第2話 あの家

     1


 姫楠市の高蔵町には、いわくつきの物件がある。それは学校の通学路にあり、小学生たちはそこを息をとめたり駆けぬけたりすることで対処をしていた。そいつはホラーハウスとよばれたり、お化け屋敷とよばれたりしている。家に面した道まで、幽霊道路といわれる始末だ。

 子供たちはおもしろ半分ふざけ半分でそんな噂をしあっていたのだが、そんな子たちのうちでも勘のいい子は本気で怖がっていたし、そういう子たちのうちでも、特に鋭い子たちは、本当につかまったりすることがあった。

 金山祥輔もそんなうちの一人だった。


     2


 その家の外観はつぎのようなものだ。

 玄関は南むきで、西側が道路。境には古ぼけた金網がたっている。学校にある緑の金網とおなじもので、祥輔はところどころやぶけてサビのついた金網も、なんだか怖かった。家を守るため、というよりは、なにかを外に出さないためのもののように見えた。これも祥輔たちが家を怖がる理由のひとつだが、屋敷の門は金網のむこうにあったのだ。ということは、この金網はずっと後から誰かが立てたことになる。

 道路と金網のすきまには何十年も放置された自転車が三台。すべて子供用の自転車で、つかまった子たちの自転車だ、との噂があった。

 門から玄関までは踏み石が五つあって、ふるぼけたタイルの玄関につづく。玄関は砂まみれだけど、カサたてには赤と黄色のカサがきちんとさしてある。南には庭があり、松や柊といった、日本の庭園によくある樹木が一面に植えられている。薄暗くて、なんとなく鬱蒼として見えた。それらは手入れをされていないから、年中ほんの少しだけ枯れていた。クモの巣もいっぱいたかっていた。

 そして、表札――というよりも看板だ――には、岡崎医院、とあったのだ。

     3


 祥輔が、あの日、ホラーハウスを通りがかったのはほんの偶然だった。けれど、後になってみると、その日にいたるずっと以前から目をつけられていたとわかる。


 ゲームに夢中になるうちに日は暮れて、友達の家からいそいで飛びだしたときには、街は真っ赤になっていた。その日の夕焼けはものすごかった。空はまっ赤なサングラスを通したみたいに赤く、街はその赤と影の黒とのコントラスト。なんだか別の街に来たみたいだ。祥輔は家までの道を一生けんめい走る。夏のやけた空気がのどをカラカラにする。

 もう幽霊道路を通ることはあきらめていた。ひどく遠まわりになるけれど、二車線道路にめんした鋪道まででて、ぐるっとまわりこむつもりでいた。こんな時間にホラーハウスの前を通るなんてばかげていると思った。あの家のことを考えるだけで、ぎゅっと胃がちぢむし、ちんちんがひっこんだみたいになる。

 だから、幽霊道路がみえた瞬間に足をとめたのは、不思議というほかないのだった。



 通りはもう血をこぼしたみたいに真っ赤だ。これまでにない夕焼けの中、祥輔はあらい息をつきながら、胸を大きく波打たせ、幽霊通りに近づいていった。汗だくで、シャツもびっしょり。なのに、ドライヤーをあてたみたいにノドがヒカヒカで、鳴らすとペタリと貼りつくほどだ。

 右手の甲で、ノドの上をちょっとこすった。それからあの道をめざして歩きはじめた。

 変だな、と思った。なんだかおかしい。あの家にだけピントが合って、それ以外はぼやけて見える。耳栓をしたときみたいに、自分の息がおおきく聞こえた、心臓の音も。

違和感をたしかめるためにホラーハウスに近づく。

 ようやく何が変なのかわかる。

 金網がなかった。

 時間が止まったみたいにじっとしている。びっくりしすぎて、怖がるのも忘れたほどだ。

 祥輔は金網のあった辺りをとっくりとみた。地面には、支柱の跡がない。

引っこぬいたんなら、穴があいているはずだけど……

 祥輔は顔をあげた。子供の声が聞こえたのだ。三人の子供たちが、岡崎医院の庭先でボールをつかって遊んでいる。

 なんで、子供が……。

 岡崎医院には誰も住んでいないはずだ。建物だって朽ち果てている。庭だって雑草がぼうぼうと生えていたのに、それも刈られてきれいなものだ。

 視界の端になにかが引っかかる。自転車だ。乗り捨てられた自転車が、今ではピカピカになっている。表面についた砂埃も、細かくはった蜘蛛の巣もすっかり落ちて、新品みたいに輝いている。そいつたちは、夕陽をうけてにぶく光る。でもそのほうを見なかった。子供たちから目を離せないのだ。

 何してるの――

 と祥輔は聞こうとした。けれど、声がでない。子供たちが手をとめて祥輔を見る。そのとき――

<祥ちゃん……>

 かすかな声がする。家の中からだ。祥輔は子供たちから目を離してそちらを見た。夢みるような心地がますます強くなり――

<祥ちゃん……>

「誰?」

 と足を踏み出す。彼は気づいていなかった。変化があったのはその家だけじゃない、町全体だ。通りには空き地が三つばかり増えていた。積水ハウスはなくなって、古ぼけた日本家屋ばかりになっている。彼が生まれるよりも、ずっと昔の町並み。

 助けて……という声が聞こえたときはもう遅かった。つま先が敷地をこえた瞬間に、祥輔の足に電流が走る。祥輔はあっと声を上げた。のぶとい腕が、手首をつかんでいたからだ。


     4


 ぽーん、ぽーん、ぽーん

 ピンクのボールが、庭先で一人、はねている。子供たちは消え、祥輔の前には太ったおばさんが立っていた。腕をつかんだのはその人だった。 

 祥輔が下がろうとすると、おばさんは指にますます力をこめる。骨がきしみ、おしつぶされた筋肉がその骨とこすれあった。

 そのおばさんはちょっと異様だ。太っているにしても大きすぎる。まちがいなく横綱クラスだ。なのに、太っている人特有のやわらかさがなく、動く岩みたいな感じがする。まるで邪悪さが固まって、それで膨らんだみたいに見えた。

 看護婦長、という言葉が頭にうかぶ。この人にはにつかわしくない言葉だ。それに祥輔の知ってるナースのかっこうとはちがう。どちらかというと、大昔の(戦時中の)看護婦みたいなかっこうだ。ひどく古ぼけた衣装だし、それにべったりと血がついていた。

「いらっしゃい、祥輔」

 と看護婦長は言った。ニコリともせずに。重くてざらざらして、女らしさのない声で。がさつではなく、威厳にみちた声だった。その声をきくと、祥輔のしびれはますます強くなる。脳みそにこだまする声が、こう連呼する。危険! 危険! 危険! きけんだ! 看護婦長の姿は、遠近感が狂ったみたいに伸びちぢみする。

「いらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい」

 と繰り返した、そのたびに、口の端がどんどんあがる、味気のない笑みになる。その顔は、子供が大好きなのよ、でも、ほんとに好きなのは悲鳴なの、と言っているみたいだ。祥輔は、手をはなして、はなせ! と言った。今度こそ声が出た。看護婦長の腕から手をとりもどそうとひっぱる。そのとき、巨大なもみじみたいな手がかっとんできて、彼の頬を激しく打った。

 祥輔は門のたもとに倒れこむ。すごい打撃だった。くちびるのはしっこから血が糸をひいている。地面についた腕まで垂れ落ちた。肘に砂がべったりと付いてる。立ち上がるんだ立ちあがって逃げるんだ、と自分に言ったけど、体が震えて立てない。足が動かなかった。

 まごまごするうちに、首根っこをつかまれた。

「返事はどうしたんだい」

 看護婦長は、束ねた本を放り投げるみたいに、祥輔を庭園まで投げとばす。庭の石でふとももを打ち、その勢いで一回転しながら手をついた。激痛がオーケストラみたいに騒いでいたけど、寝ころんでもいられない。背後の松や楓が、見たこともない植物にかわっていたからだ。花弁の内側には巨大な口。周囲にはギザギザの歯をはやし、その口をおおきく開けたり閉じたりしてる。悲鳴を上げると、その声を聞きつけて、首をのばす。しなやかに。祥輔はゴロゴロところがって、牙をかわした。手をついて顔をあげると、

「よくないね、よくない子だ」

 看護婦長がこちらにやってくるところだった。目に涙がいっぱい浮かぶ。脳の奥底が、とうさんとかあさんのことを考えている。

「ぼく、帰る! 帰らないと――!」

「帰さないよ」

「なんで? うちで母さんが心配してるもん! それに看護婦長は町内の人じゃないじゃないか!」

 そこで息をのんだ。じゃあ、この人はどこの人なんだろう?

「ぼくをさらったりできない……」

「もうやったよ」

「ぼくは帰るんだ……!」

 祥輔は走った。でも、門のほうこうは看護婦長がふさいでいたし、背後では人食い植物が牙をむく。玄関にとびこむしかなかった。玄関のランプが歓迎するみたいにぱっとついた。ひび割れて古ぼけてもいるのに、妙に生き生きしたランプ。看護婦長の巨大な腕が伸びて来て、

 祥輔はドアのとっ手を力まかせに引きあける。ゴールテープをめざすランナーみたいに、ホラーハウスにとびこんだ。反転すると、目をとじたまま、ドアに体当たりをしたけれど、赤ちゃんの頭ほどもある指が四本、扉の端を、がっとつかんだ。


 祥輔はドアノブに手をかけたまま、恐る恐る顔を上げた。扉のわずかな隙間、はるか高見から、どでかい顔がかれを見おろしていた。

「来たね」

 と看護婦長は言った。

 祥輔の後頭部を、猛烈な風と音が襲った。看護婦長が扉を閉めた。ホラーハウスに閉じこめられた。

 祥輔は受付の真下で震えながらうずくまる。

 玄関をかえりみると、左にはクツおきがある。ふるぼけたスリッパがたくさん。右がわには、古ぼけたポスターが貼られている。看護婦長はそのまんなかにいて、そのシルエットは一個の山のようだった。さながら踏破することを決して許さない峻厳なエベレスト。でもそいつは待ち構えているだけじゃない。

 いよいよ痛めつけにかかるところだ。

 もうだめだ、と祥輔は仁王像みたいな女をみあげる。仁王像は夕陽をあびてまっくろだった。

 ぼくはホラーハウスにはいっちゃった、もう絶体絶命だ。

 そのとき、廊下のさきで扉がひらき、子供たちの声があがった。


     5


 受付の赤電話がりんりん鳴っている。十円玉をいれて使うやつが、台の上でけたたましく吠えている。その音をひきさいて、子供たちが叫んでいた。

「祥ちゃん!」

「祥ちゃん、はやく! こっちよ!」

 祥輔はふりむいた。子供たちが廊下の向こうで、ひとかたまりになっている。その子達が彼のことを呼んでいるのだ。もう迷っているひまはない。電話台をつかむ、痛みをこらえてダッシュする。

 看護婦長ののぶとい指は、間一髪のところで襟首をつかみそこねた。

 廊下のまんなかには、岡崎医院を中央でくぎるもうひとつの廊下が東にむかってのびていた。祥輔はその暗い廊下を横目にみた。手術室、と書かれた扉がひらき、血みどろの手術着をきた男が飛び出してきた。看護婦長と変わらないぐらいの巨体。ぼさぼさの髪、ふつりあいなほどちいさな眼鏡。全身に返り血をあびている。

 祥輔の小さな頭で、警告の声が響く。

 院長だ――

 祥輔に気づき、一目散に駆けてくる子供。だから、悲鳴をあげて走る。床板は院長と看護婦長の重みでぐわんぐわんとたわむ。二人の指が後頭部をかすめる。膝は恐怖にぐらつき、いまにも転びそうだ、目の端からは涙がこぼれ、苦しみに喘ぐ。

 看護婦長は真後ろにせまっていた。祥輔は子供たちにむかってダイブする。

 子供たちが祥輔を受けとめるのと、扉をしめるのは同時だった。男の子たちが扉をおさえる、祥輔もくわわる。女の子のひとりが、長い髪をなびかせてカギ穴にとりつく。その子はちょっともたついてる(はやくして、はやくして、と他の子たちが叫んでいる)。看護婦長が扉をどんどん叩くものだから、ふるえてうまく刺さらないのだ。


 鍵の先端が金属板をむなしくうつ。三度めでようやくほんらいの位置におさまる。衝撃と汗で女の子の指がカギからはなれる。だれかが恐怖の悲鳴をあげた。看護婦長の体当たりで、子供たちの体は扉のうえでジャンプしている。

 女の子は容姿からは想像もできない罵声をあげて、大仰な飾りを力任せにつかむ、鍵を右に向けておおきくまわす。ぐる、ぐる、ぐる。看護婦長の打撃と怒声はカギがまわるごとに小さくなった。ステレオのボリュームを下げたみたいに小さくなった。スーパーカーに乗って遠くにかっとんでいくみたいに小さくなり、三度目にしてようやく聞こえなくなる。鍵を閉めただけなのに、まるで二人の存在が扉の向こうからかき消えたみたいな不可思議さだった。

 祥輔は男の子たちをみる。男の子たちも祥輔をみた。そうして待つこと数秒。誰もが息を止めて大きく目を見開いている。

 やがて、看護婦長がついにいなくなったのを知ると、彼らはおおきく吐息をつきながら、その場にくずおれてしまった。

     6


 七人だ……

 七人そろった……

 その子たちは口々にささやきあう。なぜか信じられないといった顔をしている。

 祥輔は怒鳴り声がやんだとたんに力がぬけて、その場にひざを落としてしまった。血の気が全部頭に昇ったみたいだ。顔は紅潮し、目は真っ赤に充血している。極度の緊張で体がおかしくなってる。

 痛みがはるかかなたに遠ざかる。まわりの声も小さく聞こえた。頭の血の気が一気に引いて、祥輔は横向きに倒れる。舌をたらして痙攣をする。子供たちがのぞきこむ。かすんだ視界の中、その子たちは亡霊みたいだ。

「しっかりしろよ」

 少年の一人が、首のうしろに手を回す。祥輔はガタガタと震えながらも、どうにか気をうしなわずにすんだ。

 子供たちは、彼をソファにつれていった。

 そこは小さな待合室だ。部屋の中央には背の低いテーブル、子供用の本が無造作に広がっている。茶色のしみがてんてんとこびりつき、ページがやぶれているのもある。観葉植物はかれて、二つあるソファのかたわれは、やぶれて中身がはみ出している。あの二人はここでも暴れたことがあるんだと想像がついて、祥輔はなんとなく身震いをした。

 その部屋にいたのは女の子が二人、男の子が四人。このこともちょっと衝撃だ。ホラーハウスのなかに、こんなに人がいたこと自体が驚き。その子たちがフルマラソンをやったあとみたいに――きっと連続10回はこなしてる――くたびれはて、やつれきっていることにも祥輔は驚いた。

 カギをまわした子は、美代子、という名前だった。切れながの一重の瞳で、さらさらの髪があっちこっちに跳ねている。東洋的な顔立ちをしている。かたわらの女の子は日向子。美代子とは真逆の顔立ちで、おおきな瞳を恐怖でいっぱいにひらいている。ロングの髪を三つ編みにしている。勝ち気そうな顔だ。


 眼鏡をかけた男の子が一郎。鼻がひくいせいで、眼鏡がずりおちている。その眼鏡というのも、右のレンズがひびわれているし、ぜんたいにうす汚れて、かけないほうがよく見えるという代物だった。

 そばかすの多い子は武彦、手足がしなやかでかけっこが早そうだ。一番ふとった子が太一。ピチピチのシャツを着ている。淳也という子は、ジャニーズにいそうなととった顔だけど、今はやつれてちょっと病的だった。

 祥輔は力のない目をあげて、「なんでぼくの名前知ってるの?」

 日向子は、血がでてる、といって、ポケットからハンカチを差し出した。受け取る。それを口もとに当てると、歯に傷があたって痛みがひろがる。ほっぺたが腫れて熱をもっていた。

 みんなは彼の質問に答えない。かわりに、武彦が、まっくろなノートをさしだす。学校でつかう名簿みたいだ。祥輔は、なんとなく魔的なノートをおそるおそるうけとる。五年三組と書かれた表紙をあけた。

 先頭のページには、ていねいな文字で誰かの名前が三十ばかり並んでいる。どの名前にも二本線が引いてある。祥輔は次のページをめくった。二枚目も三枚目も同じ調子。四枚目で、ようやく線のない名前が出てきた。祥輔はおやっと顔をしかめる。それはここにいる子供たちの名前だったからだ。

笹岡美代子、大村武彦、この子たちの名前にだけ棒線がないのだった。そして、一番最後の欄には、祥ちゃん、と彼の名前が墨書きがしてあった。

 ぼくの名前だ……祥輔はノドの奥でつぶやいた。


「3日前、その名前がうかんできたんだ」武彦が言った。「だから、ぼくたちにも新入りが来るってわかった。誰かがくるときは、この部屋も元の場所にもどるんだ」

「もとにもどるってなんだ」と早口にいった。口の傷がますます裂けて、舌いっぱいににがい血の味がひろがる。祥輔は痛いことまで悔しくなって、

「君たち、誰なんだ? どこの子だよ! 山西小の子じゃないだろ!」

 すると、みんなはこまったように顔を見合わす。

「あたしたちみんな山西小よ」

 日向子が言った。

「うそだ。ぼくはみんなのこと見たことない」

 とみんなのことを指で差す。ここにいる七人は、祥輔と年かっこうが変わらないのだ。

 日向子が、「いまは何年なの?」と訊いた。ひどく暗い声だ。祥輔はおもわず訊きかえした。が、すぐに暦を訊かれたのだと思い当たって、

「二〇一〇年だよ。それが、なん……」

 祥輔は黙りこんだ。美代子がいまにも泣きそうな顔をしたからだ。日向子もみんなも泣きそうな顔をしている。

 一郎が、「美代ちゃんは十年以上この家にいるんだ」と言った。「ぼくは三年目だ」




 みんなの話はまったくもって薄気味悪かった。日向子は八年、武彦は五年、淳也は二年半ここにいる。太一はまだ一年目だった。祥輔はもう一度名簿に目を落とした。どうやらここに来た順に書かれているみたいだ。けれど、こんなところに何年も? 祥輔は恐怖とともに苛立ちをおぼえる。そんなことありえない。この子たちの言ってることはおかしい。祥輔は思い当たって、「でも、年をとってない!」と美代子をさした。「十年もいたらもう大人じゃないか! 子供のままなんておかしいよ!」

「年はとらないんだ」

 一郎が言った。祥輔が振り向くと、一郎は自分の言葉をみとめたくないみたいに目をそらしている。

「それだけじゃないのよ」と日向子。「外の人たち、わたしたちのこと忘れちゃうみたいなの……」

「ぼくと武彦は家が近所なんだ」と淳也。「ぼくは武彦なんて知らない。でも、武彦はぼくのことおぼえてた」

 淳也は武彦のあとにここにきた。淳也は武彦をおぼえていない。弟や妹は知ってる。でもその子たちに、武彦なんて兄ちゃんがいたこと、かれは知らなかった。

 祥輔はそんな話、うそだと思いたかった。彼らの話のとおりなら、武彦は五歳も年が上だ。だけど、淳也と太一とは年が近い。そして、二人は祥輔のことを覚えていたのだ。彼がどこの子で、どんな家に住んでいるのかを。

 太一とは、なんどか遊んだこともあるらしい。

 そんなばかな! だけど、太一は彼の家の間取りまで知ってる。どんなゲームを持ってるかも。祥輔はツバをのみながら必死に考える。六人、六人も行方不明になったのか。岡崎医院の怪談話、あれはたんなる噂じゃなくて、でも――

「ほんとはもっと大勢いたのよ」日向子が美代子をひっぱってきた。「あたしは美代ちゃんとしか会ってないけど、この子はもっと前のメンバーとも会ってる。カギを持ってたのはその子たちで、ほんとはあたしたちも、そのカギがなんなのか知らないんだ。そんで、その子たちは、みんなつかまっちゃった」

 つかまった――その言葉に祥輔はかすかに震える。彼の体には看護婦長の野太い指の感触とか、あいつの邪悪な息の匂いが、いまだ鮮明に残っていたからだ。

 みんなは美代子のもつ鍵をみた。

「今はぼくらしかいない」

 一郎がおそろしげに眼鏡をおしあげた。



 祥輔はつったったまま、みんなの顔を順番にながめわたす。おなじ町内で、でも生きた時代のちがう子供たち。外の世界から忘れ去られた子供たちがここにいる。かれはみんなのことも怖くなる。

「この家からはでられないんだ」と淳也。「ぼくらはずっとここにいて、院長たちから逃げまわってる」

「ぼくは帰る。とうさんとかあさんが待ってるんだ。忘れるはずなんてない!」

「ぼくだってそう思いたいよ」

 太一がめそめそと泣きはじめた。

 祥輔は太一の住んでいた家を知ってる。その家の子たちもだ。でも、あの兄弟のまんなかに、太一なんて少年がいたこと、彼は知らなかった。

「なんで帰れないんだよ」と訊く。「カギがかかってるってこと? それともあのおばさんが見張ってんのか?」

 武彦が一郎と顔をみあわせた。

「そうじゃないんだ。この家がさっきみたいに岡崎医院にもどること、めったにないから」

 祥輔は眉を上げる。

「つまりあんたみたいな新入りが来るときだけってこと」そう言ったでしょ? 日向子が薄寒そうに肘をなでる。「この家って、あっちこっちの開かずの間とつながってんだよね。それでこのカギでいろんなとこに行けるんだ」

 それで看護婦長がいなくなったのか――

 その話を信じたわけではないが、祥輔は妙に合点の行く気がした。看護婦長の攻撃がやんだのはとつぜんだった。カギを回したぐらいであきらめたのはおかしかった。

 一郎がため息をついて、「だけど、あの人たちもカギを持ってる。だからぼくらの後を追ってこれるんだ」

 祥輔が青くなると、彼はあわててつけたした。

「だいじょうぶだよ。行き先は自分で決められないんだ。それに外にはカギ穴がないだろ?」

 祥輔は指をにぎったり開いたりした。こんなきちがいじみた話は信じられない。でも、直観がぜんぶ本当だとつげているのだ。

 淳也が美代子からカギをうけとり、祥輔の腕をとった。

「来なよ、証拠をみせるから」



     7


 淳也が三度鍵をまわした。頭の奥で、うなるような音がこだまする。平衡感覚が狂う感じがして、奥歯の疼きがひどくなる。

 なにかが所定の位置におさまる音がした。

 淳也が扉を開くと、洋一の眼前で、岡崎医院は消えていた。視界の先は暗い。すぐ先には踊り場があって、その先では階段が落ちている。

 待合室に、冷えた空気がながれこむ。あたらしい部屋だ、と一郎が言った。

 子供たちはなんとなく外にふみだせなかった。新しい部屋がまっくらだったこともあるし、そんなふうにしていると、囲いの外に出られない囚人みたいだ。でも、祥輔が足を進められなかった理由はもう一つあったのだ。扉の外の景色には見覚えがあったからだ。

 太一が部屋の狭間に鼻をちかづけて匂いをかぐ仕草をした。武彦は耳に手をあてて何かをきいている様子。二人は同時にうなずいて、仲間たちにうなずいた。

「看護婦長はここにはいない」

 祥輔は武彦のことばを待たずに、外に出た。階段の先には廊下があった。その先には窓がならんでいる。外はもう暗闇だ。振り向くと、待合室は夕暮れで、まだ明るさがある。祥輔はもう二歩ばかりあとずさって、踊り場の全体像がよく見えるようにした。淳也が開けたのは、両開きの扉の片方だったのだ。そして、それは――

「非常階段だ」

 と祥輔は言った。階段をよく見ると、手すりの間にロープがわたしてあって、真ん中に看板のようなものがぶら下がっている。


 祥輔が階段をかけおりたので、武彦たちもあわてて後についていった。祥輔はロープを押し上げて、下をくぐった。正面にまわりこむと、看板には、立ち入り禁止、と漢字とひらがなの両方で書いてあった。

 見たことがあった。

 山西小の風景だった。

 祥輔は窓に走って外をのぞいた。夜だから、いつもの景色とちがってみえたが、校庭も遊具も砂場も鉄棒も、見慣れた位置においてある。正面玄関の門のわきには公衆トイレだ。

「学校だよ……」

 と祥輔は誰にともなくつぶやいた。

 ふりむくと、太一もまたその看板にくぎづけになっていた。

「この看板、みたことあるだろ?」

 と祥輔は訊いた。太一は昨年岡崎医院に来たばかりだ。

「見てよ」

 階段の右側は、音楽室である。左側には四年A組の看板が突き出ていて、同じ形の教室がずらりと並んでいる。一番端っこにあるのはトイレだ。教室とトイレの間には同じ形の階段があるはずだ。

 祥輔はみんなと顔を見合わせる。美代子と日向子がこの学校にかよっていたのはもう十年と昔の話だが、それでも形はおぼえているはずだった。

「でも、なんでだ?」

 と武彦は階段に目を向けた。扉はもう閉まっていて、階段は真っ暗になっている。屋上につづく非常階段のわきには、二階におりるための階段。二階には、一年ら三年生までの教室があるはずだ。

 祥輔はつばを飲んだ。のどを湿してから、彼は言った。

「ぼくら、学校に出てきたんだよ。あれって屋上の扉じゃないか」祥輔の大声は暗い校舎に不気味に響いた。考えこむようにすこし顔をふせた。「おかしいよ。この学校に開かずの間なんてない」

「でも立ち入り禁止にはなってる」

 と日向子はつよがったが、いつの時代も外の屋上に出る子はいたのである。

 窓からは月光がさんさんと降っている。子供たちの顔を神秘的に染めている。

「開かずの間が、別の場所にあるってことなのかも」

 と淳也がいった、そのカギがどこの扉にたいしてもつかえるからだ。

「そのカギ、なんなんだ?」

 ととがめるようにいった。祥輔はちょっと恐ろしくなる。カギを手に持ってみた。骨董品でむやみに重かった。鉄でできている。

 祥輔はひっしに記憶をさぐった。山岡小に行けない場所なんてあっただろうか? 開かない扉なんて?

「ホラーハウスと開かずの間とつながってるって、うそだったのかな?」と太一。「それをいいだしたのって、ぼくらじゃない。ずっと前のメンバーがまちがったのかも」

 そんなふうに死んだ子供たちの考えをさぐるのはすこし不気味なことだった。

「とにかく、外に出られたんだから」と祥輔は美代子のことを気にしながらいった。「ぼくは家に帰るぞ。みんなはどうするんだ?」

「だめなんだ、祥輔」と武彦がいった。「別の場所にでても、行ける範囲にはかぎりがあるんだ。たぶん、ここからだと外には出られない」

 武彦は学校がひろいからだといった。

 祥輔は納得できなかった。でも、それはみんなも同じだ。ホラーハウスの出口が高蔵町につながったのは、これがはじめてだったのだ。これまでは田舎の家だったり、外国だったりした。

階段のスイッチを押したが、灯りはつかなかった。ブレーカーを落としているのかもしれない。みんなは暗い階段を下りた。

 一階は職員室や用務員室、家庭科室などがある。

 祥輔は急ぎ足で玄関に近づいたが、すぐに見えない壁にぶつかった。かれは鼻をおさえながらあとずさった。

「なにかある」

 日向子は期待をみごとに外されて、怒ってちかづいた。見えない壁を拳で叩いて、

「見なよ、ほんとだったじゃない。外には行けないの! わかった!」

 かのじょは急にそっぽをむいた。日向子の肩はふるえている。祥輔はいいかえせなかった。何年もここに閉じこめられていたみんなには少し同情していたからだ。


 武彦が壁を手で押しながら、

「行ける範囲も変わるんだ。ぼくらが怖がると、せまくなるみたいだ」

「ほんとうに?」

 祥輔は職員室の扉をひらいた。真っ暗だが、いつもの光景に見える。でも、違和感をかんじる。

「ホラーハウスはぼくらを閉じこめてるはずじゃないか、なのに外に出られるのはおかしいよ」

 日向子たちは顔をみあわせる。

「確かに祥輔の言うとおりだよ」武彦も納得した。廊下をながめる。「知ってる場所に出たのははじめてだ」

「でも、どこにも行けないんじゃ外にでたとはいえないよ」と一郎。

 祥輔は、「学校なら人がくるだろ?」

「別の場所でも、人がいたことがある。その人たちにはぼくらは見えないんだ」

 淳也が、まるでお化けになったみたいだよ、といった。彼らのたてる音はラッパ音や、幽霊のたてる音とおんなじだ。食べ物や服を手に入れても正体がばれることは決してなかった。

 祥輔は頭の中がすみずみと冴えわたるのを感じた。かれは考えるよりも体がうごくたちで、よく失敗しては母親にしかられていた。でも、今は大人のように理路整然と考えることができた。

「ここは本当に山西小なのかな?」

 自分がホラーハウスにくるまえ、街が異常にしずまりかえっていたことを話した。ずっと過去にきたみたいにみえたのだ。

 武彦たちもホラーハウスに来る前は、似たような体験をしていた。

 宿直室をみてみたが、先生はいなかった。

「ここが外じゃなかったら? つまり」と言葉を切る。「本物じゃないのかも。幻覚みたいなものなのかもしれない」

「まだ病院の中にいるのかもしれないってこと?」

 祥輔はちがうと思った。いくらホラーハウスでも、家の広さが変わったりするだろうか? 階段も校舎の冷たさも、空気の質も本物に思えた。でも――

「教室だ。三階にあったのは、音楽室だった。でも、ほんとは理科室だったはずだ」

 祥輔は標本のある理科室がちょっとこわかった。美代子と日向子は大昔の話すぎて記憶があいまいだったが、淳也と太一はよく覚えていた。いわれてみると、校舎のようすが記憶のものとは少しちがう気がする。

「七人そろったからだ」

 と太一がいった。祥輔は顔をあげてかれをみた。

「それってあのときもいってたよね」

 太一は話した。自分たちが七人そろえばなにかが起こるという話を信じてきたこと。そのことをマジックナンバーと呼んでいたこと。

 祥輔が眉をしかめたのを見て、

「でたらめな話じゃないんだ」と武彦がいった。ホラーハウスに来てから、武彦の耳はとんでもなく細かな音、遠くの音を聞きわけられるようになった。太一は鼻が敏感になった。いまでは犬よりもするどいかもしれない。だから、二人は新しい部屋にでくわしたとき、匂いをかいだり、耳を澄ましたりしていたのだ。日向子は目、一郎は触覚が鋭くなった。淳也は味覚だ。美代子だけはちょっと特別で、いわゆる第六感のようなものが育っていた。

「ぼくらがこれまで助かったのは美代ちゃんのおかげだよ」と一郎。

「でも、感覚があるのって、六感までだろ?」と武彦。実際には五感までしかないのだが。「だからぼくら七人目がきたら、何かが起こると思ってた。だから、新入りが来るってわかったとき、看護婦長にはぜったいにわたしたくなかったんだ。もちろん、ぼくらが欠けてもいけない。これまでは、七人そろうなんてなかった」

 六人までならそろったことがある。じっさい美代子は六人目だった。でも七人がそろったのは今日がはじめてだ。

「あの家が感覚をするどくしてるの? ぼくらをつかまえてるのに?」

 祥輔は味方がいるのかとおもった。その話がほんとなら、ホラーハウスにいるのはお化けだけじゃないってことになる。

「なにか変化はないの」

 と日向子はすがるように訊く。勝ち気な彼女がそんな顔をするのは珍しかった。みんなの精神はホラーハウスでの生活ですりきれていた。

「そんなこといっても」

 祥輔は正直に話した。なんの感覚も高まっていないこと。せいぜい頭が冴えるぐらいだ。

 祥輔に起こった変化がそのていどと知って、みんなは落胆したようだった。

「みんなよせよ、祥輔のせいじゃないだろ?」

 と武彦がいった。彼は元の時代では、学級委員長だった男だ。

「それにまだわからない。ホラーハウスにそまれば、力はつよくなるんだ」

 一郎がめがねの奥でそんなふうにいうと、なんだかこわかった。ホラーハウスにそまるという表現は。

 祥輔はいちばん訊きたくて、もっとも訊きたくなかった質問を口にした。彼は、捕まった子たちはどうなったの? と訊いたのだ。

 淳也たちはその話をしたがらなかった。もうこの家では何百回と繰り返されてきた議論に違いない。手術をされるのかもしれない。ホラーハウスに喰われるのかもしれない。でも、一つだけ確実なことは、捕まった子たちはもうこの世にいないということだった。

「でも、七人そろった」 

 太一がもじもじとお腹の前で指を組み合わせながら言った。

 武彦がうなずいた。

「はらごしらえをしたら、もう一度学校の中を調べてみよう。なにがおかしいか確かめるんだ」

     8


 子供たちは用務員室のカップラーメンをあさってたべた。パッケージはどれも最近のものだ。

 祥輔はどのぐらいの部屋とつながってるのかと聞いた。太一は三つしか行ったことがないと言った。来てから日が浅いせいだろう。淳也と一郎は六つの部屋に出たことがある。武彦も六つしか知らなかった。

「六つ?」

 と彼は訊いた。ちょうど六つなのはおかしかった。ここにいたのは六人だからだ。

「あたしはもっと多いよ。八つか九つは知ってる」

 と日向子。美代子はもう少し多いようだった。

 祥輔は名簿をうけとってしらべてみた。名簿にはずっと以前のメンバーも載っていた。その子たちの名前の上には赤線で×がしてある。おまけにページの端には、小さな字で、死亡、と書かれていた。祥輔は数を数えるうちに恐ろしくなった。すでに四一名、それだけの数がここで死んでいる。

 祥輔は、二人の女の子にどの子とあったことがあるかを聞いた。日向子は八人、美代子はもう少し多くて十五人だった。

「この子たちがいたときに行けた部屋には今は行けないんだよね? 武彦だって、もっと前のメンバーにはあったことがない――」

 日向子がきたとき、美代子は別の子といた。その子は入れ替わりでつかまってしまったのだ。新入りを助けようとして、殺されてしまった。武彦は、登という子との入れ替わりだった。以来、幸運にも、看護婦長につかまったものはいない。ホラーハウスが子供をたべているんだとしたら、いまごろうんと腹を空かせてるはずだ。

 祥輔がきて、七つ目の部屋が開いた。重要なのはそこだった。日向子と美代子が二人しかいなかったときは、二つの場所にしかいけなかったのだ。

「与えられる力はひとつずつだろ? じゃあ、行ける場所もひとつずつなのかもしれない」

「この学校は祥輔の場所なのか?」

 淳也が箸をとめた。彼らは食事もはやばやにおえて、学校の探索にのりだした。学校の様子はところどころでちがった。でもそれは祥輔の希望を反映した物でもあった。

 祥輔は、自分の考えをとなりにいた一郎に熱心に話した。

「これは現実の学校じゃない。でも、ぼくの学校だ。頭の中にある学校なのかも。つまり心の中なのかもしれない。だから、行ける範囲が広くなったり狭くなったりするんだよ。心が広いとかせまいとかいうだろ。だから――」

 祥輔は足をとめた。一郎が目をかがやかせて、わかったぞ、と言ったからだ。

「ぼくら七人目のメンバーがもらえるのは、超能力かなんかだと思ってた。でも、ちがうんだ。きっと考える力だよ」

「そんなの」と日向子はむくれた。役にたつとは思えなかったからだ。

「いや、役に立つよ、きっと。重要だよ。だっと、考える力――推理かな? それがあればホラーハウスのなぞもとけるじゃないか」

「でも誰が?」と淳也がなじるように言う。「誰がそんな力をくれるんだ?」

「死んだ子たちなのかも」

 言ってから、太一は身震いをした。女の子たちが悲しそうな顔をしたから、武彦は太一の肩に肘打ちをした。女の子たちだけは、その子たちに会っているのだ。

「ごめんよ、ぼく……」

「いいのよ」と日向子も太一にだけはやさしい。「でも、ここがどこなのかなんて意味があるのかな? だって、あたしたち、出ても行けないんだから」

 祥輔はうんとうなずいたきり、少しだまった。ある考えにとりつかれていたからだ。だれかがヒントをくれるみたいに、かれの頭はある考えをみちびきだしていた。






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ホラーハウス 七味春五郎 @shimogami

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