最も幸せなとき。

圃本 健治

最も幸せなとき

 夜、秋の丘沿い町の一本道に、妙にギクシャクした動きでそれを上る、仏頂面の人が在った。群青色の背広の上に灰色の外套を着て、首には糸の縺れた出来の悪い赤色の毛糸を編んだ首巻を巻いている。歳は成人して数年、といった様子で、羊毛の様なかなりの癖毛が印象的。残念ながら、彼には背広も外套も、びっくりするほどに似合っていない。

 「なんで背広と合わせる革靴は、こんなにも歩きにくく出来ているんだ!」

 と、一人憤慨しながら、右足、左足と歩を進める。通り雨の後の濡れたベネトンの上で、彼の安物の革靴は良く滑った。

 徐々に慣れてきたのか、しばらくすると器用にひょこひょこ跳ねるように歩く方法を見つけた彼の歩く速度は増した。道化師の歩くような些か滑稽な方法ではあったけれど、確かに、それは早かった。

 古い木造の下宿の前で坂を上るのを止めて、彼はその下宿の外階段を昇る。一段ごとにぎぃ、ぎぃと鳴っては、錆びた鉄の塊が下に落ちてゆく。

 いつもならそれを見て貧乏生活にため息を付くのだが、今日の彼は少しばかり異なった。

 外套のポケットから家の鍵を取り出して開ける。鍵の開く音に気付いたのか、中から裸足が駆け寄る音がする。

 立て付けの悪い扉の隅を靴で蹴る。もう慣れたもので、扉はそれで滑らかに開く。一時間は暗い中を歩いていたので、家の中の光が何とも眩しく感じられた。柔らかな黒い短髪の、彼よりも一つか二つ若い女性が出迎える。

 「ただいま」

 「お帰りなさい。外は寒かったでしょう、ささ、早く中にはいって」

 「うん、寒かった。もうすぐ秋も終わるようだよ、先週紅葉狩りに行ったのは正解だったな」

 外套と首巻を脱いで彼女に渡す。裸足が少し駆けて、それらを押入れに仕舞った。アキオは革靴を脱いで家に入る。電熱ストーブの熱が空気を微かに温めている様であった。

 「首巻、着けていってくれたんですね……もう! 出来が良くないから隠しておいたのに!」

 「ははは、こんな狭い家で物隠そうなんて、無理な話だろう」

 「それは――あ! お風呂いかなくちゃ、いま桶を用意しますから、先にお風呂屋に……」 

 「ああ、そうか、風呂かぁ。忘れてたな。いや、その前に何が軽く食っていきたいな。実は昼からなぁんにも、珈琲以外口に入れていないんだよ」

 「まあ! いくらお金が無いからって!」

 いやぁそうじゃないんだよ。実は一つ前に書いた本が一小節遅れて実を付けたみたいで、今までの二つと合わせて中々に売れ始めたんだ。だから、お金は今までで一番在るんだ。それを実感したくて担当の佐津間君と本屋を見て回ったり、打ち合わせしたりしているうちに昼を食い損ねたんだよ――と、彼は自慢げに語りたい衝動に駆られた。

 たが、同時に少しちくちくとした感情が生まれた事も実感していた。所謂、悪戯心である。

 「ごめん、ごめん」

 と笑って見せる。風呂に入って帰ってきて、夫婦仲良く一つの布団の中に潜り込んでから、妻の寝る寸前にふと思い出したように伝えてやろう。と、悪戯心は子供の様に大きく膨らむ。

 同時に、自分はこんなに疲れていたのか、と驚くくらいに肩が重く感じられた。思えば今日は自分の成功に半信半疑のまま町中を駆けまわっていた。何時もの何倍も動き回ったのだろう、歩き難く感じたのは何も革靴の為だけでは無いようだ。

 「じゃあ今作りますから、待っていてくださいね」

 彼は無言で頷いて、ゆっくりと狭い居間に入る。ネクタイを緩めて、ああ、なんだかサラリヰマンみたいな動作だな、なんて、もう一度締め直して、緩める。

 古い洋机の片方に座って、台所で彼女が何かを用意する音を聞く。途端に彼女の愛おしさを再認識する。彼女がいなければ、ぼくは玄関で眠ってしまっただろうなぁ――そう思うと、やはり彼女の存在は大きい。今晩はキッスを多めにしてやろう。

 「山葵、いりますか?」

 「え? ああ、うん。たぁんと入れてくれ」

 はぁい、と彼女が台所から答えた。山葵を使った小料理を想像してみる。酒の摘みが幾つか思い浮かんだが、どれも腹を満たせそうにはなかった。頭の中に料理を浮かべたせいで空腹は増す。思い出された山葵のつぅんとした風味に、彼は生唾を飲み込む。

 「はいっ、突然だったから、こんなものしか作れなかったけど」

 ミカがお盆の上に茶碗を一つと、沢庵の小皿を乗せて居間に入る。洋机の上にそれを乗せて、一度台所に戻ってから急須と共に戻ってきた。

 「ああ、なるほど。茶漬けか! 確かに、軽く食べるには持って来いだ」

 腑に落ちた、と声を上げる。

 大きめの茶碗の上の白飯に切手位に千切った海苔と、昼の残りらしい解した鮭、黒胡麻、醤油も少し垂らしてあるらしい。

 何より、山なりの白米の頂点に乗った山葵がアキオの視線を集める。すきっ腹にはこれ以上ないほどの絶品が目の前の茶漬けだと、その緑は教えてくれる。

 「お茶、かけますね」

 ミカがゆるりとした手付きでお茶を注ぐ。熱いお茶が注がれて上がる湯気が何とも食欲をそそって仕方がない。

 お茶を適量注ぎ終わると、彼女は向かい合っておいてある席に座った。優しい目で、彼の空腹な瞳を見つめる。

 「どうぞ」

 「うん、ありがとう。いただきます」

 彼は手を合わせて、茶碗を持つと熱いお茶に濡れた白米を口に運ぶ。山葵の風味と塩味を強くして焼いた鮭の相性は抜群だ。醤油味のついた海苔に白米を巻いて食う。つぅん、と鼻の奥に風味が届く、涙が少し出てくるが、彼は気にせずに咀嚼を続ける……

 ああ、もしかしたら、と思う。

 ああ、今が一番、と心の中で呟く


 

 彼らはこれから何度ともなく経験することになる”最も幸せなとき”を、この時に初めて、こうして経験したのである。

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最も幸せなとき。 圃本 健治 @Izumiya

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