第1話

 あの頃の僕は何事に対しても一定の虚無を感じざるを得なかった。

 大切なものが欠けていったあの日を境に。

 勉強も、部活も、人間関係も、やたらと否定的で充実なんてどこにもなかった。

 あるのはただ、視えない未来への焦燥。でいなければと暗示された重圧。一歩の隙間を作ってしまう上辺だけの人間関係。

 鬱屈で暗澹とした日々。

 だけど、そんな日々に彼女は飛び込んできた。幾ら僕が距離をつくろうと彼女は臆する事無く詰め寄ってきた。自然と、あまりにも自然と僕に寄ってきた。僕の日々を掻き混ぜることも、壊すこともなく元からそこにいたように、少しずつ、少しずつ、ほんの僅かに、泥色のような日々の中に蓮の花を咲かせていった。 

 そんな彼女との始まりはある夏の夜。じめじめとして、複雑な何かが入り混じって、零れていった。そんな夏の一夜だった。


 

 その日の僕は一人で部室に残っていた。用具の整理やグランドの整備をするでもなく、ただ何となく着替えるのが億劫で練習着のままぼんやりと寿命の切れそうに時々、ちかちかと点滅する蛍光灯を眺めていた。


「はぁ……」


 静寂に満ちた校舎に嘆息が一つ、高校ならではの過多な課題を思い出してこぼした音はどんよりと響く。着替えを終えて部室を出たころにはすっかり日は沈み、校舎の白い壁さえも闇が飲んでいる。周囲の住宅の明かりで星が見えない夜空は酷く濁ったようで、心まで澱む気がする。

 

「……早く、帰らないと」


 怱々とした日常はすっかり息を潜め、一人取り残された錯覚に独り言が加速する。エナメルバックにつけた錆びれた鈴が凛とした心地よい音、ではなく、がちがちと擦れる音を漏らす。


「あっつい……」


 ねっとりと身を纏う熱気に、背中にぴったりと張り付くワイシャツ。梅雨を開けたばかりだというのに熱帯夜の気配が後を絶たず、高まる不快感に足は自然と帰りを急ぎたがる。


 ん? あの子は……

 

 昇降口を通り過ぎると、校門に寄り掛かってスマートフォンをやたらと熱心に見つめる一人の女子が目に入った。

 目が悪い僕にはあまり遠くの人間の顔が判別できない。ただ、セーラー服を模したデザインの真っ白な半袖の夏服、紺色膝上のスカート。特徴的な我が校の制服だ。 


「高瀬、こんな時間にどうかした?」


 いつもは女子に声を掛け掛けるなんてことはしない。

 ただ、腕時計の指す時刻が既に八時を回っていたこと、近づいたことで彼女がクラスメイトであると分かったこと、何やら困り顔であったこと、自然と話しかける流れの中にいた。

 

「…………」

「?」


 急に声を掛けられたことに驚きの声を上げることも、あしらうように淡々と捌くこともなく、目を合わせたまま黙りこくって動かない。

 

 綺麗だ……


 らしくもなくそんな感想が浮かぶ。疲れ切って思考回路が鈍っていたか、彼女に対してクラスメイトの高瀬という情報しか持っていなかったからか、ここ数年、人と向き合うことを避けていたからか、まあ、この際どうでもいい。

 くりっとした真っ黒な瞳で僕を離さない彼女。楚々とした顔立ちに白い肌、そこから肩のあたりまで伸びる艶やかな黒髪は湿気に負けることなく夜風に吹かれるとさらさらと揺れる。校門にある唯一点いているガス燈が二人をスポットライトのように照らして現実から切り取ってしまいそうだった。


「あ……」

「あ?」

「ああぁ、たっ……じゃなかった、や、柳井くん、びっくりしたぁ……」


 切り取られたような時間がようやく流れだす。彼女は何か言い詰まるように驚愕の声と共に僕の苗字を呼んだ。僕の名前の拓哉の頭文字が彼女の口から出そうになったかと妙な勘違いを起こして独りでに鼓動が高まってしまう。


「ああ、うん。どうしたか、だよね。ええと、その、柳井君こそなんで?」

「いや、部活だけど……」

「ああ、うん、部活……部活、そうだったね。部活……ああ、じゃなくて私?うん、うん私だよね、うん」

「はぁ……?」


 何か言い訳を探すように齷齪と手をまごつかせている。印象と違って美人な雰囲気からあふれ出すのは溌剌な少女のような面影。

 彼女はふぅ、と大きく息を着いてから再び口を開いた。


「私は、文化祭のことでちょっとね。後は人をちょっと待ってたんだけどね、うん。もう大丈夫」

「ああ、文化祭。それは、それはご苦労様で」

「いえいえ、そちらこそお勤めご苦労様で」

「ははっ」

「ふふふっ」


 お互いに軽口交じりにお辞儀をして、目線がまた交じりあったところで軽く吹きだした。閑静な住宅街に響いた僕らの声は、すぐに少し離れた路面電車の音に打ち消されてしまう。


「じゃあ、俺は帰るけど」

「あっ、その、ちょっと待ってくれない?」

「へっ?」

 

 大丈夫そうだったので帰ろうとして、けれど呼び止められたことがあまりに意外で思いがけず間抜けな声が飛び出した。

 

「その、本屋に段ボールを貰いに行くんだけど、一人じゃちょっと手が足りなくて……」

「……あ、ああ、段ボール、ね」


 ああ、そういえば。

 

 今日は、僕らにとって二年目の文化祭準備の初日。珍しい話ではなかった。我が校では文化祭前の準備期間として一週間が与えられる。その間は授業もなく、本気で、学校の一つの大きな行事に打ち込めるのだ。ほとんどの生徒は和気藹々と、また、青春の炎を燃やさんと躍起になって。それが本心からか、青春を謳歌する自分を残すためか、周囲がそうしているからか、分からない。三者三様、千人千様。様々な思いが入り混じって文化祭が形成されていく。

 その中で僕は熱に溶け込めず、何となくで部活に出ていたことを思い出した。

 また、目の前の彼女はまさしく対。こんな遅くまで文化祭の成功のために一生懸命、準備に取り組み、剰え、これから恐らくクラスの装飾に使うであろう段ボールを貰いに行くというのだ。


「まあ、いいけど……」

「やった。ありがとね」


 少し悩んで手伝う意思を伝えると、彼女は喜びを顔に浮かべ、にへへっと幸せそうに笑う。不思議と後ろめたさや、義務感、正義感から来た返事ではなかった。何かが掴めそう。そんな意味の分からない興味からだった。


 そうしてから、彼女に連れてこられたのは、学校の近くを通る青緑と若草のコントラストの、住宅街を縫うように進む、古ぼけた車両が特徴な路面電車で四駅。大半の生徒が本線に乗り換えるために使う駅のすぐ近くの書店だった。


 道中、待ち時間も電車の中でも一言も会話を交わすことはなかったが、居心地の悪さというよりも良さが先に立つ違和感が拭えなかった。


「その辺で待っててくれる?」

「了解」


 店に入ってすぐに彼女は僕にそう告げるとレジのほうへ駆けていった。

 最近オープンしたとクラスで少し話題だったカフェ併設の書店。小綺麗な飴色の木材を基調とした広い店内にはさまざまな種類の観葉植物があしらわれ、暖色の明かりと相まって全体的に柔らかな雰囲気を編み出していた。

 平日のこんな時間だというのにカフェは賑わっている。辺りを少しだけ徘徊した後、彼女の動向も窺える話題書のコーナーの前で待つことにした。

 

 レジ横で彼女と話しているのは同級生だろうか、白シャツに栗色のエプロン。長髪を後ろに纏め、背が高くスラっとした身なりが印象的。時折こっちのほうに指をさしたり、目線を移すと、それに彼女が大きな身振りで手を振ったりと反応する。噂をされているようだったけれど、どうにも気に留めることすら面倒で目線を本のほうへ戻した。

 

 彼女が戻ってきたのはしばらくして、僕が十冊目の吟味を始めたところだった。


「おまたせ―」

「ああ、全然。あの子って同級生?」

「え?うん。同じクラスだけど……?」

「ああ、うん。そうだな……」

「?」


 彼女と話していた女子は店の奥のほうへ消えていく。

 不思議そうに首を傾げている彼女に、それからまた手元の本へ目線を戻す。彼女は隣に立って、僕と同じように本を取る。


「段ボールは今、いらないのを纏めてくるから待っててくれってさ」

「……」

 

 頷くだけ。彼女は僕よりも速いペースで色んな本に手を伸ばし、視界の端で色彩鮮やかに、いろんな表情を浮かべている。

 しばらくして、彼女が再び口を開いた。


「柳井君って、少し怖い顔になったよね?」

「うん? ああ、よく言われるよ、目つきが悪いって、親にも、友達にも」


 唐突な指摘。だが、慣れていた。少し逆立った前髪のくせっ毛と、鋭めの目つき。おかげで、どこへ行っても第一印象はまず、悪い方向へ傾く。近寄りがたい、ヤンキーみたい、愛想が悪い。しばらく慣れ合えば、そのうち相手も自分を分かってくれるようになる。ただ、その一言達は。想像以上にいたく鋭く突き刺さって抜けない。

 彼女もそんな人間の一人にしか過ぎない。そうであることに残念に思った自分がいた。


「あっ、ううん、違うの。違うの。何て言うかね、その、目が疲れ切ってるっていうのかな? うーん、うまく言えないんだけど、うん、えと、目つきは確かに少し悪い感じはするよ? でも、全体から優しい人だって伝わるからそんなの気にすることないと思う? だって、ほら、私を手伝ってくれるし、うん、優しい。だからその…… 」


 彼女の口から飛び出た言葉は違った。少し落ち着きのない様は少しだけ彼女っぽい気がして、だからこそ、周りと同じだと決めつけた彼女が放った言葉に興味が湧いた。少し、何か引っかかるように。

 本をいったん戻して、僕は尋ねる。


「目が疲れている?」

「うーん、とね。結果的にそうなってるって感じかな? いつも、柳井君って何かに怯えて、それでいて敵を睨んでるっていうのかな? なにか良くないことから避けようとしている感じ、それで圧が出て余計に怖い。みたいな」

「怯えて、睨んで……」

「そうそう。過去の何かから逃げようとし、てっ……」


 彼女の顔が引き攣った。文字を追う目線が止まり、きゅっと瞼が落ちる。彼女の周囲が凍るように彼女の時間が止まった。

 僕には理由が分からなかった。それと同時に僕の口が動く。語ることは、必要は、ない。そう思っていた僕の歴史。自然と、言葉を紡いでいた。


「少し昔のことだと思う」

「え?」

「記憶がないんだ。といっても、一部が引き出せないっていう感じなんだけど。小学五年の時、川に飛び込んでいったんだって、そのときの流れが速くて、溺れた。何でかも分からない。けど、飛び込んで、溺れた。何とか命は助かったけど、そのショックで記憶の一部が引き出せなくなってるみたい」

「その…………」


 彼女は脱力するように手を降ろして俯く。

 これ以上は止めるべきか。彼女に僕の過去を見せてどうする。そんな良心もあったのだろうか。ただ、僕は続けた。


「記憶は今も引き出せないままでいて、当時の人間関係を無理に結びつけようとすると、酷い頭痛が走るんだ。体が治って小学校に戻ったときもそうだった。脳に負荷がかかりすぎる、そこでやむなく違う学校に転校したんだ。多分、それ、かな……」

「私の……」


 彼女が言いかけて口を噤む。隠してきた過去。かつての人脈を断絶することになった過去の事故。それがショックだったかも分からない。覚えてないのだから。川へ飛び込んだ動機も、その川がどこで、何故、誰と、どうしてそこにいたのかさえ、全て。逃げるように忘れている。すべて。ただ、ただ、ぼんやりとあるのはその時でさえ何かを掴もうと必死になっていたことだけ。


「私の…………」

「くっ、ふぅっ…………」

「た――――!?!?」


 突如世界が反転するかのように歪み、膝から力が抜けて跪く。彼女が意を決したように応じた声は届かない。悲鳴のような声に、代わりに慌てて僕の顔を覗き込むのは血の気の引いた、絵にかいた如く青ざめた顔。

 震える体、脳を劈くような頭痛に、込み上げる嘔気。視点が揺れて定まらない。周囲の人の気配が増し、照明に落とされた自分の影が迫ってくる。


「――――!? ――――!? ――夫!? 大丈夫!?」

「ぅ……ぁあ…………」


 辛うじて彼女の言葉を聞き取る。絞り出すように返答した声は自分でも分かるほどに弱り切っている。

  

「……どこか、座れる、ところ…………たの、む……」

「う、うん。じゃあ、カフェのほうに」


 周囲の目線を横目に、慌てる彼女にお願いをする。なるべく落ち着いて、余裕があるかのように。心配を掛けず、速やかに。


「よっし…………うっ!?」

「わわわっ」

 

 立ち上がろうとして膝にうまく力が入り切らず体が倒れる。床の衝撃を覚悟したが、彼女が身を翻して僕の肩を受け止める。


「このまま席まで、いい?」

「ああ……ありがと……………」


 周りの野次馬に気持ち程度に会釈をして、彼女の肩に身を委ね、ようとしてぐっと身に力を籠める。平均よりやや背の低い僕の顔と、やや高いか?そんな彼女の肩を借りることで一気に顔が近くなる。また、彼女の華奢で細い肩は、男の筋肉質で粗暴な僕の体なんかとは違って、少し体重が乗ればそれだけで砕いてしまいそう。


 渦巻く頭痛に、倦怠感に、脳を揺さぶられるような不快感を抱えて移動していた。しかしまた、どうして僕は、濛々とした中で、彼女の薄く、鮮やかな桜唇に目を奪われて、また、脇に当たる仄かな体温を、確かに、はっきりと、感じて、覚えていた。


「大丈夫? ちょっと注文してくるから」

「ああ、うん…………」


 案内された窓辺の席についた僕は、腰を下ろした瞬間に、全身の力が一気に抜け、テーブルに突っ伏した。顔だけ動かし、景観用に整えられたような中庭を眺める。ライトアップされた規則的な枯山水の和風庭園。

 彼女はなお、レジに注文に行きながらもこちらをちらちらと窺っているのが分かる。 

 

 優しいな、彼女は。


 こちらが手伝いに来ているとはいえ、ここまで面倒見がいいと逆に、人が良すぎるな、と心配になる。きっと損な性質なんだろう。また、それらを損と感じることはないから、余計に。


「はい。おまたせー。柳井君、大丈夫?」

「……いろいろ、すまんな」

「ううん。全然、全然。無理矢理連れてきちゃったのは私だしねー」


 透明なグラスに大きめの氷が一つ、カロン、と軽やかな音をたてて僕の目の前に置かれた。体勢を整えて少しだけ呷る。

対面の椅子に軽く腰掛けた彼女は、テーブルに置いた肘に体重をかけたまま、両手で持ったグラスからストローで、コーヒーをちびちびと吸いながら中庭を見ている。

 

「さっきの……」

「あのっ。薬、とか、飲まなくていいの?」

「あ、ああ、そうだな。よく知ってるんだな」

「うん……」


 心配をかけたことに説明をつけようとして、彼女の心遣いに遮られる。

 事故の話をすれば、いままでと同じように、体調を悪化させると分かっていたはずなのに。どうしてか、何故か話せる気がしてしまった。また、その心遣いは的確で、体調を落ち着ける為の薬は確かに持たされていた。極力、心配をかけないように。そんな僕の思惑も、彼女にはすっかり見通されていたようだった。


「私の話なんだけどね……」

「え?」


 僕が薬を飲み終えて、お互い交わす言葉もない待ち時間の中で、やはり口を開いてくれたのは彼女だった。


「私ね。昔はすごく暗くて、全然ダメダメな女の子だったの」

「そりゃ、意外」


 今の彼女の朗らかな雰囲気と、気配りのできる立ち振る舞いからは考えにくかった。


「でもね、そんな私のことをいつも気にかけてくれる子がいたの」

「それはいい友達だ」


 相槌だけでもいいのだろう。ただどうにも今は声を出してみたかった。


「でも、ある日ね。私のせいでその子は笑わなくなっちゃったの。私が迷惑かけたせいで。結局、気まずくて会えなくなって、そのままその子とは離れ離れに。で、いつかはその子にちゃんと笑ってもらおうって思うの、だからまずは私だけでも明るくいようって、そう思って今の私がいるの」

「へぇ……」

「まぁ、でも笑うためには、楽しんで生きているのが大切なのよ」

「そりゃ、随分と楽しそうだな」

「ふふん、やっぱりそう思うでしょ?」


 悪戯に笑いかける彼女はそのまま続ける。


「でも私ね、楽しむっていうのが一番難しいと思うの」

「へぇ、また。なんで?」

「自分が楽しむためには素直にならなきゃいけないから。自分に嘘をついて、楽しいって暗示をかけてたら、いつかは辛くなっちゃうでしょ?だから、瞬間、瞬間、一つ、一つを大切にしっかり噛みしめて、考えていく。楽しいときも、辛いときも。辛いときに逃げてばかりだと楽しいときに、また、辛くなっちゃう。だから、考える。楽しいときも、辛いときも、自分を押し殺して我慢せずに向き合って考える。考えて、考えて、考える。解決できなくても、考えることが大切なのかなーって思うの」

「考える?」

「そうそう。自分で、自分がなんで今行動しているのかとか、楽しむために何がしたいんだろう、とか、なんでしんどいんだろう、とか、ね。自分で自分に何故をちゃんとぶつけてあげる。周りに流されずにちゃんとね。もちろん、周りに合わせなきゃいけないときだってあるわけだけど、それが悪いってわけじゃない。そういうときだって、ただ受け身になるんじゃなくて、そこで自分がみんなとどうしていくべきかを考えるの。結局、周りに頼ってばっかりとかだと大人になった時に、言いなりにしかなれない社会の歯車みたいな人間になっちゃうからね。まあ、でも、大人になった時のことは分からないけど、今楽しむために、考えることって大事だと思ってるから」

「…………」


 後半から彼女の顔を見ていなかった。いや、見ることが出来ずに俯いてしまっていた。

 甘美で柔らかな癒しの声音の中に、凛とした、決して折れないような決意が見えていた。惰性で、流されるままに生きている自分に比べて、あまりに眩しい気がして見れなかった。いかに上手く逃げて、周りからの評価を落とさず、そんな自分と。いかに向き合って、自分を、周りを見つめていく彼女と。

 

 額に当てた両こぶしに力がこもって、爪が食いこみ、じわりと痛みが広がる。


「そう、か……」

「ごめん……勝手に盛り上がっちゃって…………」

「いや、いいと思う」

「そう?」


 少し申し訳なさげに小さくなっている彼女の声。

 楽しむために考える。一見に矛盾しているような、ただ、妙に僕の中では腑に落ちていた。少なくとも、今の自分よりは遥かに有意義な生き方だから。


「時間、ないから、言いたいことは、ね…………」

「ん? 時間? ああ、そうだな行きますか」

「うん……」


 腕時計を見ると、学校を出てからすでに針は一周をゆうに超えて回っている。すでにカフェにいる客もほとんどいなくなっていた。

 まだ少し気にしているのか、声が曇った彼女に、大袈裟に見せつけるように力強く立ち上がる。


「鈴……」

「これ?」

「いや、うん。随分ボロボロなの持ってるんだなーって思っちゃって、うん。それだけ」

「昔から持ってるみたいなんだけど、なんか大事な気がして、捨てらんないだけなんだけどね」

「そう……」


 彼女が指さす先には、鞄の端につけてある錆び切って赤銅に変色した鈴。原型からも崩れ、辛うじて大きさと球形が鈴を連想させる程度だ。

 

 それからは、大きめの段ボールの束を受け取って、僕の練習着の詰まった肩掛け鞄と、彼女の小さなリュックサックでどうやって持って帰ろうか。そうだ、駅のコインロッカーに入れて通学の時に拾えるようにしておこう。とか。

 この段ボールは何に使うのか、うちのクラスの出し物は何か。和風喫茶。とか。

 帰りは彼女は店員の女子と一緒にバスで、僕は電車を乗り換えて、家へ。とか。

 話したのは、すこし、ほんの他愛のない会話を済ませて解散となった。


 

 一人になった後、思い出せる限りの彼女の言葉を頭に巡らせていた。


「向き合う、か……」


 一人、駅のホームから見上げる夜空はやはり、夜空と呼ぶには明るいすぎる気がして。彼女の熱がまだ冷めずに、僕の胸の奥で灯っていた。

 それに、熱帯夜と、やっぱり濁って、澱んだ空と、ただ一点、一番星だけが細々と輝いていた。

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