3
◆ ◆ ◆
子どもたちを置いたまま、妻が戻らない。
昼間に遊びに出たきり、
その
少女は数えで六つだ。誤って海に落ちてしまったのかもしれない。
郷の女たちや長老たちが、
近づいてはならないといわれている
接近した男たちは、そこにあったはずの祠が
「ど、どうしてこんな…?」
倒れているふたりは動かない。もしやと青くなって
ほっと息をついて、ひとりが少女を抱え、ひとりが女を背負う。
「おい、どうした?」
男は
「……ここに、
彼は幼い時分に言いつけを破って祠に近づき、原因不明の病に
祠は見る
それに、あれほど
ひとりが
「急げよ、早く運ばないと、
「あ、ああ…」
男は仕方なく身を翻し、先にいってしまった仲間たちを追った。
壊れた祠の残骸の下には、真っ二つに割れた白い石が
「……やれやれ。大分骨が折れた」
「ちょうどいい
闇の中に、
「そうすれば、姿を消している
闇が打ち
◆ ◆ ◆
夜は、好きではない。
火を落とした
昌浩は
闇に慣れた目でも、ここまで暗いと
神将たちは、夜は常に
目を閉じると、
ふいに、風が動いた。
反射的に視線を投じると、
視線に気づいて、物の怪は険しい表情を返してきた。
「何か用か」
冷たい、
──ん? どうかしたか?
耳の奥で、
何も言わない昌浩の意味ありげな視線に
「
どくんと、心臓が
「ごめん、そんなつもりじゃ…」
物の怪は身を翻すと、また外に出て行った。
物の怪の
どんなに寒い冬の晩でも、大して
時には後ろ足で立ち上がって昌浩を見上げて、あの紅い目が
──うーん、あまり寒いと
昌浩は目を閉じて、頭まで袿をかぶった。袿の下で
これが自分の選んだ結果だ。
あの白い物の怪が近くにいて、ほとんど言葉を
晴明の命令だから、物の怪はここにいる。それでもいいのだと毎晩自分に言い聞かせ、夜だけ近くにやってくる物の怪の姿を見て、それで自分は
夜だけなのは、ほかの神将たちが自分のそばから離れるからだ。厳密には神将たちは近くにいるのだろう。護衛なのだから、完全に離れることはない。姿を隠す、それだけだ。
だが物の怪は、神将たちが昌浩のそばにいるときは決して近寄ってこない。護衛は別にいるから、自分が
最近、気づいた。十二神将の太陰は、物の怪が近くにいるとぎこちなくなる。怯えてすくんでいるのだ。物の怪が離れるか姿を消すと、ほっとしたように肩の力を
「────眠れないのか」
昌浩ははっとして、そろそろと袿から顔を出した。
先ほど物の怪が出て行った板戸は、少し開いたままだ。その隙間から月影が
肩の辺りで切りそろえられた
昌浩はのろのろと身を起こした。
「うん…。夢、見るから」
わざわざ姿を見せて声をかけてきた。六合だったら
いままであまり顔を見たことのない神将だったが、この半月で大分
勾陣は、
神将だから、ひと、という表現はおかしいのかもしれないが。
筵と袿だけであつらえた
「冷えるといけない、かけていろ」
同じようにして自分を
胸が痛い。
自分が何かを言うのを待っている。そんな感じがして、昌浩はためらいがちに口を開く。
「………太陰が、
「そうか」
「感づかせないように努めてるけど、玄武もそういうところがあるみたいだ。……六合とか勾陣は、そんなことないみたいだね」
「六合は昔からああだからな。誰に対しても、態度はさして変わらない。あれが奴の性情だから。……ごく
「そうなんだ」
大した意味も考えず、昌浩は
「私は…そうだな、別に
「怖い?」
顔を上げる昌浩に、勾陣はそうだとつづけた。
「太陰が怯えるのは、騰蛇が怖いからだ。昔から、太陰はひとりでは騰蛇のそばに近づくことすらしなかった」
「どうして?」
騰蛇が怖いと思ったことなど、昌浩には一度もない。確かに、いまの騰蛇は切り口上にも似た
彼の疑問を読み取ったのか、勾陣は首を
「晴明やお前が変わり者なんだ。
「……………」
瞬くことも忘れて、昌浩は勾陣を見つめた。
知らない。そんな騰蛇は、自分は知らない。
彼女の形良い唇が動く。
「それが、我々のよく知る騰蛇だ。……だから、いまのあれを見ていても実につまらないな。私は情のない男は好きではない」
平静に
そんな騰蛇に手を差しのべた人間は、まったく
「……騰蛇は…じい様のところに帰りたいのかな」
かすれ気味の声音は、昌浩の心情をそのまま表している。
勾陣は昌浩を横目で
「………たぶん、な」
昌浩の心臓が、どくんと
わかっていたことだ。
再びもぐりこんだ
騰蛇がここにいるのは、それが彼の義務だからだ。
都から遠く
勾陣の語った騰蛇が真実ならば、いままで自分が見てきた「
紅蓮は本当にいたのだろうか。自分の知っている紅蓮は、やはりもうどこにもいないのか。
自分の知らない騰蛇。冷たい目をした、白い物の怪。
「…………」
なら、あの姿をもうしなければいいのに。
騰蛇の
そうすれば、自分の心にほんの少しだけある希望にすがらなくてすむ。
そんなことは絶対にないのだとわかっているのに、捨てられない希望。
──どうした、昌浩や
座っている自分の顔を、
──心配事かー? どれどれ、この俺様が聞いてやろう……
袿を握る指先にぐっと力を
「……忘れろ…」
そんなことは、もうありえない。だってあれは、いま近くにいる騰蛇は、昌浩の知らない騰蛇だ。
昌浩のことを知らない騰蛇。昌浩という子どもの存在を
それこそが、昌浩自身が望んだことではないか。
かえってきたときに、悲しまずにすむように。苦しまずにすむように。その原因を、すべて忘れてしまえばいい。
そう願って、あのとき昌浩は、
閉じた
「……
流るる水の
まるで、手のひらからこぼれる水。さながら、すくった指の間から落ちる砂。
忘れていいよと願った。俺が覚えてるから、忘れていいよと。
それはきっと、本当はとても身勝手な願いで、紅蓮の心の一部をえぐるのに等しい
命と引き
こうやって、一生自分は苦しんで苦しんで。
けれど、幾つもの夜の中、夢の果てで、必ず同じ
それでも、どうしても、失うことは
ほとんど
板戸を開けた太陰がむっと
「
「ちょっと、ちゃんと
「熊肉はどうかと思うぞ、せめて
すると太陰は苦虫を
「兎とか雉とか鶉なんて、標的としては小さいんだもの。空振りする率が高いのよ」
それで
しかし
太陰の
太陰と並ぶと親子のような白虎の姿を思い返し、玄武はなにやらしきりに頷く。
そんなふうに
そして、そんなふたりの台詞を昌浩が引き
猪もすごかったが、鹿や熊まで持ってこられたら、どうしようか。
無言になっている昌浩の様子には気づかず、太陰は
「晴明のときは真冬で苦労したのよね。すぐ動かすわけにもいかないし。
「へ、へぇ…」
とりあえず
「これが秋だったら木の実だって採り放題で楽だったんだけど。あ、せっかくだから川魚獲ってこようかしら。筑陽川にいくらでもいそうだし」
いい思いつきだと言わんばかりに手を叩き、太陰は玄武に同意を求める。
「ねえ玄武、それだったらいいと思わない? いっそ海まで足をのばしたっていいわ、風でひとっ飛びだもの」
「うむ、それはいい考えだ。たまには変わったものがいいだろう」
重々しく
「ちょっと行ってくるわ。だから昌浩、おとなしくして待ってるのよ。昨日みたいに外に出てたりしないのよ、そんな顔してるんだから」
びしっと指を差されて、昌浩は
「うん、わかった」
それを見届けて、太陰は玄武を半ば引きずり、
昌浩はほうと息をついた。
太陰や玄武は、あれで昌浩を
板戸を完全に開いて縁に
ぼんやりと空を見上げていると、背後で
ふと、長布の下、
「………六合」
よいしょと腰をひねって顔を向ける。応じるように
「その……胸の紅いの、なに?」
「────預かりものだ」
いつものように
あずかりもの、と口の中で
「そか」
そうして、思い当たる。考えてみたら自分は、事の
祖父や神将たちは、
化け物に追われて深い傷を負った
あとで、ちゃんと聞かせてもらおう。知らないままでいてはいけない。それに。
「─────」
ふいに、昌浩は目を見開いた。重い
じい様に、謝らなきゃ。
ひどいことを
視界のすみに白い
無言で責められているようだ。胃がきりきりと
「昌浩?」
一瞬
「…なんでも…ない…」
気配が近づいてくる。昌浩のすぐ
「……まるで月だな。見えても決して近寄れない」
ほとほと
「ああいう態度を取られると、やはり腹が立つな……」
「熱はないようだが、顔色が悪いな。横になるか?」
「や…、
無理に作った
「あの、
彼女は不服そうに目を細めたが、昌浩に付き合うことにしてくれたようだ。本格的に腰を落ちつけて、昌浩と同じように外を見る。ふたりの背後には六合が
勾陣は昌浩から視線をはずし、庵の周囲に生えている
「ある程度は昔の姿に
「犠牲…」
反復する昌浩の
「私もお前と同行していたから、
昌浩の眉が
「まだしばらくこちらに
ごくりと
思わず
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