第36話 奪われる彼
彼は、とにかく略奪される人だった。
イケメンというほどではないけれど整った顔や、穏やかで甘い話し方、さわやかで気取らない仕草が、女性を引き寄せるのだと思う。
私もそうだった。
大学で同じゼミだった私たちは、彼からの告白で付き合いをスタートさせた。
最初の略奪はそれからひと月ほど経ってからで、相手はサークルの後輩だった。彼女はかわいらしく、スタイルもよかった。また彼も彼女になびいてしまったものだから、私はあきらめて身を引いた。付き合い始めてまだ日が浅かったから、さほどショックは無かった。
それからひと月くらい後、彼は私の元に帰ってきた。
「やっぱりキミが好きなんだ!」と、土下座付き。
あんなかわいい子よりも私なの?と、感動して彼を受け入れた。
これで私は完全に彼に捕まった。
ところがそれからふた月経たないうちに、また略奪された。
今度はアルバイト先の先輩。美人で胸が大きかった彼女からの押しに、彼はイチコロ。この時はつらかったけれど、彼の幸せを思うからこそ、私はまた別れに応じた。
その後、彼はまた帰ってきた。「やっぱりキミが好きなんだ!」と、土下座しながら。
こんなふうに、彼は誰かに略奪され、そして帰ってくるということを繰り返してきた。
友人たちには別れた方がいいと言われ、私もさすがに疲れて別れを切り出したこともあった。けれどその度に大泣きしながら拒否された。
「キミが好きなんだ!」と。
それを振り切って別れるほど愛情は枯れてはおらず、やがて私は慣れてしまった。彼が他の女に走っても、どうせ戻ってくるのだから。
これは結婚しても変わらなかった。
私は親が遺した戸建てにひとりで住んだ。
彼は他の女のところに行ったり、「やっぱりキミが好きなんだ!」と戻ってきたりの日々。
必ず帰ってくると信じていたからこそ、このおかしな結婚生活にも耐えられた。
ある日、いつものように別れようと言われたのだけど、この時は離婚届を書くように言われた。こんなことは初めてで、彼が今度こそ帰って来ないかもしれないと、私は直感した。そして気がつくと、荒れた部屋の中で彼は死んでいた。突き飛ばした際、頭を強打したのだった。
――もう彼を奪われないようにしなきゃ。
私は彼を庭の木の根元に埋めた。桜の木。女ひとりでの作業は大変だったけれど、何とかこなした。
そうして私はようやく、私だけのものになった彼と暮らせるようになったのだった。
「あれ? 桜の木、元気ないね」
遊びに来た友だちに言われた。
この年確かに、つぼみの数が例年に比べて少なかった。彼を埋めた昨年は、見事なほどの満開だったのに。
「それに引き替え、お隣の枇杷は育ったね!」
我が家の桜と塀を挟んですぐ向こう側にある、隣家の枇杷の木。これまで塀に隠れて見えなかった木が、見えるまでに成長していた。
(また奪われた……?)
どうやら彼の養分を、我が家の桜から隣家の枇杷の木に略奪されたらしい。
そういえば隣の奥さんは、若く美人でスタイルも良い……私は呆然として、その枇杷の木を見つめていた。
それからまもなく、隣家の奥さんが我が家を訪れた。
「今年、初めて収穫できたんですよ。私、枇杷が大好きだったんですけど、アレルギーを発症しちゃって……。家族も食べないので、よかったら食べていただけません?」
彼女が差し出したスーパーのレジ袋の中には、とれたての枇杷の実。
(ああ、また帰ってきてくれた)
枇杷の実をかじると、とても甘くてさわやかな味。
「やっぱりキミが好きなんだ!」と土下座する彼を思い出す。
「おかえりなさい」
それから私はケータイを手に取り、一一〇番に電話をかけた。
36℃の色鉛筆【改訂版】 ハットリミキ @meishu0430
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