断片Ⅱ ユリシーズ・ラングフォード

 わたしが小さかったころ、魔法使いの男と交流を持ったことがある。今では考えられないことだが、要するに、まだ分別がなかったんだ。もっとも魔法使いのほうがどう思っていたかは分からない。わたしのような怖いもの知らずの子どもを面白がっていたかもしれないし、反対に疎んじていた可能性もある。ともかく、それを判断することができないほどには、当時のわたしは幼かったということだ。

 初めてその男を目にしたのは、病院の中庭だった。その日は真冬の殊に冷える日で、中庭の花壇にはうっすらと雪が積もり、マロニエの枝には朝露が凍りついて、霜を纏った裸の木々はまるで砂糖菓子でコーティングされているかのようだった。わたしは彼が魔法使いであることにすぐに気づいた。子どもはそういったある種の嗅覚に優れている。スズランが香ったわけではなかったし、彼が服の下につけていた──これはあとから知ったこと──ペンダントが見えたわけでもなかったが、とにかくわたしには彼が魔法使いであるとわかった。わたしは手袋の中で悴む指を何度か曲げ伸ばしし、1ペニー硬貨ほどの大きさの小石を拾い上げた。そして、男目掛けてその石を投げつけた。

 そんな顔をしないでくれ。随分昔のことだ。今考えればおそろしいことだよ。魔法使いに危害を加えようとするなんて! 石は振り向こうとした男のこめかみに当たり、血が流れた。真っ赤な血が彼の頬から顎へと伝い、汚れなき純白の雪の上へポタポタと滴り落ちた。

 わたしは狼狽えた。わたしは彼がそれを避けるか、なにか悪魔的な魔法の力によって砕いてしまうかどうかすると思っていたからだ。彼は痛そうに顔を歪め、革の手袋を外すと、生身の左手でこめかみを撫ぜた。指先がべっとりと汚れるのが遠目でも分かった。わたしはひどい罪悪感に襲われ、男に近づいた。男がこちらをはっきりと見た。今でもその瞬間のことを忘れることができない。離れた位置からでも、彼のエメラルド・グリーンの瞳の中に耀く金の虹彩が見て取れた。わたしはまさに、蛇に睨まれた蛙のようになった。

 その男こそが魔法使い、ユリシーズ・ラングフォードだった。


「魔法使い!」

 男がわずかに視線を逸らしたので、呪縛から解かれたわたしは勇気を振り絞って呼びかけた。声は震えていただろう。男は目を逸らしたまま、ゆったりと答えた。

「俺かね、坊や」

「やっぱり、魔法使いなんだ」

 彼はにこりともしなかった。大多数の大人が子どもには無条件に笑いかけるものだが、彼はそうではなかったというわけだ。思えば、わたしは彼の笑顔をついぞ拝むことができなかった。彼は興味なさげに頷き、突然屈んだ。何をするのかと思えば、一握りの雪を掴み、血に汚れた指をきれいにしているのだった。

 濡れた指をハンカチーフで拭い、手袋を嵌め直しながら、ユリシーズは尋ねた。

「きみはすべての魔法使いに石を投げるのか?」

 わたしが答えずに黙っていると、ユリシーズは何も言わずにそこから立ち去った。後に残されたのは、沈黙の重みと雪の上の血痕だけだった。わたしは何故だか、その血の痕を雪ごと持ち帰ってしまいたいような衝動に駆られた。こんな奇妙な考えが浮かんだのは、人生でもあのときだけだ。多分、あの晩また雪が降って、彼の血液は氷の薄い膜の中に閉じ込められて、やがて濁った水の中に混じりあってしまっただろうと思う。


 ユリシーズは次の日も中庭に現れた。わたしは、彼もまたこの病院に入院している誰かの見舞客なのかもしれないと見当をつけた。その誰かもまた魔法使いなのか、あるいは普通の人間なのかは皆目分からなかったが。一度言葉を交わしているので、彼に声を掛けるのはその前日ほど難しいことではなかった。子どもというのはそういうものだ。石を投げつけたにもかかわらず、わたしは無事に息をしていたし、周りの大人たちが言うように呪われる気配もなかった。彼の名がユリシーズ・ラングフォードであると知ったのはこの日だった。彼がそう名乗った。

 礼儀に倣えば、わたしは彼をラングフォードさんと呼ぶべきだったのだろうが、ユリシーズはわたしがどう呼ぼうと気にしなかった。敢えて言うならば、彼はなにもかもを気にしていないようにも見えた。

「どうして魔法使いが〈18区〉の外にいるのさ」

「魔法使いは嫌いなんじゃないのか」

 わたしの問いには答えず、ユリシーズは尋ねた。

「嫌いじゃないよ」

 わたしは答えた。

「嫌いじゃない相手に石を投げるのは道理に合わない」

「だって、魔法使いは悪いやつなんでしょ?」

「いいか悪いかで言えば、おそらくは」

 ユリシーズが肯定したので、わたしは驚いた。

「どうして悪いと思いながら、魔法使いになんかなるのさ」

「魔法使いはなろうとしてなるものじゃない。それに、きみたちには魔法使いが必要だ」

 ユリシーズの答えは常にこのように簡潔だったが、いつも要点を外していた。今では彼がわざとそうしていたのだと分かるが、当時は煙に巻かれたような、いつの間にか森の中で堂々巡りをしているような、なんとも割り切れない気分になったものだった。

「それで、シンカーはどこにつけてるの?」

 わたしは知ったかぶりをして尋ねた。シンカーが実際どんなものなのか、どういう形状で、どんな性質のものなのか、わたしは一切知識を持たなかった。

「それが魔法使いの証だって言ってた」

「誰が?」

「大人たちが」

 ユリシーズは白い息を吐き出した。それは溜息のようでも、ただ息を吸って吐き出しただけというようでもあった。

「見せてよ」

「駄目だ」

 魔法使いはにべもなく答えた。

「どうして?」

「きみにはそれがどういうものか分からないからだ。分からないものに見る資格はない」

「なんで?」

 意味が分からなかった。

「誰かの小瓶の中身を覗き見るにはそれ相応の覚悟がいるということだ」

 ユリシーズは分かりやすく言い換えたつもりのようだったが、わたしはやはりぽかんとしていた。なにしろ、わたしは小さな子どもだったし、魔法使いというものが実際どういうものなのかなにも分かっていなかったのだからね。



 彼に会う日が七日ばかり続いたころ、わたしは堪え切れなくなってとうとう尋ねた。

「どうしたら魔法使いになれる?」

「だれでもなれるわけじゃない」

 わたしの問いを予期していたように、ユリシーズは驚きもせず肩を竦めた。この頃には、彼のこめかみの傷は治りかけの瘡蓋になっていたが、それでもそれは彼の白い皮膚の上でひどく目立った。

「それに、なろうとしてなるものでも、なろうとしてなれるものでもない」

「だけど、あんたは魔法使いになったじゃないか」

 ユリシーズは傘を持ち上げ、その先端で、雪の上に線を引いた。彼が描いたのは円だった。ちょうど彼が中に入って立てるくらいの大きさの円。

「これが〈18区〉。ここは〈底〉だ」

 魔法使いは言った。

「きみたちが歩いている道は、枝の上にある。無数に分岐する枝の上。日差しがやさしく照らし出し、小鳥が囀る。地面は遥か彼方、くらやみの世界だ。そして、誰も彼もそのことに気づかない。前を向いて歩いているから」

 このとき、彼は初めて饒舌な一面を見せた。無口な男だと思っていたのでわたしは少なからず驚いたが、一度でも邪魔をしたら二度と続きが聞けないような気がした。それで、わたしは黙って耳を傾けた。

「ときどき、ふと立ち止まって下を見下ろすものがいる。そういうものだけがくらやみの存在に気づく。あるものは枝から足を滑らせ、あるものは自ら飛び降りて、〈底〉へとたどり着く。そして、それが魔法使いの素質そのものだ」

 ユリシーズは傘の先端でもう一度円をなぞった。円の辺縁は解けた雪と泥とで黒ずんだ。

「俺は内側の人間だ。そこのみが俺たちの棲家だ。きみたちのいる場所は外側。この外側すべて、日の当たるところすべて、きみたちの世界だ。それになんの不満があるのかね」

 正直なところわたしには彼の話の半分も理解できなかったが、とにかくわたしはこう答えた。

「魔法でやりたいことがあるから」

「なんだ、空でも散歩したいのか。フォークをタップダンスさせたり、木の葉を色とりどりの飴細工に変えたりしたいのか。ポケットの中にいっぱいのマジパンが湧き出すような、そんな魔法をお望みか?」

 彼の提案はどれもそれはそれで魅力的だった。しかし、わたしは首を振った。

「パパの病気を治したいんだ。魔法で」

「きみはきみの父親の病気を治したいと思っている」

 ユリシーズは歌うように繰り返した。

「ところが、そうでないものもいる」

「どういうこと?」

 神に誓って、このときわたしは本気で意味が分からなかったのだ。

「きみの父親の病気が治ってほしくないと思うものもいるということだ。ヨアン」

 ユリシーズは教えてもいないわたしの名前を呼んだ。

「どうして。パパが病気なのはよくないことだよ。パパの病気が治ったら、みんな喜ぶ。だって、パパは立派な人だから」

 わたしは半べそをかきながら言った。彼が言っていることの意味は分からなかったが、ただわけもなくおそろしかったのだ。

「みんなそう言ってる。ぼくはパパが好きだ。死んでほしくない」

「きみは魔法使い向きじゃない」

 ユリシーズは断言した。そして、彼は長いこと目を瞑って考えているようだった。彼は徐にマフラーを解き、寒々しい外気に首筋を晒した。そして、両手を首の後ろにやると、細い鎖に繋がれたそれを外し、わたしに寄越した。それがなんら価値のない、ただの丸めた紙くずであるかのように。わたしにはそれがなんだか分からなかった。

「もしかしたら、俺はきみに感謝しなくてはならないかもしれないな」

 彼は無感動に呟いた。

「俺にはもう必要のないものだ。開けたければ開けるといい。そうすれば俺の言っていたことが分かるだろう。ただし、今じゃない」

 そのとき、わたしは初めて彼がひどく疲れた顔をしていることに気づいた。痛みと苦しみと孤独と、わたしがまだ知らない幾つもの感情が彼の瞳に複雑なマーブル模様を描いていた。わたしが呆然と見つめているうちに、その感情の全ては溶け合い、平坦な灰色となった。一瞬のことだった。彼の瞳は元どおりのエメラルド・グリーンだった。

 話はそれだけだ。

 なんだい、ぽかんとしているな。それじゃあ落ちがないじゃないかって? だって、本当にそれで終わりなんだ。彼はそのあとさっさとその場を立ち去って、それきりだった。つまり、彼はその日以降忽然と姿を消してしまった。

 時を同じくして、わたしの父の病は医者も驚くほどのめざましい回復を見せ、八十五まで生きた。一時は余命数ヶ月とも言われたにもかかわらずだ。どう思う? わたしはどうも思わない。そう、さっきからきみがこれに釘付けになっているのは分かっているさ。御察しの通り、これがそのロケット・ペンダントだ。ユリシーズ・ラングフォードの持ち物。なに、怖がることはないんだ。ただのペンダントだよ。

 彼がどうしてこれをわたしに渡したのか、これが彼のシンカーだったのか、それともなにも知らない子どもをからかっただけなのか、わたしには分からずじまいだ。そもそも、彼が本当に魔法使いだったのかさえ、わたしには確かめるすべがないのだから。結局、彼は一度だってわたしの前で魔法を使ってみせなかった。

 なんだ。話は終わりだと言ったじゃないか。なに? そのロケットの中身を開けてみたかって? 

 随分つまらないことに興味があるんだな。開けたよ。なんということはない。空だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る