天人が落ちる

鬼童丸

本文

 屋上へと続く階段は、少し薄暗かった。踊り場に設置された蛍光灯が弱々しく明滅している。屋上と校内を隔てる扉には小窓があるが、曇りガラスを通ってくる日射しは光源としては頼りない。

 僕は今、その階段を登っている。教師が言うところによると、屋上への立ち入りは禁止らしい。しかし僕はそんなことを気にしていられないほど退屈だった。

 中学校の昼休みというのは、何とも中途半端な時間だ。教室で何もせずに待つだけでは長すぎる。かといって、図書室で本を読むほどの時間的余裕は無い。

 僕が考えるに、屋上ならばこの昼休みを過ごすのに丁度いいはずだ。息苦しい教室よりは居心地がいいだろうし、移動にかかる時間もほんの数分だ。

 四階から屋上へと上る階段は、誰も使っていないためだろうか、なんとなく空気が違うような感じがした。まるで古いホームビデオみたいに、何もかも曖昧で非現実的に思える。

 教室の喧騒はすでに遠く、背後から微かに聞こえるのみ。何もかもが静かで、僕の上履きのゴムが階段と擦れる音ばかりが甲高く響く。

 最後の一段を登りきり、僕は扉の前に立った。用務員室の出入り口と同じ、重たそうな銀色の扉だ。

 僕はドアノブを握って回してみた。鍵は掛かっていないらしい。試しに引いてみると、重い手応えを返しながらも扉は少しずつ開いた。クリーム色の日差しが床に広がり、涼やかな秋の風が柔らかく吹き込んでくる。

 僕は屋上へと踏み出した。コンクリートの床はひび割れが走り、所々に湿気を帯びて苔が生えていた。空には大きくて平べったい綿雲がいくつも横たわり、疎らな晴れ間からはちょっとばかりの陽光がこぼれ落ちてくる。

 さて、どこで休もうか。屋上の外周を見ると、金属製の柵がぐるりと張られていた。そのどこかに寄りかかって休もうかと歩き始めたその時、僕は改めて気付いた。

 ――ここにいるのは僕だけじゃない。出入口からは見えない位置で、鉄柵に寄りかかってこちらを見ている人影があった。

 半袖のブラウスと長いスカートからして女子だということは分かるけど、長く伸びたざんぎり髪のせいで表情はよく分からない。ただ、その様子からこちらを見ていることだけは確かだ。

 なんとなくだけど、きっとこの屋上は彼女だけの場所なんだ、と僕は直感的に悟った。そう思わせるだけの存在感が、ポケットに両手を突っ込んで佇む彼女の姿からは感じられた。

 僕はどうするべきだろう。すぐに引き返して屋上から去ったほうがいいんじゃないか、とも思った。だけどせっかくこうして顔を合わせたのだから、彼女と話してみるのも面白いかもしれない。少なくとも、休み時間を教室や校庭で過ごすような人たちと話すよりは、彼女と話したほうが分かり合えるような気がした。

 不安になる気持ちを抑えて、僕は彼女のほうに歩いていった。それでも彼女が泰然と僕のほうを見つめたまま動じないものだから、僕は何と声をかければいいか思いつかず、何も言葉が出なかった。彼女から2メートルぐらい離れた場所に立ち止まり、彼女と同じように鉄柵に背中を預ける。

 改めて見ると、彼女はその乱雑な髪型からは想像できない清麗な顔立ちをしていた。鋭さのある輪郭と、淡々とした物憂げな瞳が、なんとなく近寄りがたい雰囲気を漂わせている。

 数秒間の沈黙が過ぎた。僕は思い切って、彼女がなぜここにいるのかを聞こうと口を開いた。

「あのさ、キミは――」

「お前はどうしてこんなところに来たんだ?」

 僕の言葉を遮る形で、彼女のほうから話しかけてきた。しかも僕が言おうとしていたことを。

 ちょっと驚いたけど、嘘をつく理由もないので普通に返す。

「どうしてって言われても、ただ教室が息苦しいからここで休もうと思っただけだよ」

 すると彼女は表情一つ変えずに、落ち着いた様子で答えた。

「そうか、私もそんなところだ。いい場所だろう、ここは」

「まあ、そうだね。悪くはない」

 そしてまた数秒の沈黙。今度は彼女が口を開いた。

「ところで、お前の――」

「キミの名前を聞いてもいい?」

 お返しというわけじゃないけれど、何となく彼女の真似をして言葉を遮ってみた。思っていたよりも簡単にいいタイミングで割り込めた。

 すると彼女は、今まで微動だにしなかった口角を微かに吊り上げた。彼女なりの笑顔、なのだろう、多分。

「いいだろう教えてやる。河鳴谷かなりやサキだ。2年1組」

「僕は金紗砂きんしゃさレント。1年3組」

 なんだ後輩だったのか、と彼女は呟き、ふと思いついたように付け加えた。

「別に、私は敬語がどうとか気にしないからな」

「ああ、こっちもそのつもりだ」

 たかだか一年早く生まれただけの相手に敬語を使うなんて馬鹿らしいと以前から思っていた。彼女が気にしないと言うのならありがたい限りだ。

 彼女は相変わらずの歪んだニヤケ笑いのまま、楽しそうに身体を揺すってギシギシと鉄柵を鳴らした。

「呼び方はどうする?」

「呼び方?」

「お前は私をどんな名前で呼びたいのか、ってことだよ」

 なるほど、確かにそれは悩ましいところだ。河鳴谷先輩とでも呼ぶか? あるいはフラットにさん付け? 他に何か気の利いた呼び方はないだろうか。

「…………サキ?」

 僕がそう呼びかけると彼女はボディーブローでも食らったように咽せ返り、肩を震わせながら右手で顔を覆った。

「こんにゃろお、神妙な顔で臭いセリフ吐きやがって。口の臭い男は嫌われるぞ」

 そう言う彼女の口からはクツクツと笑い声が漏れていた。とても喜んで頂けたようで何よりだ。

 すこしするとサキは落ち着いたのか顔を上げて、明後日の方向を見ながら言った。

「はあっ、じゃあお前はレントでいいな。そう呼ばせてもらうぞ」

「はいよ、ご自由にどうぞ」

 なんとなくサキをやり込めたような感覚が楽しくて、得意気に答える。すると彼女は口元を歪めながらわざとらしく舌打ちをしてくれた。彼女はこういう捻くれた表情のほうが、笑顔よりも板についているような気がする。

「お前はなかなか面白いやつだな」

 サキは呆れ顔で独り言のように言った。それきり会話は途切れて、沈黙が流れる。彼女の顔つきは、最初と同じで感情の無い澄んだ表情に戻っていた。その冷たさに何となく胸が騒いで、僕のほうから会話を切り出した。

「サキはいつも、ここで何をしてるんだい?」

「何って、見て分からないか?」

 そう言われた僕は、隣のサキを改めて観察してみた。鉄柵に背中を預けたその体勢は、何をするわけでもなく、時どき持て余すように手足の位置を変える。斜め上方に向けられた視線は何も捉えずに虚空をさまよっている。

 そうして僕が首を傾げていると、サキはおもむろにこちらへ顔を向けて口角を歪めた。

「どうした、何か分かったか? それとも私に見惚れちゃったか?」

「ダメだ、さっぱり分からないや。キミ自身の口から説明願いたいね、その捻くれた顔をこれ以上見るのはつらいから」

 サキは僕の言葉を鼻で笑って受け流し、しばらく遠くを見ながら口を引き結んでいたかと思うと、唐突にポツリと口を開いた。

「空だよ」

 何の前置きもない、一言だけの回答。僕は意味が分からずに何のことかと聞き直したけど、サキはそんなこと気にしているのかいないのか、マイペースに間を置いてから話し始めた。

「空を見ているんだ。ただそれだけ、それ以上の意味は無い」

「だけど、いつも空だけ見てたら飽きるだろう?」

「どうして飽きるんだ? 空はいつでも変化してる。時計の針は半日で元の位置に戻るし、学校の授業も同じことの繰り返しだ。だけど空は決して繰り返さない。空を見ていて飽きるような奴は、本当は何も見ようとしていないのさ」

 サキの言葉に冗談めいた響きは一片もなく、迷いさえ感じさせない断定口調だった。

 僕は少し自分のことを蔑まれたような気分になって、反論しようかとも思ったのだけど、結局何も答えなかった。別にサキに口答えするのが怖かったわけではない。ただ彼女の感性に興味が湧いたんだ。

 ここまで確固とした美学を語れる人というのも珍しい。しかも、ただ空を眺めるというありふれた行為に執着するなんて、かなり尖った感性の持ち主なのだろう。

 僕はこういうタイプの人間は割と好きだ。極端な意見というのは面白いし、それを実践する覚悟のある人は尊敬している。もちろん自分に危害の及ばない範囲で、だけど。

 サキと同じように空を眺めてみれば、彼女の感じたことを理解できるだろうか。僕は彼女の真似をして鉄柵に背中を預け、前方の空を見上げた。

 今日はあまり晴れやかな天気ではない。平べったい雲が、灰色の腹を見せながら低く横たわっている。しかし完全な曇りでもなく、雲の隙間から覗くいくつかの晴れ間が穏やかな秋の日射しを漏らしていた。

 そんな中で特に印象的だったのは、僕の正面上方、ほぼ真上に近い角度に浮かぶ雲だった。まるで布を裁ちバサミで裂いたみたいに、真っ直ぐな晴れ間が雲底を縦断している。晴れ間の境界がはっきりとしているためか、その裂け目から射し込む光線の形は不思議なほど明瞭に見えた。

 光というのはこんな形を取るものだったのか。光の形という概念をここまで意識したのは初めてかもしれない。

 僕は鉄柵の上に後頭部を載せた体勢で、その雲と光を眺め続けた。すると、鉄柵を通して、背中にかすかな振動が伝わってきた。

 横を見てみれば、サキも僕と同じ体勢で鉄柵に深くもたれかかって空を見上げていた。

「サキは、何を見ているんだ?」

「何をと聞かれても困るな。あの雲、って答えても正しく伝わる保証はないだろ?」

 そう言って彼女は曖昧に頭上を指さしながら、「だけど」と続けた。

「多分、お前がいま見ていたのと同じ雲だ。そういうことにしておけ」

 それならそれでいいか、と納得して僕は再び空を見上げた。さっき見ていた雲は、未だに僕たちの真上で亀裂を開き、カーテンのような光を投げかけている。

「綺麗だな」

 僕は呟くように言った。サキは淡々と「私もそう思う」と答える。僕はもう少し、この不思議な空について彼女と語り合ってみたかった。だけど、既知の概念では表現できないこの空を何と呼べばいいのか分からず、僕はもどかしく感じた。

「この光景を、どんな言葉にすればいいんだろう」

「なんだ、お前はそんなことを気にするのか?」

 思わず口をついた僕の言葉を、彼女はあきれたように鼻で笑った。そして芝居がかった大げさな口調で語り始める。

「あのカーテンみたいな光の呼び名を知りたいか? たとえば天使の梯子、レンブラント光、薄明光線、光芒。そのすべてが当てはまるかもしれないし、どれも相応しくないかもしれない。それはお前が勝手に決めればいいことだ」

「勝手に決めろと言われてもね、雲の図鑑でも無けりゃ判断のしようが無いじゃないか」

「それはごもっとも。だったら一つ確かな方法がある。自分で名前をつけてしまえばいい。そうすれば間違いなく、その雲を呼ぶために相応しい名前ができるし、その名前を否定することは誰にもできない。だから私は、あんな風に亀裂が入った雲を『天人の落とし穴』と呼ぶことにした」

 思いがけずサキの口から非現実的な言葉が出てきたことに驚き、僕は思わず彼女のほうに向き直ってしまった。サキは意地悪く口の端を歪めて笑う。

「驚いたか? 意外とロマンチストだろう、私は」

「自分で『意外と』って言うのはどうかと思うけど、そうだね、驚いたよ。そんな可愛い一面があるなんて」

 するとサキは嬉しそうに鼻で笑って、再び空を見上げた。僕もそれに倣って上空に視線を向ける。

 サキが再び語り出した。

「知ってるか? あの高さにある雲――積雲の上には天人が住んでるのさ。ヤツらは雲の上を渡り歩き、世界中を旅している。だが生憎と、ヤツらは足下の雲が見えないんだ。雲は近くで見ると透明だからな。そのせいで、あんな風に亀裂の入った雲があっても、ヤツらは亀裂に気づかない。それで時たま、地上に落ちてきてるのさ」

「だから『天人の落とし穴』か」

「そういうこと。まあ天人の存在は隠匿されてるからレントみたいな一般人は知らないだろうけどな」

 サラリと語りながら、サキは背中で鉄柵をギシリと鳴らした。得意げに蘊蓄を語るそのしたり顔からは、嘘をつく時の迷いや緊張は感じられず、あくまでも自然に見える。

 僕は別に、彼女の言葉が真実だと信じているわけじゃない。だけどわざわざ否定するのは自らの愚かさを証明するだけだ。僕には彼女の言葉を否定するだけの確かな証拠が無いのだから。

 サキは相変わらずの調子で言葉を次いだ。

「だけど、雲に亀裂があるたびに天人に落ちて来られたんじゃ堪ったもんじゃない。だからヤツらに危険を伝えるための信号が決まっているんだ。本当は秘密なんだが、レントは面白いから特別に教えてやろう。一度しか教えないからよく聴いておけよ」

 僕が頷いて同意すると、サキは上履きの爪先でトントンと床を叩き始めた。

 ゆっくりと2回、短く3回、ゆっくりと2回、短く4回。それが彼女の刻んだリズムだった。

「さあ、これで天人に危険を報せることができた。あの雲の上にヤツらがいるとは限らないけどな。どうだ、今のリズム、覚えたか?」

 僕はもう一度頷いた。彼女の話に僕は強い興味を持ったけれど、気の利いた返事は思いつかなかった。

「だが、必要がないときに悪戯に信号を送ってはいけないぞ。ヤツらは臆病だからな、雲の上で怯えて動けなくなってしまう」

 それに対しても、僕は小さく「ああ」と言って頷くことしかできなかった。ロクな返答もできない自分を少しみじめに感じた。

 彼女は頭を軽く一振りして、顔にかかった前髪を払いのけた。そして、そのガラス片のような鋭い瞳で僕を見据える。

「どうした、さっきから間抜けな面をして。酸欠になった金魚の真似か?」

 彼女のその言葉で、僕はハッと我に返った。そして今まで探していた気の利いた返答を一度すべて諦めて、頭の中の感想をほとんどそのまま話すことにした。

「いや、なんとなくね、リサのこと、凄いなと思ったんだ。僕が思いもよらないような面白い話を……その、『知って』いるんだもの」

 するとサキは驚いたように目を丸くした後、ニヤリと広角を上げた。鋭い目を僅かに細めたその表情は、相変わらず意地の悪そうな顔だけど、今までで一番確かに笑顔として認識できる表情だった。

「まったく、お前はハッタリだけの小物だな。よく喋るガラクタと言っても過言じゃない。だけどやっぱり、なかなか素直で面白いヤツだ。時間があったら、またここに来るといい。スカイフィッシュの鳴き声を聞く方法を教えてやろう」

 そういうと彼女は、両手を使わず軽やかに鉄柵から離れた。そして2~3歩ぐらい歩いてからツイッと振り返ってこちらに目配せする。それと同時にチャイムが鳴り、昼休みの終わりを告げた。

「おっと、そこの扉の鍵は開けたままでいいぞ。私が来た時にも開いていたからな」

 そう言い残して、彼女は校内へ続く扉をくぐって見えなくなった。屋上を抜ける風の音に混じって、彼女が階段を降りていく音が微かに聞こえる。

 一人残された僕は、空を見上げてみた。さっき見上げた雲の裂け目からは、相変わらず日射しが降り注いでいる。

 少なくとも、今は天人が落ちてくる心配は無さそうだ。そんなことを考えながら僕は屋上を後にした。

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