◆ ◆ ◆


 子どもたちを置いたまま、妻が戻らない。

 昼間に遊びに出たきり、むすめの姿が見当たらない。

 そのうつたえを聞いて、近隣のさとびとたちが郷の周囲にそうさくに出たのは日が暮れて空が暗くなってからだった。

 松明たいまつを手にした郷の男たちが、数人ごとに連れ立って海や山に向かう。

 少女は数えで六つだ。誤って海に落ちてしまったのかもしれない。

 郷の女たちや長老たちが、しようそうでやつれた母親をなだめ、不安でわけもわからずに泣いている幼い兄弟をあやす中、男たちはほどなくふたりの姿を発見した。

 近づいてはならないといわれているほこらのそばに、ふたりはたおれていた。できることなら祠に近づくのはけたいところだったが、そういうわけにはいかない。

 接近した男たちは、そこにあったはずの祠がくずれ落ちているのを見て息をんだ。

「ど、どうしてこんな…?」

 倒れているふたりは動かない。もしやと青くなってき起こすと、呼吸はしていた。ふたりとも、気を失っているだけのようだ。

 ほっと息をついて、ひとりが少女を抱え、ひとりが女を背負う。きびすを返したふたりは、最後のひとりが祠のざんがいの前に立ちすくんだまま動かないのに気がついた。

「おい、どうした?」

 男はおびえた様子で辺りを見回している。

「……ここに、まつられていたはずのものは、どうしたんだろう」

 彼は幼い時分に言いつけを破って祠に近づき、原因不明の病におそわれたことがあった。

 祠は見るかげもなくこわれて、れきが残っているばかりだ。わたせば、木ごうとびらが割れてっ飛んでいる。──まるで、内側から壊されたように。

 それに、あれほどこわいと思っていた場所なのに、あまりきようを感じない。祠がなくなってしまったからだろうか。

 ひとりがいらちをあらわにした。

「急げよ、早く運ばないと、おくれになるかもしれないだろう!」

「あ、ああ…」

 男は仕方なく身を翻し、先にいってしまった仲間たちを追った。

 壊れた祠の残骸の下には、真っ二つに割れた白い石がもれている。

 だれもいなくなったはずのその場所に、人影が生じた。音もなくそれが現れたたん、風がふつりとやむ。

 みようせいじやくが辺りを包み込んだ。

「……やれやれ。大分骨が折れた」

 やみかくれた人影が、ひっそりと呟く。

「ちょうどいいこまがいてよかった。あとは、放たれたあやかしが暴れるのを待てばいい」

 闇の中に、わらう気配がただよう。

「そうすれば、姿を消しているやつも、出てこざるを得ないはず……」

 闇が打ちふるえる。ひそやかにしようひびいて、ふつりと消えた。


  ◆ ◆ ◆


 夜は、好きではない。

 ねむれば夢を見る。目覚めたときにその夢を忘れていられればいいが、覚えていることのほうが多いからだ。夢を見たくないから、十二神将たちには気づかれないよう朝まで眠ったふりをして、日中うとうとすることもある。が、それだけではすいみんが不充分で体がついていかないから、やはり夜に眠らなければならない。そして眠ればまた夢を見る。そのり返しだ。

 火を落としたから、少しだけぬくもりが漂い出てくる。火種の炭が灰の下にもぐっているからだ。

 昌浩はむしろに横になってうちぎをかけている。この袿は自分のものだ。太陰が持ってきたという。まだまだ夜は冷えるから、袿をかたまでかけて、昌浩はがえりを打った。

 闇に慣れた目でも、ここまで暗いとりんかくもわからない。小さな庵だから、えんにつづく板戸のほかには窓らしきものはひとつだけだ。

 神将たちは、夜は常におんぎようしている。気配も感じないから、もしかしたら異界にもどっているのかもしれないと思うときもある。

 目を閉じると、ごくさいしきの光景がのうめぐる。ほのおの赤と、白と。闇のほとりで出会った人のおもかげと。

 ふいに、風が動いた。

 反射的に視線を投じると、はなれた場所に白い物の怪がいた。いままで気配を感じなかったから、音もなく動かした板戸のすきからすべり込んできたのだろう。

 視線に気づいて、物の怪は険しい表情を返してきた。

「何か用か」

 冷たい、かたこわだ。

 ──ん? どうかしたか?

 耳の奥で、ちがう声音の同じ声がよみがえる。昌浩はまぶたを震わせた。

 何も言わない昌浩の意味ありげな視線にれたのか、物の怪は冷え冷えとき捨てた。

ざわりだ」

 どくんと、心臓がねる。昌浩はあわててびた。

「ごめん、そんなつもりじゃ…」

 物の怪は身を翻すと、また外に出て行った。

 物の怪のほんしようは十二神将騰蛇だ。だから、冷え込む夜の外気にも大したえいきようは受けないのだろう。

 どんなに寒い冬の晩でも、大してこたえる様子もなくぽてぽてと歩いていた姿が脳裏をよぎった。

 時には後ろ足で立ち上がって昌浩を見上げて、あの紅い目がまたたいた。

 ──うーん、あまり寒いと風邪かぜを引くからなぁ。もっと厚着したほうがよさそうだがなぁ

 昌浩は目を閉じて、頭まで袿をかぶった。袿の下でひざかかえるようにして体を丸くする。

 くちびるを引き結んでじっと身を硬くして、昌浩はこみ上げてくるものをおさえ込んだ。

 これが自分の選んだ結果だ。

 あの白い物の怪が近くにいて、ほとんど言葉をわせなくても、生きている。

 晴明の命令だから、物の怪はここにいる。それでもいいのだと毎晩自分に言い聞かせ、夜だけ近くにやってくる物の怪の姿を見て、それで自分はあんする。

 夜だけなのは、ほかの神将たちが自分のそばから離れるからだ。厳密には神将たちは近くにいるのだろう。護衛なのだから、完全に離れることはない。姿を隠す、それだけだ。

 だが物の怪は、神将たちが昌浩のそばにいるときは決して近寄ってこない。護衛は別にいるから、自分がかたわらにいる必要はない、そう考えているのかもしれない。

 最近、気づいた。十二神将の太陰は、物の怪が近くにいるとぎこちなくなる。怯えてすくんでいるのだ。物の怪が離れるか姿を消すと、ほっとしたように肩の力をく。

「────眠れないのか」

 とうとつに響いたのは、落ちついた低めの声だ。

 昌浩ははっとして、そろそろと袿から顔を出した。

 先ほど物の怪が出て行った板戸は、少し開いたままだ。その隙間から月影がして、板戸のそばにのばした足を交差させてこしを下ろしている勾陣の顔が、半分だけ見えた。それまでもずっとそこにいたのか。

 肩の辺りで切りそろえられたくろかみが、隙間から吹き込む風に遊ばれてれる。きらめくすずやかなひとみが昌浩をまっすぐえて、夜のみなによく似た静けさをたたえていた。

 昌浩はのろのろと身を起こした。

「うん…。夢、見るから」

 わざわざ姿を見せて声をかけてきた。六合だったらちんもくしたままだろうし、玄武や太陰だったら言葉を探しあぐねて、やはり沈黙するだろう。

 いままであまり顔を見たことのない神将だったが、この半月で大分んで、その性格もわかってきた。

 勾陣は、ちゆうではなく一歩引いたところで大局を見定めようとする。せんとう時にはれつな通力をあやつる闘将だが、それ以外では沈着でたよりになる。常に一歩引いてめつに自分の意思を表さない六合と違い、意見があるときにははっきりとそれを示す。だが、言葉を選ぶのがうまいので、すんなりとそれを聞くことができる。そういうひとだ。

 神将だから、ひと、という表現はおかしいのかもしれないが。

 筵と袿だけであつらえたまつとこから抜け出して、昌浩は勾陣のそばに座り込む。

「冷えるといけない、かけていろ」

 かけ代わりの袿を引き寄せて、昌浩の肩に着せかけてくれる。

 同じようにして自分をづかう物の怪を思い出した。

 胸が痛い。

 ゆかに落ちるつきかげの線をはさんで、勾陣と昌浩はしばらくだまっていた。

 自分が何かを言うのを待っている。そんな感じがして、昌浩はためらいがちに口を開く。

「………太陰が、おびえてるように見える」

 まばたきをして、勾陣はわずかに目を細めた。

「そうか」

「感づかせないように努めてるけど、玄武もそういうところがあるみたいだ。……六合とか勾陣は、そんなことないみたいだね」

「六合は昔からああだからな。誰に対しても、態度はさして変わらない。あれが奴の性情だから。……ごくまれに、例外もあるが」

「そうなんだ」

 大した意味も考えず、昌浩はうなずいた。祖父に対しては多少違う態度をとったりするのかもしれない。なんといっても十二神将を従える大おんみようだ。

「私は…そうだな、別にこわくはないからな」

「怖い?」

 顔を上げる昌浩に、勾陣はそうだとつづけた。

「太陰が怯えるのは、騰蛇が怖いからだ。昔から、太陰はひとりでは騰蛇のそばに近づくことすらしなかった」

「どうして?」

 騰蛇が怖いと思ったことなど、昌浩には一度もない。確かに、いまの騰蛇は切り口上にも似たれいたんな口調で、感情の読み取れない目で、常にきよを置いている。だが、それだけのはず。

 彼の疑問を読み取ったのか、勾陣は首をかたむけた。しなやかなうでを胸の前で組んで、うすく笑う。

「晴明やお前が変わり者なんだ。ただびとはあの神気におそれをなす。苛烈でえいれいてつで、向こうから歩み寄ることは決してしないし、ろくに話をしようともしない。常に背を向けられて、きよぜつされている感じだといえば理解しやすいか」

「……………」

 瞬くことも忘れて、昌浩は勾陣を見つめた。

 知らない。そんな騰蛇は、自分は知らない。

 彼女の形良い唇が動く。

「それが、我々のよく知る騰蛇だ。……だから、いまのあれを見ていても実につまらないな。私は情のない男は好きではない」

 平静にひびくその台詞せりふじやつかん混じった不満げな声音は、残念ながら昌浩には感じ取れなかった。

 どうほうである十二神将にすらきらわれるさいきようの火将。その身にまとうのはれんごくの炎。つかさどるのはすべてを焼きくす地獄のごう

 そんな騰蛇に手を差しのべた人間は、まったくちがう名前をあたえた若き日の安倍晴明ただひとりだ。その名を騰蛇は、「ゆいいつの至宝」だと言った。

「……騰蛇は…じい様のところに帰りたいのかな」

 かすれ気味の声音は、昌浩の心情をそのまま表している。

 勾陣は昌浩を横目でいちべつした。うつむき、膝の上で両の手のひらをにぎめている。一条の月影だけが光源で、室内はやみの領域に満ちている。だが、彼の握り締めたこぶしが白いのは、月影が届かないからだけではないだろう。

 せいじやくの中、低い声がたんたんとつづった。

「………たぶん、な」

 昌浩の心臓が、どくんとね上がった。




 わかっていたことだ。

 再びもぐりこんだしんの中で、昌浩は目を閉じたまままんじりともできずにいた。

 騰蛇がここにいるのは、それが彼の義務だからだ。

 都から遠くはなれた出雲の地にいるのも、他の神将たちとともに行動しているのも、けんの力もない子どものそばにいるのも、すべては安倍晴明がくだした命令だと、彼が思っているからだ。それほどまでに、晴明という存在は騰蛇の中で大きく重い。

 勾陣の語った騰蛇が真実ならば、いままで自分が見てきた「れん」はいったいなんだったのだろう。

 紅蓮は本当にいたのだろうか。自分の知っている紅蓮は、やはりもうどこにもいないのか。

 自分の知らない騰蛇。冷たい目をした、白い物の怪。

 うちぎに顔をうずめるようにして、体勢を変える。幼な子のように体を丸くして、かたく目をつぶった。

「…………」

 なら、あの姿をもうしなければいいのに。

 騰蛇のほんしように立ちもどって、六合たちのようにおんぎようしていればいいのに。

 そうすれば、自分の心にほんの少しだけある希望にすがらなくてすむ。

 そんなことは絶対にないのだとわかっているのに、捨てられない希望。

 ──どうした、昌浩や

 座っている自分の顔を、のぞくようにして首を傾ける姿。またたく夕焼けの瞳がおだやかに笑う。ひょんひょんと揺れる白いで背中をぺしぺしとたたいてきて、もとがさらになごんで、あの声が言うのだ。

 ──心配事かー? どれどれ、この俺様が聞いてやろう……

 袿を握る指先にぐっと力をめた。

「……忘れろ…」

 そんなことは、もうありえない。だってあれは、いま近くにいる騰蛇は、昌浩の知らない騰蛇だ。

 昌浩のことを知らない騰蛇。昌浩という子どもの存在をき消した騰蛇。

 それこそが、昌浩自身が望んだことではないか。

 かえってきたときに、悲しまずにすむように。苦しまずにすむように。その原因を、すべて忘れてしまえばいい。

 そう願って、あのとき昌浩は、ぼうきやくじゆもんを唱えた───。

 閉じたまぶたが熱い。それに気づかぬふりをして、昌浩は小さくつぶやいた。

「……しき夢…いくたび見ても身に負わじ…」

 流るる水のよどまぬごとく。

 まるで、手のひらからこぼれる水。さながら、すくった指の間から落ちる砂。

 忘れていいよと願った。俺が覚えてるから、忘れていいよと。

 それはきっと、本当はとても身勝手な願いで、紅蓮の心の一部をえぐるのに等しいこうだった。だから、いまこんなに苦しくてやりきれないのはきっと、自我を押し通した自分へのばつだ。

 命と引きえに、あのやさしい神将を取り戻したかった。なのに自分は戻ってきてしまった。えなくなったことだけでは、そのあがないにはきっと足りない。

 こうやって、一生自分は苦しんで苦しんで。

 けれど、幾つもの夜の中、夢の果てで、必ず同じせんたくをするだろう。

 それでも、どうしても、失うことはいやだったのだから。




 ほとんどいつすいもできずにおとずれた朝は、昌浩の心を映したように厚い雲におおわれていた。

 板戸を開けた太陰がむっとまゆを寄せている。

さないと、気温が上がらないのよね。変な湿しつもこもるし。やになっちゃう」

 り返った太陰は、起き上がった昌浩の顔を見てさらに険しい顔をした。

「ちょっと、ちゃんとたの? 青い顔してるし、精気ももどっかに落っことしてきたみたいじゃない。いのししじゃ元気になれないなら、鹿しかでもくまでもってくるわよ?」

「熊肉はどうかと思うぞ、せめてうさぎにしておけ。きじうずらでも構わんが」

 すると太陰は苦虫をんだような顔になった。不思議に思った玄武が視線を向けると、彼女は歯切れの悪い口調で言う。

「兎とか雉とか鶉なんて、標的としては小さいんだもの。空振りする率が高いのよ」

 それできんりんの木々をたおすわけだ。

 しかしけんめいな玄武はそのあたりをあえて追及することはなく、ならば鹿にしろとだけ告げた。

 太陰のわざは総じて力技なので、細かいことには向かないのだ。その点、たいのがっしりとしたおおがらびやつは太陰の苦手をすべて得意としている。うまく補い合っているのだ。

 太陰と並ぶと親子のような白虎の姿を思い返し、玄武はなにやらしきりに頷く。

 そんなふうに他人ひとごとのように考えている玄武だが、彼とて白虎と並ぶとまるで親子なのだ。第三者の立場でないとその実感はわかないらしい。

 そして、そんなふたりの台詞を昌浩が引きった顔で聞いている。

 猪もすごかったが、鹿や熊まで持ってこられたら、どうしようか。

 無言になっている昌浩の様子には気づかず、太陰はうでみをした。

「晴明のときは真冬で苦労したのよね。すぐ動かすわけにもいかないし。ものはろくにいないし、雪で野草なんかもかくれちゃって。仕方ないから雪上をける兎を追い回したり、適当な鳥を叩き落としたり」

「へ、へぇ…」

 とりあえずあいづちを打つ昌浩である。

「これが秋だったら木の実だって採り放題で楽だったんだけど。あ、せっかくだから川魚獲ってこようかしら。筑陽川にいくらでもいそうだし」

 いい思いつきだと言わんばかりに手を叩き、太陰は玄武に同意を求める。

「ねえ玄武、それだったらいいと思わない? いっそ海まで足をのばしたっていいわ、風でひとっ飛びだもの」

「うむ、それはいい考えだ。たまには変わったものがいいだろう」

 重々しくうなずく玄武の腕をつかみ、太陰は昌浩を振り返った。

「ちょっと行ってくるわ。だから昌浩、おとなしくして待ってるのよ。昨日みたいに外に出てたりしないのよ、そんな顔してるんだから」

 びしっと指を差されて、昌浩はしよう気味に笑った。

「うん、わかった」

 それを見届けて、太陰は玄武を半ば引きずり、えんから外に飛び降りる。数歩駆ける間にぶわりと風が巻き起こり、ふたりの姿を包むといつしゆんたつまきに転じた。

 とつぷういおりき込んでくる。思わず昌浩が目を閉じて指の間から様子をうかがうと、すでにふたりの姿は消えていた。

 昌浩はほうと息をついた。

 にぎやかで、さわがしくて、いなくなるとたんに静かでさびしくなる。

 太陰や玄武は、あれで昌浩をづかはげまそうとしているのだ。こんなじようきようでなかったら、いくらなんでも鹿だの熊だのをるなどということは言わないだろうし、しないだろう。多分。

 板戸を完全に開いて縁にこしかけ、少し段差があって低い地面に足を投げ出す。

 くもり空なのでなんとなくうすぐらい。重く垂れ込めた雲はいまにも泣き出しそうに見えた。

 ぼんやりと空を見上げていると、背後できぬれがした。かたしに見やると、けんげんした六合の長布が視界に入る。

 ふと、長布の下、むなもとの辺りにあかいものが見えた気がした。なんだろう。

「………六合」

 よいしょと腰をひねって顔を向ける。応じるようにおうかつしよくひとみが動いた。反対側のかべぎわこうちんがいて、彼女はだまってことの成り行きを見ている。

「その……胸の紅いの、なに?」

「────預かりものだ」

 いつものようによくようのない口調だ。表情も変わらない。ただ、一瞬だけかんが生じた。

 あずかりもの、と口の中でり返して、昌浩は体勢を戻した。

「そか」

 そうして、思い当たる。考えてみたら自分は、事のてんまつをまともに聞いていなかった。祖父と別れて、黄泉よみたいして、そのあと。

 祖父や神将たちは、しきそうしゆとどうやって決着をつけたのだろう。

 化け物に追われて深い傷を負ったかざ。六合だけを残して、自分たちは宗主の許に向かった。急がなければならなかったから。

 あとで、ちゃんと聞かせてもらおう。知らないままでいてはいけない。それに。

「─────」

 ふいに、昌浩は目を見開いた。重いしようげきが胸をつらぬく。

 じい様に、謝らなきゃ。

 ひどいことをたのんだ。そんなことを言われて、祖父がどんなおもいをするか、考えないで。いや、ちがう。知っていた。わかっていたのに、目をらした。自分の願いをかなえたかったから。

 視界のすみに白いかげがかすめる。目だけを動かすと、物の怪が昌浩をぎようしていた。紅い瞳が無感動にこちらに向けられて、やがてついと逸らされた。

 無言で責められているようだ。胃がきりきりとめつけられる。

「昌浩?」

 一瞬ふるえた肩に気づいて、勾陣がしんげに問うてくる。昌浩は必死で平静をよそおった。

「…なんでも…ない…」

 気配が近づいてくる。昌浩のすぐかたわらで足を止めた勾陣は、身をひるがえした物の怪の姿を認めてそっと息をいた。

「……まるで月だな。見えても決して近寄れない」

 ほとほとあきれているような口ぶりだ。昌浩は自分より長身の勾陣を見上げる。

「ああいう態度を取られると、やはり腹が立つな……」

 けんにしわを寄せて、彼女は昌浩のとなりひざをつく。昌浩の顔をのぞき込むようにしてから額に手をのばし、難しい顔をした。

「熱はないようだが、顔色が悪いな。横になるか?」

「や…、だいじよう。ほんとに」

 無理に作ったみを、勾陣は深いまなしでじっと見返す。きよせいを看破されそうで、昌浩はあわてて話題を変えた。

「あの、道反ちがえしふういんは…聖域は、あのあとどうなったんだろうか」

 彼女は不服そうに目を細めたが、昌浩に付き合うことにしてくれたようだ。本格的に腰を落ちつけて、昌浩と同じように外を見る。ふたりの背後には六合がちんしているのだが、気配を完全に殺しているので、ともすればそれを忘れてしまう。

 勾陣は昌浩から視線をはずし、庵の周囲に生えている椿つばきに向けた。山椿の花のさかり。赤い小さな花弁が深緑の葉の中でほこっている。

「ある程度は昔の姿にもどったよ。……せいもあったがね」

「犠牲…」

 反復する昌浩のこわは低い。

「私もお前と同行していたから、くわしい話は晴明から聞かされた。すぐに聞きたいなら、玄武が戻るのを待って、水鏡で姿と声を届けてもらうことも可能だが?」

 昌浩の眉がね上がった。じい様と、直接対話。考えてもいなかった。

「まだしばらくこちらにたいざいしなければならないわけだから、それでも構わないだろう。どうする?」

 ごくりとのどを鳴らして、昌浩は視線を落ちつきなく彷徨さまよわせた。胸の奥が感情に合わせて全力しつそうをはじめる。

 思わずこぶしにぎり締めたとき、昌浩の背筋をひようかいすべり落ちた。






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