第2話
「あ、そこにあるカッターとってー」
「ここは何色に塗るのー?」
「だから梯子を使うときは下で誰かが抑えてないと危ないでしょー?」
文化祭まで残り二日。活気づいたクラスの喧噪をBGMに、指定された形に段ボールを切り抜いていく。
慣れたことで五日目の作業。他のことに気を散らしながらも図面からぶれることなく形どることくらいはできるようになった。
あの日、彼女と本屋に行った。
それから大きな変化はなかったように思う。
ただちょっと、彼女と肩を組んでいたことが噂になっていて弁明が必要であったり。ただちょっと、注目の的になって、携帯に登録された友達の数が倍ほどに増えていたり。ただちょっと、巻き込まれるように準備に参加することになったり。ただちょっと彼女と話しているだけで周りが色めき立つ面倒が起こったり。
「……っつ!?」
つい力が入って、手元が狂う。左の人差し指に生まれたカッターナイフの切り傷。流れる鮮血に、痛みよりも半ば憤りのような感情に支配されている自身に、僕は首を傾げた。
まぁ、いいか
さほどの事でもないので、作業に戻ろうとして。
「ケガ、ほっといたらダメでしょ?」
彼女だ。文化祭Tシャツに身を包んだ彼女。僕の前で屈む彼女。
確か、ほんの数秒前までは、教室の対角でクレープの試作をしていたはず。
「いや、大丈夫」
「全然、そんなことない。血、出てるでしょ」
確かに。大丈夫じゃない。その鈍感さが。
先ほどから鬱陶しいぐらいにクラスの興味がこちらに注いでいる。
彼女は気づいてないとばかりに、僕の指を取って、引き寄せる。
「分かった。分かったから。保健室に行くから」
手を振りほどき、その場から逃げるように素早く立ち上がって、足早に教室の外を目指す。
「あっ、ちょっと」
勘弁してくれ。後を追ってくる彼女。突き放すように振りほどいた意思は、全く届いていないらしい。
「おっ、二人で抜け駆けかー?」
「ひゅー、やるぅー」
色めき立つ野次馬達。
「怪我したから保健室行くだけだって」
余計面倒を引き起こさないようにと、背中を向けたまま、見せつけるように左手をひらひらと振る。構っては負けだ。そう念じて、教室を出たはずなのに。
「もー、そんないじゃないってばー」
余計なことを。わざわざ振り返って、否定を念押ししたつもりでいる彼女の声。今の状況では、明らかに今の否定は、肯定を意味してしまうだろう。
教室を出てから、彼女は僕に幾つか小言をぶつけてきた。そのどれもがつまらない内容だったので、こちらから彼女の鈍感さに小言や叱責を添えてやろうとして、どうにも、その言葉は飲み込んだ。
元を辿れば僕が悪かったから。明確に邪険に扱うでもなく、突き放して距離を置こうとしたわけでもない。彼女がいる。その空間が妙に居心地がよくて、また、他人と関わる引き金のような気がして、ただ、ただ、許容していたのは僕の側であったから。
「ちょっとー、保健室はここだよー?」
「あ、悪い」
「もー。どこに行く気なわけ?」
問題児を諭すような言い草の彼女。考え事に耽っていたら、いつの間にか活気に溢れた廊下を抜けていて、目的地を通り過ぎてしまったらしい。
ゆったりと、踵を軸に振り返り、引き戻す。
保健室に入ると同時に、慌てながら飛び出す養護教諭と入れ替わりになる。その背中を見ていると、彼女に呼び掛けられる。
「先生、文化祭の会議に行かなきゃだから、留守番任せたって」
「へー」
「そこの水道で傷、洗って。いまどきは消毒はせずに、水で流すだけのほうがいいんだってさ」
「おー」
「医学は進歩するんだねー。絆創膏だけでいいなら、教室にあったんだけど。まっ、いいか結果よし、ってことで……」
医学の進歩。とは些か過言な気がするが、確かに。怪我で保健室に来るなんて五年以上ぶりだろうし。何より。僕の体質が周囲に知られない事が医学、もとい薬学の進歩を証明していた。ただ、僕が油断しなければ、の話になるのだが。
よく分からない独り言をこぼしながら救急箱を漁る彼女を横目に、怪我を軽く水で流す。
「そこに座っててー」
「はいはい」
促されるままに彼女の対面に座る。いかにも病院の待合室に置いてありそうな、薄れた空色のような色の固い感触の横長のソファ。小さな机を挟んで配置されていて、小さくて、座面ほどの高さしかない机は、大変に居心地が悪そうに見える。
「あれ、おかしいな……」
そう言い残して立ち上がった彼女は、先生の事務机や、棚の辺りを探る。
僕は、疑うわけではなかったけれど、救急箱の中身をもう一度探ろうとして、一度開けた箱を、直ぐに閉じた。なんせ、彼女が漁ったはずの箱の中身が一目でわかるほどに整理されていたから。
完璧だ。月並みな一言で片づけられるような彼女ではなかったけれど、僕の中では、彼女にはその一言がお似合いであった。
この五日間、彼女に目を向けて来た。文化祭の進行のクラスの中心に常に立ち、強引に引っ張て行くのではなく、常に周囲の人間の様子を気にかけ、できる限り皆で一緒に歩んでいける空気を作り出す。常に周りに気を遣い、絶やすことのない笑顔で周囲を自然と盛り上げる。
これが彼女の「向き合う」という答えの結果なのかは分からない。
ただ、彼女の慈愛に似た強さは僕という人間に対しても、例外なく向けられていた。
けれど、僕に向けられる彼女の感情は極めて異質であった。毎日、体調の事をやたらと気にかけてくるので、気を遣わせていることは目に見えている。知ってしまった事への義務感のような、正義感のような、僕はそうであると、彼女の行動の理由に、答えを出した。
だから、
だからこそ、
彼女との関係は、断ち切ってしまわなければと思った。彼女の眩しさに照らされる資格はない。彼女が僕にかかわる理由も、全て、僕の責任なのだから。
彼女は彼女の、僕は僕の。お互いが元通りになる為に。
迷い、躊躇い、言えなかった言葉を。
だから今、僕は、鉛で固められたような重い唇を開く。
「あの……知ったからって、無理に付き合わなくていいんだ……」
違う。付きまとわないでくれと突き放せばいいものを、また、彼女なら、何か。と、突っかかるような、違和感が、言葉を間違えさせる。
彼女の手が止まって、静寂に満ちる。文化祭の熱気が異様に遠い。
「柳井君のは、さ、解離性障害、っていうんでしょう……?」
「調べたんだ……」
「まあ、ね……」
ああ、やっぱり彼女は。僕の一歩先にいて、自然と踏み入ってくる。
解離性障害。それは世間では、解離性同一障害、いわゆる、多重人格、という形で認知されている場合が多い。過去に受けた心的障害から、心のダメージを回避しようと引きおこる障害。一概に他人格の形成以外だけではない。体の一部が機能しなくなったり、自我自体が失われたり、言葉が交わすことができなくなったり。また、僕のように一部の記憶が失われるようなことも。
僕の場合はさらに厄介で、事故の記憶と共に、前後の記憶も絡めとられるように失われ、思い出そうとすると、嘔気や頭痛の症状が生まれ、拒絶する。
ただ、生活に支障はきたすほどではない。だから、無理に治そうとは考えないし、治したいわけでもない。
「別に私も、その症状を治すのに協力しよう、何て言うつもりはないの」
「そいつは、まぁ……」
絆創膏をひらひらと見せつけながら、僕の対面に再び戻ってきた彼女。
ほら、と、指を出せと促す彼女のジェスチャーに、一度は差し出した指を空中で迷わせ、絆創膏をくれ、とジェスチャーで返したが、瞬間で彼女に左手が捕まり、観念するしかなかった。
「だから、まあ、うーん。そうだね、最後に明日、付き合ってくれない? 教室のイメージの確認に行きたいからさ」
「ああ……」
最後?
僕のこれ以上に関わる必要はないという意思さえ、読み解いたというのだろうか、彼女は。
指に集中している彼女の顔は見えない。
「よっし、これでオッケー」
僕の左の手の甲を、彼女は軽くはたいた。
「じゃあ、後は任せるから」
立ち上がった彼女の勢いに、ふわりと花の香りが吹き込む。優しく鼻孔を撫でるような優しい香りだった。
「明日、準備終わったら校門で待ってるから」
こちらに背を向けたまま、言い残すように告げて行ってしまう。すぐに立ち上がって出ていってしまったものだから、最後まで彼女の表情は見えなかった。
結局、了承の返事も拒否の返事もしてないはずだ。
それでも、彼女は約束の場所にいるだろう。僕という人間さえも信じて。
けじめ、になるのだろうか。きっと彼女は、僕の体質を知らないふりが出来る。でも、彼女が僕に関わるのは止めないだろう。
けれど、僕の中の誰かが行くべきだと囁いている。
行くか……
導かれるように生まれた言葉だった。
濡れたものが拭われたような左の手の甲。
ベッドが四つもあって、普通の教室よりも広々とした保健室は、一人で待つには余りに広すぎる気がした。
照らすものがなければ、当然その空間は闇になる。僕は、厭世的な思考に囚われぬように、備え付けの文庫本に没頭した。時間はあっという間に過ぎて、やがて養護教諭も帰ってきて、さっさと一礼を済ませて去った。
その日はもう、何か手伝おうとも考えられなかったし、人手の必要のなそうだったので、人知れず、ひっそりと帰宅した。
※※※
時間は、残酷なまでに早く過ぎる。もう少し、もう少しと願うほど、より早く。
文化祭前日。昼を過ぎて、明日の本番に向けて大方の準備は整ってくる。
古き良き茶屋をイメージした内装。低い机を集めて、朱色の布を被せることで、長腰掛の床几を演出し、窓には段ボールで枠組みを作った障子が張り付けてある。調理場と客席を区切る巨大な段ボールの壁は、深緑と若葉で遠近感を生み出した、森林と神社のちぎり絵によって、一枚の背景として成立していた。見事だ。
どこだ?
大詰めとなった準備の空気の中に彼女の姿がない。
「高瀬はどこ行ったー?」
「あー、すーちゃんなら用事があるって」
リーダー格の男子と女子の会話。
みたらし団子のたれや、餡蜜の香りが入り混じり、騒然とした教室の中で、確かに僕の耳はその会話を拾い上げた。
用事?
もしかして、もう待っているのか?そう思うと、もしかしてを見逃せなくなり、荷物を持って教室を出た。
結論から言えば、その予想は当たっていた。
あの日のように、校門に寄り掛かって待っていた。彼女は僕のことを見つけると、さぞ嬉しそうに微笑んで、意外と早いね、なんて呟いた。
そこからは少し予想外ではあった。先日と同じ路面電車。しかし、今回は本屋の駅の方向とは反対で、町のほうから遠ざかり、徐々に景色は緑が深まっていった。
電車を降りると、夏に似つかわしくないような、涼しげな山風と、家が点在する田園風景が出迎えてくれた。いつか母が話してくれたような元々住んでいた町とも近い景色。
目的地はそう遠くはなかった。駅から十分ほど。一つの川を挟むかなり大きな一つの雑木林。
「はい、到着っ。どう?」
「どう? って……」
感想を聞かれて戸惑ったが、この光景は覚えていた。
苔の生えた白石の鳥居。
年季を刻み、瓦の屋根を重そうに抱える社殿。
浸食するように繁茂する深緑の木々は、周囲の世界を切り離す。
一つの別世界のようだ。
確かに、覚えていた。確かに、確かに、覚えて、いた。
「この、構図。文化祭の壁、か?」
「……そう、だね」
来たことある?いや、気のせいだな、うん……
哀愁が漂うような、落ち着いた空間。まるで幾度目かのような安心感を持たせる。大きな神社というよりも、ひっそりと佇む地元の良き集い場。そんな印象だ。
「ここはね、私の守り神みたいなところなの。昔から、何かあったらここに来て、相談したり、お願いしたり。無事でありますようにー、とか、また会えますようにー、とか」
「例の子?」
「そうだね、うん。でね、ほかにも当時は友達と集まって遊んだり。あっ、昔はこの辺に住んでたから、今は色々とあって違うんだけどって、あれ、私なんか余計なことしゃべって……」
「なんか、いいな、それ」
「……うん。ありがと…………」
小さな、小さな手水舎で手を清めながら、彼女はよく話す。ほかに人影もなく、神主のような人もいないが、きっと、地元の誰かが善意で定期的に管理してくれているのだろう。
「さっ、明日の成功を祈願しに行こ」
「ああ」
申し訳程度に敷かれた石畳を踏んで、社殿へ向かう。
僕はたまたま財布に入っていた十円玉を。彼女は五十円玉を。そっと賽銭箱に投じて手を合わせる。
よほど楽しみなのだろうか。僕が目を開けてからも彼女は熱心に祈る彼女。
それから、彼女の昔話付きの解説を片耳に、境内を歩き回ってから、生い茂る木々に挟まれた川へ出た。川に沿った砂利道を二人で歩く。
「この前の話なんだけど」
「ん? どうしたの?」
珍しく僕のほうから話題を振る。木々が少し影になって涼しくはあるが、どうにもここで、彼女の背を追いながら歩いていると、不自然なまでに彷彿と湧き上がる温かさに嘔気が込み上げる。
「怖い顔をしてる。疲れた顔。って話」
「……うん」
「自分なりの結論なんだけど、いい子でいなきゃって、いつも切羽詰まってるからなんじゃないかなって」
「いい子?」
「そう、いい子。僕の記憶が欠ける事故に遭って目を覚ました時なんだけど、母さんがものすごい泣いて、抱き着いてきた。母さんのほうが死ぬんじゃないかってぐらいに叫びながら泣いてた」
そう、あの日のことは鮮明に覚えている。目を覚まし、体を起こすと目の前に母はいた。僕が「母さん」と一言こぼすと、感涙と共に抱き着いて、掠れて滲む声で、僕にひたすら、ごめんなさいと謝っていた。
その日から、僕の知っていたはずの笑顔で笑う、明るい母の姿は見れなくなった。何か食い入るように、呪われるように、表情の減った母の顔。ああ、これ以上、心配をかけてはこの人は壊れてしまう。それに、何より僕は母に笑顔を取り戻してほしいと願った。僕も笑顔を取り戻してほしい人間なのだ。
だから。
「だから、もう心配かけないようにって。先生の前でもみんなの前でも、いい子でいて、いい成績を取って、いい人間でいる。必要ないことはしないで、母にもう心配かけないようにって生きてる」
「ねぇ…………」
歩調を緩めた彼女が、振り返って僕を見る。
「つまらくない?」
「え?」
悲しそうな目で薄く笑う。どこか、どこかで見たことのある顔で。
「たぶん、君のお母さんはそんなことは願ってない……と思う。君が、笑わなくなったから、お母さんも笑わなくなったんじゃないかな? きっと君もお母さんもお互いに責任を感じてるから、お母さんはきっと君が笑ってくれるまで笑えないんだと思うの」
「それは……」
違う。そう、言いたかった。だけど、違わないのかもしれない。確かに、僕が目を覚ましてから、しばらくは母も僕と笑おうとしていた気がする。ただ、どんな顔で会って、どうやって笑えばいいか分からない。だから、僕は母と向き合うことをやめて、僕はいい子でいることで母を幸せにしようと、理想を抱き、逃げた。
「君はすごいんだな」
無理矢理笑顔を返した。きっと、酷い笑顔だ。だけど、こうして笑顔のふりをしていなければ、彼女に完璧だと押し付けなければ、僕がこれで幸せだと、満足だとしていたことが、偽りとして崩れてしまう。だから、笑う。
「ううん。違うの。私はただの卑怯者。私も君に笑ってほしいから」
ああ、そうか彼女は。
いや、違う。頭痛もないし、嘔気も起きない。だから、違う。きっと、彼女が記憶に重なるだけ。だから、違う。
「さ、来て」
自然の大岩を利用した飛び石。軽々とした足取りで彼女が行ってしまう。だから、僕も後を追う。
「まだ、だめなの?」
「何が……さ…………」
川の真ん中でまたしても僕を見て、彼女は問いかける。水が透き通っていて川底まではっきり見える。
「ここまで来させといて?」
「来させといてって君が…………」
事実。けれど、嘘を吐かされるように口が重たく、苦い味がする。
「本当に、分からないの?」
「何の話をしているのさ。僕には、さっぱり……だよ…………」
言い訳だ。彼女を、届かないような理想的な人間にしておく為の。
「……そう」
彼女のその一言は、か細く、美しく。
傾いた夕焼けに、ほのかに茜色に照らされた頬に一筋の涙が零れ、上流からの風に黒髪がなびく。
僕のほうへ片腕を伸ばすと、風に攫われるように彼女の体が倒れる。
「あぶっ……」
彼女の腕を追って、僕の腕を伸ばす。
間に合わない。ゆったりとほとんど止まるように時間が流れる。
僕の鞄から、錆びた音が煩く鳴った。ああ、なんで。どうして。切れていた糸を彼女が結びなおす。全てが繋がる。
いや、繋がっていた。とっくの前に。
「
自分でも驚くほどの鋭い叫声が上がった。彼女を呼ぶ声。自然に口から飛び出した。だが、もう遅い。
掴めない。また、掴めなかった。
やがて、二つの水しぶきが上がる。
僕は彼女の様子を確かめるため、慌てて顔を出す。
「すずっ……」
「嘘つき…………」
立ち上がる彼女の全身も、髪も濡れて、夕日が僅かに煌く。
彼女の膝上あたりまである川の水。俯いて、握りしめられた拳からは血の気が引いている。
「嘘つき!!!」
怒気を帯びたような彼女の声は僕の全身を震え上がらせる。森を震撼する怒りのような叫びに、首が、神経が締め付けられていく。
「やっぱり、私のこと覚えてるんでしょ!? また、タクは知らないふりばっか!! 学校でも、私のことを見てたのに!! だからっ、だから、絶対に気づいてるって、私の事思い出してるって! そう思ってたのに……」
「それは……」
――自意識過剰だ。
言い切らなければいけないはずだった。
けど、僕は、僕は、確かに見ていた。彼女の一挙手一投足から目を離せず。焦り、安堵し、喜び、楽しみ。なにより、既に彼女を知っていた。その気持ちを否定して、胸の奥へしまい込んでいたから。
「私のせいで思い出せなくなってるって聞いたから、本当は一週間前には行かないといけないのに、無理を通して、残ったのに!! タクは冷たい顔して、私のこと他人みたいに!!」
ああ、そうだった。
雨上がりの小五のあの日だ。鉄砲水のように、突如水量の増えた瞬間に、この川から彼女を救おうとして、届かなかった。流される中、辛うじて彼女を岸に押し出して、僕は反動で濁流の中心に飲まれていった。
「思い出してほしくて! …………っひっく、しゅうぎょうじぎまで、残ろうって、ぎめで……なのに、なのにまっだく……」
顔をぐしゃぐしゃに乱しながら、彼女は僕に訴える。
頼む、もう、泣かないで。
「もう……いい、よ。ほんとうの最後の日はいる、から…………」
彼女が行ってしまう。追いかけねば、追いかけねば。そう思っているはずなのに、心も体も動かない。彼女は、知っていたはずの彼女であってはならないと、まだ食い止めようとする。
ああ、行ってしまう。
川から上がった彼女は駆けて行ってしまった。砂利を駆ける音が聞こえる。
最後の瞬間に覗いた横顔が脳裏にこびり付いていた。目を力いっぱい閉じて、零れる涙を止めようと、本当に、本当に悲しそうな彼女の顔が。
日が落ちるまで、僕は呆然として、川にほとんど全身をつけたまま動けなかった。
その日、僕は初めて声を上げて泣いた。
家に着くまで堪えていたものが、自室に着くと、溢れだした。
鈴。赤銅の鈴を握りしめた拳を額に当てて泣いた。湿った制服のまま泣いた。なるべく声を押し殺していたかった。咽び泣くところから、徐々に声が漏れて、最後には声を上げた。
あの神社もよく二人で集まっていた場所だった。そして鈴も、神社の鐘の音が好きだと言った彼女の為に、また、涼香の鈴を勘違いして上手くかけたつもりで渡したもので、少し笑われたけど、眩しい笑顔でありがとうと言ってくれたものだ。
後悔のような、感謝のような、詫びるような、ただ、ひたすらに情けない声だった。
けれど、ほんとうの後悔はそこからだった。
文化祭の二日間、彼女が姿を見せることはなかった。周りの数名に彼女のことを知らないかと尋ねられたが、知りたいのは僕の方だった。
そして、遂に、文化祭の翌日の終業式の日も姿はなく。そこで、彼女の転校が担任によって教えられた。一番最後に会っていたはずの僕。注目が集まるのは必然であった。
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