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◆ ◆ ◆
目を開けているのに、少女の目はどこも見てはいなかった。
「どうしたの? ねぇ、返事をしてちょうだい!」
一向に反応を見せない
だが、まるで人形のように首をがくがくと動かすだけで、
ひとりにさせるんじゃなかったと
あの
ずっとずっと昔、彼の祖父のさらに祖父が子どもだった頃、西方からの風に乗って現れた化け物がこの
何の力もない郷人には
ある夜を境に、化け物はぱたりと消え失せた。
代わりに、郷から
それ以来、あの祠には近づくな、
一方、祠の前で発見されたもうひとりの女は、一昼夜のちに目を覚ました。
傍らにいた子どもがふたり、
「かあちゃん、よかった…」
下の子どもが
「………母ちゃん…?」
何かが、変だ。
「母ちゃん?」
女は身を起こし、
「なんのこと?」
と、そこに、子どもたちの父親──女の夫が長老の許から戻ってきた。起き上がった妻の姿を見て、男もまたほっとしたように
「ああ、良かった。お前が目覚めなかったらどうしようと…」
筵の傍らに膝をついて
「なんなの? ここはどこ?」
「お前、何を言ってるんだ。お前のうちじゃないか」
男の言葉に、女は激しく
「
引き
「親元に帰してよ! きっと心配してるわ、母さんは心の臓が悪くて働けないのよ、あたしがいなかったら…」
ふらつきながらはだしのまま家から出て行こうとする母親に、幼い子どもが取りすがった。
「かあちゃん、どこいくの、いかないで…!」
女は子どもたちを力任せに振り払う。
妻の態度がおかしいことに気づいた男は、そろそろと近づきながら
「何を言ってるんだ。お前の
女はのろのろと首を振る。これ以上ないほど見開かれた
「噓よ。あの元気な父さんが病ですって? ……もしかして、あんたあたしをかどわかしてきたの? そうなのね!?」
「ばかなことを!」
声を
寄り
「知らない、こんな子ども知らない! あたしをうちに帰して……!」
◆ ◆ ◆
それは直感と呼ぶものだ。
一年近く前、何も見えず何も感じず、それがごく当たり前だった
はっと顔を上げ、昌浩ははだしのまま地面に飛び降りた。
数瞬
その様を、
「………ふむ」
気乗りしない表情で
さわりと、
「………
風に
ちらりと勾陣たちを
接近してくる異形の気配に
「あっちは…西?」
「ああ。やや北方よりだ」
「……速い」
まるで、
六合の
「───来た」
静かな呟きを
筑陽川の源流に近い場所で、太陰と玄武は流れの中を睨んでいた。
「………いた!」
太陰が指差し、玄武の神気が立ち
「おお、大量大量。さすがだわ玄武」
「岩魚は晴明の好物だったな」
都に
あれは多分、もともと
「昌浩も好きよ、晴明の孫だもの」
「そういう問題なのか?」
太陰はふんぞり返った。
「
やけに自信たっぷりに断言したが、その
大体、と玄武は胸中で独白した。生まれたときから晴明とともに暮らしていた晴明の長子
などということを実際に口にしようものなら
水にさらした草の
下流から、異様な気配が水面を
太陰は風で空に
彼らは筑陽川の源流から少しくだった
足をばたつかせて絡みついたものを振り払うようにしながら、太陰は玄武の
「……玄武」
「ああ」
獲った岩魚の束を下流めがけて高く投じる。と、それに
人面に似た顔がばくりと半分に
全身を黒い
金属を
「この…っ」
気合もろとも右手を
「太陰!」
非難がましい玄武の
「よくも昌浩の食料を───っ!」
怒りに任せて放たれた竜巻が、今度は見事に命中する。
形容できない
「
追おうとした太陰の
「待て!」
「きゃあ!」
がくんとのけぞった太陰を摑まえたまま、玄武は険しい表情で庵の方角を
「気配が…」
「え?」
玄武は太陰を解放すると身を翻した。
「いまのと、同じ…!」
彼女がたったいま撥ね飛ばした獣の気配。妖気と呼べるそれと同じものが、庵のほうから
玄武と太陰がその場から立ち去ると、白く
それきり獣は浮かんで来なかった。
物の怪は
彼の
夜色の長布が翻った。さばくようにして妖を払い
「………ちっ」
舌打ちして、物の怪は青い顔をしている子どもを
まるで対処ができていない。安倍の、晴明の血を受け
「昌浩、
勾陣と六合にかばわれながら、昌浩は
「う、ん。なんとか…」
気配が、目まぐるしく動いている。ひと時もじっとしていない。
音がする。四足が地を蹴り木々を
肌が
昌浩は
目が『
ずっと前に、
「昌浩!」
視界のすみで六合のふるう
一匹じゃない、複数いる…!?
音が、
勾陣の両眼がきらめいた。
「六合、昌浩を」
「まどろっこしい。
「払うのは構わないが、
耳障りな鳴号が山中に
「複数
「え?」
思わず聞き返す昌浩に、六合は答える。
「あの妖は一匹だ。あまりにも速すぎて、我々の目でも捉えきれていなかったらしい。
では、耳に聞こえていた幾つもの足音もそうなのか。
昌浩は額に手を当てた。これはまずい。視えないというだけでも
忘れていたことを思い出す。見鬼の才がないから、
感じられても、視えなければできることは
「なんという
音もなく、彼らの前に白い物の怪が
「それでも、あの晴明の孫か」
「………っ!」
息が、吸えない。胸の奥で心臓が大きく
六合が昌浩を振り返る。
「騰蛇?」
「
火勢が強まる。天を
炎にあおられた風が昌浩の
昌浩は立ちすくんでいた。騰蛇の背中を見つめたまま、一歩も動けない。
細かな
「昌浩っ!」
太陰の顔が見る間に強張った。すっと青ざめて、ともすれば足を引いてしまいそうになるのを、全力で押し
玄武がいささか
「……いま、
「ああ」
応じたのは勾陣で、騰蛇は玄武の問いかけを
ぴりぴりと空気が張り
それまでずっと
「………紅蓮…」
騰蛇の両眼が激しくきらめいた。彼を取り巻く風が刃の鋭さを持ち、ゆらりと
騰蛇は
「───なぜ、その名を知っている」
低く、
昌浩は答えられない。これほどの
その場にいる全員が息を
「お前
昌浩の心が、音を立てて凍りついた。
がくがくと
ただ、騰蛇の金の双眸だけが
やがて騰蛇は興味をなくしたようにふいと顔を
やや置いて、
「……昌浩っ」
ひどく
「
大人びた物言いで、心配げな響きが
目の奥が熱いのは、どうして。
昌浩の膝が力を失う。誰かの大きな手がくずおれそうな腕を支えて、それにすがることもせずに彼は、そのままかくりと座り込んだ。
視えない。見えない。視たいものはなに。見たいものはなに。
胸の奥で、大切な何かが
誰かが前に膝をつく。黒い瞳。これは誰。
音が聞こえない。風の音や、
──名前ってのは、ちゃんと意味のあるものだ。不用意に名乗ってはいけない
くらりと世界が
──あーあ、しっかりしてくれよ、晴明の孫…
名前を、教えてくれたのは。
大切だというその名を、
教えてくれたのは。
──お前に、俺の名を呼ぶ権利をやろう……
教えて、くれたのは─────。
昌浩と紅蓮、ふたりの運命やいかに……!?
続きは本編でお楽しみください。
少年陰陽師 真紅の空を翔けあがれ/結城光流 角川ビーンズ文庫 @beans
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