断片Ⅲ ジェローム・スタントン

 煙草を取ってくれ、とジェローム・スタントンが言った。それで、トレントはベンソン&ヘッジスの箱から一本抜き取り、残りを投げて寄越した。彼がそれを咥えるのを見ながら、トレントは自分のぶんの煙草を真鍮のシガレット・ホルダーに挿し込んだ。

「いい」

 指を向けて点火してやろうとしたトレントに、ジェロームは手を振った。華奢ではないが骨張って、不健康に蒼白い手の甲。

「そのやり方は不味くなる」

 彼は微笑し、ヘッドボードに背を預けたまま、手元にマッチ箱を引き寄せた。トレントは黙って自分の煙草の先端に息を吹きかけ、いつものように魔法の火を点けた。部屋にひとつの採光窓から射し込んだ光が乱れたシーツの上に神聖な帯を作り、レンブラントの絵画さながらのコントラストを生み出していた。

 ジェロームは質のいい葉巻シガーやパイプ煙草よりも、この燃えるときに嫌なにおいのする紙巻煙草シガレットを好んだ。不愉快な味がするだろう、と彼は言う。有り体に言って私はそういったものを求めているんだよ、トレント。トレントは彼に倣って同じものを吸う。

「学生たちの間で君がどのように噂されているか知っているか?」

 細く煙を吐き出しながら、トレントは尋ねた。

「興味がない」

 ジェロームが灰を落とす。形のよい爪が灰皿の縁を叩き、硬質な音を立てた。彼は、上等の三つ揃えに身を包んだトレントとは対照的に、ほとんどなにも身につけてはいなかった。

「スタントン氏は18区から逃げ出そうとしている。彼は空虚であることに飽き飽きしているのだと」

「繊細なユリシーズ・ラングフォードみたいに?」

 ジェロームは首を傾げ、トレントは嗤った。

「勿論、きみは違う。きみは芯まで魔法使いだ。そうだろう」

 ジェロームはそれには答えず、煙草を揉み消した。そして、ベッドから降りて身支度を整えはじめた。トレントはソファに腰掛けたままその様子を見ていた。ふたりが大学のクレストタイを締めなくなってから、既に五年が経過していた。彼は七年。ウェストコートの釦を掛け終え、上着を羽織ったところで、ジェロームがトレントに歩み寄った。彼は不快げに口角を上げた。

「私を心配して来たのか? トレント」

 次の瞬間、トレントはものも言わず彼を床へ乱暴に引き倒した。彼の身体がローテーブルにぶつかり、十八年もののボウモアの瓶が倒れた。琥珀色の液体が彼の上に滴って、その真新しいスーツと絨毯とを染めていくのを、トレントはシガレット・ホルダーの吸い口を噛み締めながら見た。レーズンにも似たシェリー樽原酒特有のかぐわしい芳香が、煙草のにおい、むせ返るようなトレントの魔法の香りと混じり合って広がり、狭い部屋を満たした。

 今朝磨いたばかりの靴には、ウイスキーの滴が点々と飛んでいた。トレントは屈んでそれを拭うと、きれいになった爪先をジェロームの肩の下に入れ、彼の顔がよく見えるようにした。整えたばかりの髪は乱れ、瞼の上へとまばらに落ちかかっていた。トレントは喫いかけの煙草を始末し、倒れたボウモアの瓶を取り上げた。そして、立ったままそれをジェロームのグラスに注ぐと、自分でそれを飲んだ。トレントは、無抵抗で床に転がる男の姿を見ながら、こうして惨めに倒れているのが自分だったらよかったのにと考えた。そして戯れのように、革靴の先端で彼の顎から耳殻にかけてをなぞった。

「どうしてここへ来る?」

 倒れたままのジェロームが苦しげに、しかし落ち着いた口調で尋ねた。彼は完全に平静だった。トレントは、彼からほとんどスズランの香りがしないことに気がついた。下品なほどに魔法の匂いをさせているトレントとは対照的に。

「分からない」

 トレントは正直に答えた。

「私は多分きみを崇拝しているのだと思う」

「暴力がきみの信仰の形なのか?」

「おそらくは」とトレントは答え、ジェロームは薄い瞼を閉ざした。トレントは彼の表情の中に、なんらかの感情を掬いだそうとした。例えば、憐れみや嘲りのような。ところがどんなに目を凝らしても、ジェロームの端正な顔の上にはそのどちらも過ぎりはしないのだった。トレントにとって、ジェロームは彼の求める空虚そのものだった。

 トレントは彼に手を貸し、ジェロームはその助けを借りて立ち上がった。ジェロームの手は見た目に反して温かく、トレントは自分の手がいかに冷え切っていたかに気がついた。トレントは淡白に言った。

「済まなかった」

「なんの謝罪だ」

「友人としての」

 ジェロームは大声をあげて笑った。物静かな彼らしくもなかった。一頻り笑い終えると、彼は手の甲で自分の袖をひと撫でした。濡れていたスーツは見る間に裾から乾き、酒精アルコオルの薫りだけを残して元通りとなった。一部の隙もない紳士の姿となったジェロームは、僅かに笑いの余韻を残した表情で言った。

「友人のきみに警告しよう」

 彼は予告なしにトレントの首元に指を突っ込んだ。肩の糸屑を払うかのごとく、なんでもないことのように。トレントはぎょっとして身を引いたが、彼の指は既に銀の鎖を捉えていた。シンカーがシャツの外に引き摺り出される。自分以外の誰かがそれに触れているという事実に、トレントは恥も外聞もなく悲鳴を上げそうになった。トレントは彼が容易くそれを開いてしまうのではないかと考えた。二度と開かぬようにと他ならぬ自分がそれを熔接したにもかかわらず。

 ジェロームの長い指がシンカーの表面の、鈍い光沢を放つ彫り込み細工を撫ぜた。そのまま、指は熔着されたロケットの合わせ目をゆっくりと滑った。嬲るような手つきだった。

 トレントは恐怖に立っていられなくなり、ソファへと崩れ落ちた。ジェロームの手からシンカーが離れてからも、トレントは呼吸を忘れたまま目を見開いていた。ジェロームは鎖とロケット・ペンダントとをシャツの下へ元通り押し込みながら、ものも言えないでいるトレントに言った。

 ジェロームの超然とした眼差しは、かつてウィーンで見たジョルダーノの絵を思い起こさせた。叛逆天使たちを踏みつける聖ミカエルの、あの無感動な視線を。トレントは息を吐くことを思い出し、浅い呼吸を何度かした。そして、「分かった」と答えた。そう答えたあともジェロームは暫くの間トレントを見下ろしていたが、やがて彼は目を逸らし、ソファから離れた。

「続きはいつになる?」

 一転し、天気を尋ねるかのような調子でジェロームは尋ねた。トレントは困惑し、訊ね返した。

「続きとは?」

「言わせるのか?」

 今度はジェロームが困ったような顔になった。もっとも「そう見える」というだけで、彼が真実困っているかのどうか、トレントには判別がつかなかった。ジェロームはゆっくりと言った。

「きみの『礼拝』だよ」



 彼が出て行ってしまったあともトレントはソファに体を預けたままだった。トレントはふと、再び自らのシンカーを探り出した。そしてその磨耗した表面をなぞった。ジェロームがそうしたように。

 その瞬間、トレントの中に、彼を──ジェロームを暴いてしまいたいというほの昏い慾望よくぼうが湧き上がった。彼のあの白く清潔な皮膚を切り裂いて、その下にみっしりと詰まった内臓の全てを引き摺り出し、白日の下に曝け出してやりたい。それと同時に、トレントはまったく相反した衝動も覚えていた。すなわち、まったく同じやり方で……彼の手によって暴かれたいという慾望だった。二つの慾望をはっきりと自覚し、トレントは動揺した。

 トレントは引きちぎるようにしてシンカーを外し、忌まわしいそれを投げ捨ててしまおうとした。しかし、結局彼はそうすることができなかった。

 トレントはペンダントを再びシャツの下に隠し、緩んだタイを締め直した。そして、新しい煙草をシガレット・ホルダーへと挿しこむと、それをゆっくりとふかし始めたのだった。

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18区の魔法使い 識島果 @breakact

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