エピローグ

 だから僕は走っていた。

 

 夏の中。終業式の後に、彼女の転校が告げられたから。


 彼女の最後の一言。彼女はきっとあの神社にはずだから。


 自分は価値のない人間であると達観して、気付いていたはずの記憶から、あり得ないはずだと逃げ、いい子であれば、きっと元に戻るはずだと逃げの為の理想さえ抱いていた。さらには、彼女に完璧だから、優しいからと、憧憬を、押し付けていた。

 彼女は強いわけではなかった。ただ、僕を取り戻そうとしていただけだった。呪縛のような僕たち親子の僕の思い込んで引きずり続けた枷を解き放つために。いい子でいなければいけないという、命令が刷り込まれた人形が、それが幸せだと信じ込んだ人形が、柳井拓哉という人間としての息を吹き返すために、光を与え、温もりを与え、一輪の希望という花を咲かせて、解き放つ。


 そして、同時に高瀬涼香という彼女もまた、歪であったのだろう。僕に対する苦悩も、文化祭への思慮も、周囲との調和も、全てを一人で抱え込んで、一人だけの力だけで解決しようとしていた。彼女の向き合う、という考えも、ある意味で自分を信じるだけで、充実感を得られようとも、周囲を閉鎖的に捉えるものであった。

 そして、もし、思い出せてもらえなかったら、綺麗に縁を切ろうと、僕の周辺に詳しい情報を残さないようにと、携帯で連絡を取ることも避けていたのだろう。だから、


 しかし、最後。最後の瞬間に、彼女は終業式の日に「いるから」と僕に言い残した。恐らく、ほんの小さな希望を、自分以外の人間を信じるという希望を残せたのだ。救ってもらいたい、という希望を。


 初めから、僕が本当に彼女に向き合っていれば、彼女が姿を消すことはなかったのだろう。僕も、最後の最後まで逃げていた。だけど、もう、違う。教室を飛び出して彼女のもとへと急いでいる。これで許してもらえるとも思えないし、僕自身も自分の事は許せない。だけど、今は自分ができることを全力で、やりたいと、叫ぶ心を信じていくしかない。


 高校2年、冬生まれの僕は、16歳の夏。小5の夏、一度の夏を失ってから今年は16度目の夏になってしまうはずだった。けれど、彼女のおかげで僕はこの夏が17度目の夏となる。17度目の夏だから、何か特別なことが起きるとは思わなかった。けれど、17度目の夏に、本当の17度目が、涼香によって返ってきた。


 そういや、涼香の誕生日は8月だったか。

 ――祝ってやらないと。


 17度目と、18度目が交差する涼香の夏。祝い方を思索するとともに、謝罪の言葉も考える。


 早く。早く。


 ホームに着いて、急かす景色に電車の車両は見えない。一人だけの駅のホーム。容赦なく照り付ける太陽の方角に影はなく、走ったせいで息ははずみ、大量の汗が噴き出している。

 ただ、自分がやりたいことをやっている時の汗は何とも清々しい気分になれる。 彼女はもしかすると、神社にはもう、いないかもしれない。でも、確かに、涼香の最後の一言は僕に向けられていたはずだ。


 彼女は高瀬涼香。小五の夏に助けた女の子で、あの日の夜はきっと、僕を待っていた。僕に自分の事を思い出してもらうため、声を掛けた。だから、あの夜に僕が選ばれた。きっと、一週間前に行かないといけなかったというのも、転校の話だ。僕が、彼女が知っていた人間だと、信じたくなくて、勘違いをしたがっていたせいで、認めず。無理を通して留まる期間を延ばした。彼女ならそのぐらいはやってのける。


 ああ、分かっていた。そう、分かっていた。単純な夏の一コマだ。僕と彼女の大切な夏の。


 途切れるスピーカーから隣駅に電車が着いた知らせが流れる。厭に多く湿気を含んだ熱風が僕の気持ちを昂らせていった。


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17度目の夏だから。 無記名 @mukimei

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