17度目の夏だから。
無記名
プロローグ
夢、だったんじゃないかな。
夏休み一日前。ふと空になっている前の座席を眺めてそんなことを考える。
夢見のような偶像。妄想の具現。疲弊し切った幻覚。
分かっている。そんなはずはない、と。ただの逃げだ。先ほどから周囲で騒ぎ立てるクラスメイトに、ひっきりなしに鳴る携帯に、今一番注目が集まっている自分に。
理屈はとうに追いついていた。
ただ、認められなかった。いや、頭では理解していた。だが、それを心は許さなかった。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
空っぽに戻ること畏れて悲鳴が独りでに木霊する。
嘘だ。嘘だ。嘘だ。
突きつけられる現実に全身の神経が拒絶する。
夢だ。夢だ。夢だ。
言い訳を探して自分の殻を築き始める。
「ねえ、つまらなくない?」
何気ない彼女の言葉。いや、今にして思い出せれば想いが込もっていた。そんな彼女の一言が脳裏を過る。彼女にしてみれば何気のない一言だったのだろう。ただ、その一言は自分にとって狂おしいほど愛おしく、驚嘆しそうに鮮烈で、焦がれるように芯が強く、そして、そして、あまりに眩しかった。
ああ、そうか……
答えは出た。いいや、とっくに出ていた。
そう、そろそろ向き合うべき時だ。いや、あまりに遅すぎた。彼女の気持ちも自分の気持ちも。
達観したつもりの臆病者、逃げてばかりの青二才、空っぽの理想主義者。
殻を破れ。ちっぽけなプライドを捨てろ。惨めったらしい卑屈な思考を燃やせ。周りの価値観に引きずられるな。自分を持って人とあれ。
――もう戻りたくない
心が叫ぶと同時に体は行動を起こしていた。野次馬を掻き分け、教室を飛び出していた。呼び止める声を振り払い、ただ自分の心のままに駆けていく。16年間の重荷を捨て、心を引きずる枷を豪快に引き千切るような想いの中で。
どうして。どうして。
湧き上がる後悔。心に従うこと。ただ正直になるだけのこと。どうして出来なかったのか。取り繕い、騙し続けてきた気持ち。
階段を段飛ばしに駆け降りる。自分を追う声も徐々に、徐々に、消えていく。幸いに終鈴の手前、校舎内の人間は教室の中。人影はない。右手に握られた携帯で彼女の名前を探りながら、三階、二階と下っていく。ただ一つ、やはり彼女の名前はどこにもない。いや、ないようにできていた。
彼女もまた一人の平凡な少女、ただの女子高生だった。何も特別なことはない。同じように悩みを抱え、苦しみ、もがき、救いを求める。行き場のない漠然とした不安に駆られ、だけど、そんな彼女にまた、自分はまたおこがましいまでの憧憬を押し付け、強い女の子だと勝手に理解した気でいた。
違う。全てがそこで縒れていた。何にも頼らず、自力だけで生きていく。そんな孤独はあり得ない。自分がそうであったように。自らを丸め込み、妥協して自己満足に浸る。偽りの、群衆が決めつけた「幸せ」の型の中に押し込めて生きてきた自分が一番分かっていたはず。
けれど、逃げていた。ひたすら逃げていた。彼女がつくろうとしたきっかけも、紡ごうとした想いも、求めていた救いも、それどころか自分の気持ちでさえも。
心は逃避を求めていた。ただ、ただ、怯えていた。ずれなければ、真っ当であれば、そう言い聞かせ、常に周りを気にして、自分を、本当の自分を殺して、これが自分である。そう言い聞かせた。
――いい加減にしろ
全てが単純だった。気付いていたはずだった。彼女が誰か。何故、出会ったか。声をかけた動機も、自分が選ばれるべきであったわけも、目的は何だったかも。勘違いした自分というつまらない形が、全てを複雑にさせたがっていた。
急げ、急げ、急げ
息が上がり、弾む肩。痛苦と疲労を訴える体に鞭を打ち込み、下駄箱から靴を外へ投げ、上履きを脱ぎ捨てる。靴が僅かに足に引っかかるが無理矢理捻じ込む。
鬱陶しい。今はただ、一瞬の無駄でさえもそう感じてしまう。
「よしっ」
一度、大きく空を仰いで喝を入れる。
皮肉なほどに澄んだ青空に、真っ白な入道雲が幾つもの巨大な峰を描いている。いつもより高く見える空。燦燦と降り注ぐ日差しは肌を突き刺すように鋭く、真上に昇った太陽のせいで、すっかり委縮しきった残り僅かな影さえも夏の色に塗り替えられてしまいそう。
分かってる
そう、分かっていた。どこに向かえばいいかなんて。
邁進する。けたたましく鳴く蝉の夏の日の中を。
駆け抜ける。日光に照らされ、嬉々として瑞々しく深緑に生い茂る樹の傍を。
ひた走る。彼女は知っていた。全てを。その証明の為に。
――この行動に、意味はあるのか、確証はあるのか。
たとえ今、そう問われても答えはない。
叛逆的にさえも思える行為。学校を抜け出し、己が欲望のままに駆けていく。
敢えて何故かを答えれば「そうしたいから」この一言に限る。
そうだ。この決断に至る物語をしよう。
初夏のひと時。彼女と僕のあまりに凡庸。酷くちぐはぐで曖昧、どこにでも転がっていそうな僅かなひとコマ。けれど、世界で最も濃密で大切なひとときの、僕を人間に戻してくれた物語を。
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