少年陰陽師 真紅の空を翔けあがれ/結城光流

角川ビーンズ文庫




少年陰陽師 真紅の空を翔けあがれ




  ◆ ◆ ◆


 背が高いなぁと、思った。

 ちょうどしを背にしている形で、自分よりずっと高い。

「……おじようちゃん、ひとつたのみごとをきいてもらえるかい?」

 逆光でかげになっているので、その人の顔は見えない。かろうじて、くちびるの動きが読み取れる程度で、どんな顔をしているのかまではわからない。

 知らない人に近づいたらいけませんよと、母から言いわたされている。だから、本当だったらそばにも寄らないでここから立ち去っていなければならないはずだった。

 だが、どうしたわけか、ふらふらと引き寄せられるようにして、気がついたらこの人の前にいた。

「たのみごと、て、なぁに?」

 首をかしげてたずねる少女に、相手はついと指を差した。

「ほら、あそこに……」

 うながされて首をめぐらせると、古びた小さな石のほこらが立っていた。ちかけた木のとびらがあり、近づいてはいけないとさとの長老にきつく言われている。

「あの扉を、開けておくれ?」

 少女は、幼い顔をこわらせた。

 あそこに近づいてはいけないと言われているのもそうだが、本能的にこわいと思う場所なので、決して足を向けることはしなかった。遠くで見ているだけでも、足の下から何かがい上がってくるような気がして、うすら寒くなる。

 いいえ、とかんまんに首をる。なんだかふわふわした気分だ。うちに帰ろうと思う。なのに、意に反して足は動かない。

 相手はもう一度、ひどくやさしいこわり返した。

「あの扉を開けて、中にある─────」

 なかにある、ものを。

 頭のしんがくらくらしている。すべてが現実感を失って、まるでぬるい水に包まれているようだった。

 水の向こうからみようひびきの声が、耳の奥にしのんできてわだかまる。

 あのなかに、あるものを。

「そう…、いい子だねぇ」

 うっそりとつぶやく口元が、にいとわらいの形にゆがむ。

 ひとみからかがやきが完全にせ、少女は表情の消えた顔で、祠に向け足をみ出す。

 最後の最後にかいえた相手の目は、奇妙にり上がっていた。


  ◆ ◆ ◆


 せいじやくが満ちている。

 彼は、息をひそめながら目を開けた。

 どことも知れない場所に、彼はいつの間にかたたずんでいた。

 わかっている。ここはうつしよではないし、また十二神将たちが身を置く異界でもない。

 ゆっくりと辺りを見渡して、彼はたんそくした。

ずいぶんと、はっきりした夢だな」

 耳に届いたおのれの声音にまたたきをする。ふいと視線を落とせば、肉が落ちて骨と皮ばかりであるはずの手は、みずみずしい張りを持っていた。

 顔にれなくともわかる。遠い昔の姿にもどっているのだ。

 そう思うと同時に、彼の口元にわずかなみがこぼれた。

 年若い姿。───の人と初めて出会ったころの。

 これは夢だ。夢は願望を映す。

「────……」

 彼はかすかに眉をひそめた。

 風がいてくる。どこまでもつづくやみ彼方かなたから。

 やがて、目をらした先に、ぽっとほのじろいものが見えた。

 とうとつに現れたそれは、みるみるうちに大きくなる。

 そして、その向こうにたたずむひとかげが、光に照らされてぼんやりとかび上がった。

 それがだれなのか。認めた彼は、切なさを帯びたように目を細め、そっと呼びかけた。

「………わか

 仄白く燃え上がる、あれはほのおだ。熱さは感じないが、ゆらゆらとおどる炎が、自分たちをへだてている。

『……あなた…』

 ずっと昔に絶えてしまったはずのその声は、おくにあるものと寸分たがわなかった。

 彼はけ寄りたいしようどうこらえた。あの炎は境界だ。ここから一歩でも動けば、彼女は消えてしまうだろう。

 そんな確信が、彼にあった。

 炎の向こうで、若菜が悲しげに顔を歪ませる。

『ああ…私に力が足りなかったから。あの子をかえすためにぜんれいを注いだのに、足りなかったから…』

 え切れなくなったように顔を両の手でおおい、若菜はすすり泣いた。

『ごめんなさい……。あの子を還すために、あの子が大切にしているものを、渡さなければならなかった』

 それは、あの子が必要としているもの。絶対に、失ってはならなかったもの。

 深く悲しい願いのために、引きえられるはずだった命。だが彼女は、その命を還してくれた。彼女の持つ力のすべてをめて。

 しかし、やはり、だいしようはらわなければならなかったのだ。

 彼は、めいもくして首を振った。

「いいや、お前はよくやってくれたよ……」

 まぶたを上げれば、仄白い炎の中に小さな影が横たわっている。

 彼は気がついた。この炎は、自分たちを隔てているのではない。横たわる小さな子どもを包み込んで、じよじよに焼きくそうとしているのだ。

 手をのばして炎にかざす。熱くはない。むしろ冷たい。てつくほどに。

 この冷たさが、この子を連れて行ってしまう。

『あの子がちてしまったら、それは私の力が足りなかったからです。ごめんなさい、ごめんなさい…』

 なみだふるえる声は、昔とまったく変わらない。

 ──あやかしがいるのです。かまどの前にじんって、動いてくれなくて…

 怖くて近寄れないからゆうたくができないと言って、泣いていた。神将たちを置いておきたくても、彼らが発する神気が怖いという。人外のものが放つ強すぎる霊気もさることながら、人のようでいて決して人ではないその姿がおそろしいのだと。

 悪気がないことはみなが承知していたから、配下の神将たちは困った顔はしてもおこることはなかった。人外の異形は、『おに』とひとくくりにされることもある。人から見たら自分たちは『鬼』なのだからと。

『あまり長くは話せない。必死にお願いをして、一度だけと許してもらったの』

 許してもらった、とは。

 問うような視線を受けて、彼女は涙にれた目で僅かに微笑ほほえんだ。

『本当は、いけないことなのだそうです。でも、情のわかる方だから、願いを聞き届けてくださった』

「それは……」

『川の向こうのめいの、かんです。わたらずに川岸にとどまりたいという願いを聞いてくださった方』

 冥府のごくそつは恐ろしい鬼の姿で、はぐれた死者のたましい彷徨さまよっていないか常に目を光らせている。本当は、病で命を落としたあのときに、彼女も川を渡らなければならなかった。

 明かりひとつない、誰ひとりいない、暗くさびしい川のそばで、彼女は立ち尽くした。

 あちらに渡ってしまったら、きっともうあの人に会えない。置いてきてしまった。せめて待っていなければ、あの人はきっと悲しんで寂しんで。───とてもとても怒るだろう。

 少しずつ冷たくなっていく彼女の手をとって、彼がまたたくこともせずに自分の顔を見つめていたのを覚えている。固く引き結ばれたくちびるは色を失いかすかに震えていた。少しずつりんかくのぼやけていく彼女の目は、彼のほおに一筋の涙が伝ったのを確かに見たのだ。

 そのときに、心を決めた。何があっても絶対に、この人を待っていようと。たとえ冥界の門を守る番人にとがめられても、恐ろしい形相の役人に責め立てられても、私は川を渡らない。

 しかし、規則どおりに冥府の獄卒は彼女をさせ、冥府に送ろうとした。

 それをはばみ、彼女の願いを聞き届けてくれたのが、ただひとり、人の姿をしていた冥府の官吏だ。

『その強情さが気に入った。上層部うえと獄卒たちにも言い渡しておいてやろう。気がすむまでここで待てばいい』

 そして、ひとりきりでいるのは退たいくつだろうと、時折川のみなに映る家族たちの姿を見守ることさえも許してくれたのだ。

『だから、あの子が悲しい決意をして、川べりにやってくることも知りました。私は、あの子をどうしても助けたかった』

 官吏が許してくれたのは、川べりで待つことだけだ。代わりに彼女は、愛する者たちのもとに死者の魂が還れる年のにも、動くことを許されない身となった。

 あるいは、あの暗く寂しいところに立ち止まり、しばりつけられていることが、彼女に科せられたばつなのかもしれない。死者の条理を曲げた彼女への。

 そのことに思い当たり、せいめいは眉をくもらせた。すると、それを見た彼女はますます目許を細める。

『それが私の選んだことだから、心配はしないで。………でもね、ひとつだけ、言ってもいいなら』

 笑おうと努力しているいとしい顔が、くしゃくしゃにゆがむ。

『見回りにくる獄卒の顔が、こわくて。暗い中にひとりでいると、彼らが近寄ってくるだけで怖くて怖くて、涙が出てくるの…』

 彼らはただひとりで川べりにいる彼女に危険がないよう、わざわざ足をのばしてくれているのだ。それを彼女は知っている。だが、あの暗闇の中で、水のせせらぎしか聞こえないせいじやくの中で、重い足音がひびくとどうしようもなく身がすくむ。

 赤子の頃に死に別れた息子むすこの、最後の子どもが冥府に向かう。それを知って、彼女は冥府の官吏にこんがんした。

 お願いです。あの子をうつしへ還してください。あの子が冥府の住人になってしまったら、私のあの人が悲しむことになる。あの子はまだ十三年しか生きていない。これからたくさんのことを見聞きして、きっと人の世の役に立つでしょう。

 確かに、これはあの子が決めたことです。でも、心の底から望んでいたわけでは決してない。あの子は。

 あの子はただ、大切なものを守りたかっただけなのです─────。

 晴明は目を閉じた。あの子の決意を聞いた夜。あの子の願いを聞いた夜のことを、思い出す。

 そして、あの子がどれほど深く、強く、悲しい決断をしたのかを。

 白く冷たい炎の中に横たわる、まだまだ成長しきっていない子ども。

 若菜はその子を見つめ、はらはらと涙をこぼした。

『本当は…何も失わせずに還してあげたかった。けれども、冥府の官吏がそれはできぬとおつしやって……』

 命は、現世に還してやろう。だが、ただではできない。必要なものは代償だ。

 命を還す代わりに、命の次にその子どもが必要としているものを、ここへ置いてゆけ。それをお前に預けておこう。決して、還してはならない。どれほど心がれても、それをすればお前の魂は八大ごくのいずれかに堕ちる。それだけではない、お前の咎を、お前が待っている男にも背負わせる。

 それが、条理を曲げるお前たちに科せられた罰だ────。

 晴明はかぶりった。

「なんという……」

 言葉を失う晴明に、だが彼女はおだやかなまなしを向けた。

こくはくな、非道なと、お思いですか? いいえ、いいえ、あの方は情けをかけてくださったのです。でなければ、完全に命を絶たれたあの子が息をき返すことなど、できようはずがない』

 たとえ、魂そのものが消え去ってしまうほどの力を込めても、若菜だけではあの子を現世に還すことはできなかったのだから。そして、命の代わりのものを支払った。

 けれども。

『あの子がこれから歩む道から、光が失われてしまった。あの子はさぐりで進んでいかなければならない。それが………』

 ほのおの中にねむる子ども。その炎が子どもの心を焼き尽くし、完全なやみの中に取り込んでしまう。

 燃え上がる炎に手をかざし、晴明は妻と末孫をこうに見つめた。

だいじようだ。……この子はそれほど弱くはない。私もついている。だから……だから、もう、泣くな」

 ──大丈夫だ、ほら、妖ははらったから。もう入ってくるなと言いふくめておいた。そう、それに、やしきの周りに禁厭まじないをしておこう。怖いものが入ってこないように。だから…

 もう、泣くな。

 ずいぶんと昔のおくが、彼女の心にかんで消えた。なつかしくて切なくて、彼女は泣き笑いを浮かべる。

 自分勝手で、不器用で、言葉を選ぶのがへたで。──だれよりも優しく情の深い人。

 そんな人だから、待ちつづけていられた。

 若菜は涙をぬぐった。

『こんなことを言ったら、あなたは怒るかもしれないけれど…』

 目をしばたたかせる晴明に、彼女はほんの少しうれしげに微笑んだ。

『決して会うことなどできないはずのこの子に会えて、きしめることができて、私は嬉しかった。……ごめんなさい。でも、本当に嬉しかったの』

 闇の中でもまったく平気なふりをして見せるほど。

 本当は、あなたのことをたくさんたくさん聞きたかったけれど、それもまんして。気を張りすぎて、あの子をかえしたあとで力がけて動けなくなってしまったくらいに。

 冷たい炎は変わらずに燃えさかり、彼らの愛する子どもはその中でじわじわと焼かれている。

 それは、げんえいなどではなく、予兆なのだと、晴明はいまさらながらに気がついた。

 晴明の表情からそれを見て取った若菜は、ほっとしたように息をつく。

 彼女は、まさひろのことを知らせるために、死者の条理を曲げて、めいかんに懇願し、晴明の許をおとずれたのだ。

『私はもうもどらなければ』

「暗くて静かなところにか?」

『ええ。あなた…、晴明様』

 名残なごりしげに夫の名を呼んで、彼女は目を閉じた。

『私は勝手にあなたを待っているだけ。暗くて静かな寂しいところだけれど、勝手に待っているだけよ、だから…』

 彼女の言わんとするところを理解して、晴明はうすく笑った。

「勝手に先にいって、勝手に待っているのか。本当に、お前は変わらない」

 そして、そのすべてがいとおしい。

 せめて、そのかみにでもいいかられたいと思った。しかしそれは許されない。彼らは境界のはざにいる。たがいの領域をおかしてしまえば、このおうを許してくれた冥府の官吏を裏切ることになる。

 じよじよに消えせていく白い炎の中に横たわる、一度命を絶った子ども。そして、そのおかげで、消失するはずだったたましいのさだめをくつがえした神将。

 炎が消えて、辺りは完全な闇に戻る。

 静寂の中で、晴明はひっそりとつぶやいた。

「……すまない。もう少しの間、私はそちらへは行けそうもないよ……」

 命の代わりに、命の次に必要なものを、あの子は失った。

 それが、条理を曲げてしまったことに対するあがないなのだと。

 それほどのものを失っても。

「お前は本当に、取り戻したかったんだな…」

 そのおもいは、彼とて同じだったけれども。






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