第35話 見えるとこわい
「あっ、ほら。また何も無いところを見てる」
彼がうれしそうにそう言う。そちらを見ると、飼っているねこのマオが、部屋の壁の中央――何も無い宙を凝視していた。ねこは時々こういった仕草をする。
「ねこってさ、おれたちには見えていないものが見えているんだって」
「聞いたことがあるわ。ちょっとこわいわね。でも、この子の場合はどうかな……」
「絶対見えているって。幽霊か妖怪、もしかして妖精とか」
かわいいひとだな、と思う。私より三つも年上だけど、目を輝かせてそんなことを言うなんて。
「マオがおれのことを怖がらなくなったんだ」
彼はずっとニコニコしている。
「最初に会った頃は、フーッて言われたのにな。おれのことに慣れてくれたんだね」
それもどうかな……そう思ったけど、何も言わないでおいた。
でも私は慣れてきていた。彼がこの部屋にいることについて。
彼は、私のストーカーだった。
アルバイト先の同僚だった人で、どこが気に入ったのかわからないけれど、私のことが好きだったらしい。アプローチでもしてくれればいいのだけど、ただじっと見つめているだけ。彼の外見が私の好みじゃなかったというのもあるけれど、気味が悪くなってしまった。
いつの間にか、自宅のそばでも姿を見かけるようになった。マオが彼に威嚇したのは、その頃のこと。窓から中を覗く彼に、怯えたのだと思う。折しもストーカー絡みの殺人事件などが社会問題になっていたこともあって、私はこわくて、警察に相談したりしていた。
「マオが見ているものを、おれたちも見られないかな」
「見たい?」
「ちょっとこわいけどね」
見えなくてもいいこともある。
「君はもうちょっと大人しい、無口なタイプだと思っていたよ。見えないところは全然違っていて、驚いた」
「こわい女だった?」
「いいや。君のことがもっと好きになったよ」
話してみれば彼はとても気さくで、どんなにつまらない話でもちゃんと聞いてくれる。
そもそも彼が私に話しかけられなかったのは、仕事以外のことは一言も話したことが無かったから、どう話せばいいのかわからなかったと、後で聞いた時に彼ははにかんでそう言った。
もっと早く、彼のそんなところを知りたかった。目に見えないことだから、難しいけれど。
「またマオが宙を見ているよ。そこに何がいるんだろうね」
うれしそうに彼が言う。でも違うと思う。ちょうど外から風が入って来たところで、近所の焼鳥屋さんの香りが届いたから、多分それ。その香りに彼は気づけない。
警ら中の警察官に呼び止められた彼は、逃げ出した時に、たまたまそこに来た車にはねられてしまった。
そしてそのまま――。
彼がこの部屋に居ることに私が気づいたのは、それからまもなくだった。
「ねこってすごいよね。おれたちに見えないものが見えるんだから」
まさか私に彼が見えるとは。
見えるようになったのは姿だけでなく、彼という人間の魅力だった。
そして自分の彼への気持ちも。
マオはあなたに気づいていないだけ。それを言うと自分がこの世にいないことに気づいた彼が消えてしまいそうで、私はこわい。
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