球への物理的な影響が発生しないのか。

数々の疑問は私の頭を通り抜けて、壁にぶつかってグチャグチャに崩れ落ちていく。


何億もの二重らせんが紡いできた月への記憶が、ここで途切れてしまったのだ。

声にならない声が出て、

汁という汁で顔面が濡れた。

言葉にならない言葉で、僕は、泣き続けた。


…………


そうして泣きじゃくって1時間がたった頃だろうか、四畳半の一間に、ノックの音が転がった。


「朝ごはんですよ」


大家の声だ。

人が来たことで自分の今の状況がとても恥ずかしいものだと気づき、ハッとした。

そしてすぐさま、私は扉に飛びかかった。


「あのっ月、月ってわかりますよね、地球の衛星で、太陽の照り返しで光ってるやつです」



「はっ、はい」

怯えた声だった。扉の向こうで荒れた息遣いが聞こえる。

よかった。この人は月を知っている。

オレ以外にも、月を憶えている人がいる。

「消えてるんです!!」

わたしは声を荒げて叫ぶ。


すると息遣いも途切れ途切れに、震えた声で返事があった。

「月が見えないのは、当たり前です…。

光ってなんかいないんですから…。

何年も何十年も、何百年も前から、ずっとです。何億年も前から、私達の二重らせんの記憶には…そうあるんです」


…何を言ってる?

あなたは今、“私達”と言ったよな。

ならばこの世界も、すべての人類も、すべからく月を知っていることになる。どうして、なぜ食い違う。

ぼくは続けて零す。


「だってっ、あの月ですよっ。太陽の陽を受けて、夜に煌々と輝いていたじゃないか…今夜だって…満月だったじゃないかっ」


震えていた筈の扉の向こうの人物は一変、

落ち着いた声で俺に訊いた。


「タイヨウって…なんですか」


思えば朝食の時間だと言うのに、四畳半は未だ漆黒に包まれており、

そこに朝焼けの気配は無かった。


一陣の夜風が、雨樋をガタンと揺らす。


俺は全てを把握した。


もうそれ以上、四畳半に人の言葉が響くことは無かった。

代わりに扉の向こうから、誰とも知らぬ会話の声が響いてくる。


「8号室の患者さん、もうだいぶ悪化しているみたい。今朝も、妙な単語を口にしていたわ」


「“タイヨウ”…またそれか」


私の知っている世界はもう無い。ボクの言葉が誰かに届くわけも無い。


こうして生まれた新しい世界は、

元に戻る気配を見せず、まわりつづける。


俺と太陽ロストを置き去りにして。


何億もの二重らせんを乗せて。
























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パラダイム・シフト キリン @mikota98

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