6話:また明日

 それは、丁度サイダーを飲み終わった頃だった。


「陽菜、電話」

「……うん」


 気付かないふりをしていた着信音に、コノハが遠慮気味に声をかけた。

 相手の予想はついているし、思ったよりかなりの時間が過ぎているのは、ぽっかり空いた空の暗さと涼しい風で何となくわかる。6時半……いや、もっと遅いかもしれない。

 鳴り止む気配のない端末をポケットから取り出す。ディスプレイに映し出された名前は、「母」の一文字だ。一分前からずっと鳴っているから、母もなかなかに諦めが悪い。


「……出なよ」

「ん」


 私の不機嫌さを察したのか、コノハはこちらを気にしながらも目を合わせることはしなかった。ディスプレイの明かりだけが暗くなった手元を照らし、虫が寄る前にと、私は通話ボタンをタップしてそれを耳に当てる。

 最初に聞こえたのは、母の息を吸い込む音だった。


「陽菜っ!あんた今何時だと思ってるの!今どこにいるの!?」

「う、うん……今から帰る」


 ──あぁ、良かった。やっぱり心配してくれたんだ。

 そう思うと力が抜けて、ほっとしたため息が出る。コノハとの間に漂っていたピリピリした雰囲気も、少し緩んだ気がした。

 そうだ、当たり前じゃないか。親子なんだから。何を不安に思っていたんだ。子供が遅くまで帰ってこなかったら心配するに決まって……


「あんた、今日何時間勉強したの!?」

「……え」

「朝に機嫌が悪かったからって、外で遊んでるんでしょう!?」


 塾は休みだし、わかってるんだからね! さっさと帰ってきて勉強しなさい!


 その後も母は説教を続けたが、私にはそのほとんどが聞こえていなかった。


 心臓が、うるさい。息が苦しい。


 鼻の奥がツンとして、思わずギュッと拳を握った。

 お母さんが心配したのは、私の身の安否じゃない。

 心配したのは、


「私の……勉強量、なの?」


 電話越しの母が、何? と苛立った声で聞き返す。コノハも今度はこちらをじっと見て、不安そうに私の名前を呼んだ。

 でも、もうそんなのどうでもいい。


 悲しい、悔しい、辛い、キツイ。


 吐き出しそうなくらいの負の感情が、心を埋め尽くしていく。


「どうして分かってくれないの」


 思いの外低い声が出て、それは心臓を更に早く動かした。ずっと蓋をしてきた醜い感情とともに涙が溢れてくる感覚がして、全てを吐き出してしまいたくなる。

 途端、


──もう吐き出しちゃいなよ。


 私の中の誰かが言った。


「勉強、勉強って……お母さん何もわかってない!」


 突然叫んだからか、呼吸が思うように出来ない。

 立ち上がった私を、コノハが目を見張って見上げている。いつの間にかソラたちも戻ってきていて、惨めな自分を見せている自覚が追いかけてきたけれど、私はもう止まれなかった。


「どうして私の事心配してくれないの?どうして勉強だけの心配はするのに、私の安全は心配しないの!?私、勉強するだけの道具じゃないのに!」

「陽菜、あんた」

「もういい!」

「ちょっと、陽菜っ」

「少ししたら帰るから。あと今日ご飯いらない」


 吐き捨てて、一方的に通話を切った。


「……陽菜、喧嘩したの?」


 端末を持っていた手をだらんと下ろした私に、コノハが問う。少しずつ息は整ってきたものの、私はまだ肩で息をしている。

 かたんと音をたてて、力が抜けた手から端末が地面に打ち付けられた。


 あぁ、もう、だめだ。


 何がだめなのかは分からない。でも、多分だめだ。

 コノハといれば、家の事も受験の事も忘れられると思ったのに。心配して電話をかけてきてくれたんだと、思ったのに。


「……だめ、だった」

「だめって、何が」


 か細い声だったのに、コノハは聞き取ってくれた。忘れていた涙と、どす黒くて醜い感情がまた溢れてくる。コノハに泣き顔を見られたくなくて、一歩前に出た。


「だめだった。私、やっぱり馬鹿だったっ……!」


 声が震える。言い表す事も出来ないような感情が行き場をなくして、思わず両手で顔を覆った。

 泣いているのはバレバレなのに、コノハは何も言わない。言わないでくていれるのか、それとも言葉が見つからないだけなのか、それは定かではないけれど。

 私は、ポツリポツリと降る雨のように、小さな声で話し始めた。


「……お母さんが、心配してくれると思ったの」

「うん」

「でも、そんな事無かった」

「……うん」

「お父さんとの仲が悪いから、私の事なんて気にしてられないの」

「うん」

「……もうね、嫌になっちゃった」


 せんぶ、ぜんぶ、やめてしまいたいよ。


 そう吐き出した私の背に、暖かい手が触れる。誰の手なのかなんて愚問は無しにして、私はその手から逃げるようにフラフラと端末を拾い、ゆっくり歩いた。


「ごめん、ね。もう、帰る」


 嗚咽混じりにそう告げて、じっとこちらを見つめるソラたちの横を通り過ぎる。早足で今朝入ってきた鳥居を潜り、数段ある階段を降りた。と、その時、


「陽菜っ!」


 階段を降り切ったと同時に、鳥居を出るギリギリのところまでコノハが駆け寄って呼び止めた。私も立ち止まる。途端、コノハの息を呑む音が聞こえた。


「俺が、俺が陽菜の悩みを食べて……」

「主様!」


 意外な申し出と、それを止めた二つの声に振り返る。暗がりでも、コノハの悲しそうな表情は良く見えた。


「なんで、あんたが泣きそうな顔してんのよ……」

「だって……」


 コノハは引き下がりそうにない。私は正直、これ以上何か言われたら頷いてしまいそうな自分が怖かった。コノハのことは大事だけれど、それより今はこの苦しみから開放されたい。そう思ってしまう自分さえ、嫌いなくせに。


「主様」

「ソラたちには関係ないだろ!」

「いいえ、関係あります」


 イツキが首を振り、私とコノハの間に入る。ソラもそれに続き、二羽はコノハの前に立つ形になった。昼間は真っ白だったその毛は、まだ茶色く汚れている。


「主様。優しさとは、相手の全てを力づくで解決する事だけではないのです。時には……もどかしくもありますが、そばにいて、話を聞くだけの場合もあるのですよ」


 ──優しい声色で語ったそれは、紛れもない二羽の経験から出た結論だった。


 コノハは何かを感じ取ったのか、不貞腐れたように俯く。私も何も言えないまま、一度大きく深呼吸した。


「陽菜」


 また、名前を呼ばれる。顔を上げると、コノハは寂しそうに微笑んで、


「また明日、来てくれる?」

とだけ言った。


「うん」

「そっか、わかった。また明日ね」

「……また、明日」


 そばにいるだけ。話を聞くだけ。

 そんな、奇妙な5日間の始まりだった。

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5日間の夏 しおり @SIORI

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