断片I トレント・エヴァンス

 溺れたあとのように激しく喘ぎながら、トレント・エヴァンスは目を覚ました。ひどく喉が渇いていた。トレントは起こした上体をそのまま前方に折り曲げ、胸郭の中で暴れ回る心臓を落ち着けるための努力をした。

 部屋中に濃密なスズランの香りが充満しているのが、自分でも分かった。本物の花の香りではない。香水でもない。どんな科学も、魔法でさえも、未だスズランの生花から香料を抽出することに成功してはいない。

 魔法の匂いだ。

 この夢を見た次の日は、大抵抑制が効かなくなる。〈18区〉の外に出るためには、一番濃いパルファムを使わなくてはならない。トレントは呼吸を整えると、窓を開けて換気をした。清浄な大気がスズランを押し流し、洗い清めた。少し気分が落ち着くと、トレントは顔を洗い、口を濯いだ。まだ悪夢が体の内側にこびりついているような気がした。

 いいや、実際にのだ。トレントはシンカーの鎖が傷んでいないことを確認すると、溜息を吐きながらそれを撫ぜた。トレントはそれ──シンカーの蝶番を二度と開閉できないように熔接している。同じことを試す多くの魔法使いがそうであるように、感傷や用心が理由ではない。〈18区〉の規定で言えばそれは違反に当たるのかもしれなかったが、トレントにとってはどうでもいいことだった。どちらにせよ、自分がその中身を忘れてしまうことは決してないのだから。

 身支度を済ませ、焼きすぎたトーストと泥水のようなコーヒーとでいつも通りの朝食を終えた。傘を掴み、階下へ。外は快晴だった。

 大学へ向かって歩き出すと、いつの間にか猫が脇にぴったりついてくる。銀の首輪をつけた、天鵞絨のような毛皮の美しい猫だ。

「トレント、こんな陽気のいい日まで仕事かい?」

 猫が若い男性の声で話しかけた。

「操物学専攻の学生どもはこのごろ効率的なサボタージュの方法と講師の粗探しにしか関心のないボンクラばかりだし、下っ端であるきみのことなんか初めから舐め腐っている。真面目に講義してやるだけ時間の無駄だというものさ」

「ザカライア、労働とはそういうものだよ。やりたくないときにやりたくないことをやるからこそ労働としての意味がある」

「君のその禁欲的な態度はむしろ被虐趣味といって差し支えない。尊敬に値する」

 ザカライアが皮肉っぽく言ったので、トレントも眉を上げてこれに応えた。

「そういう意味では、今君とこうして会話するのは一種の労働であるとも言えるな」

「おっと。まあそれはお互い様さ。仕事のあとに有声映画トーキーでもどうかな」

「気が向かない」

「『オン・ウィズ・ザ・ショー』でも?」

「女を誘うべき映画だ」

 猫の声に面白がるような響きが混じった。

「観たのか?」

「いいや。考えておく」

 トレントの返答を聞き、猫が身体をぶるりと震わせた。しなやかな動きで前足を持ち上げ、するりと立ち上がる。トレントが二度瞬きする間に、猫は若い紳士の姿になった。首輪はトレントのものに似た細い鎖のペンダントに。ザカライア・ベネット。それがこの男の名前だった。

「変身学の講義のあとで。場所はペンバートンズ・カフェ」

「〈18区〉の外は駄目だ」

 トレントは冷淡に言った。

「今日は出る予定がない」

「ならば〈鷹の森ホークショー〉」

 ザカライアがつり上がった目を細めた。

「確かに、今日の君はひどい。ひどく。スズランの群生地にいるみたいだ」

「早く歩き去ってくれたまえ。君の毛皮を今すぐ剥いでしまいたいという衝動を私が懸命にも抑えられているうちに」

「恐ろしい男だ」

「猫が好きなのさ。毛皮の美しいものに限るが」

 ザカライアが肩を竦め、方向転換して東棟のほうへ爪先を向けた。彼の姿は行き交う学生どもの波間にまもなく掻き消えた。


 講義のあとも、〈鷹の森〉に向かうつもりはなかった。ザカライアもそんなことは分かっている。ザカライアはトレントを信用していないし、トレントはザカライアを信用していない。

 魔法使いはそういうものだからだ。

 親しげに——一見してそう映る——肩を叩き合う学生らの姿に、トレントは口角を緩めた。胸元に揺れる彼らの体の一部、核、銀のロケット・ペンダント、シンカーが陽光を浴びて鈍い光を放つのを見ながら、トレントはほんの一瞬間彼らに深く同情し、憐れみ、共感し、軽蔑し、怒りを覚えた。彼らはまだ、なにかを得た気でいるのだ。喪ったものに代わるなにかを。〈18区〉に棲むということは、「喪ったままでいることを選択した」ということに他ならないというのに。しかし、蝋燭の炎にも似たその感情のちらつきは、すぐに立ち消えた。だれかが横からそっと吹き消したかのようだった。

 トレント・エヴァンスは誰のことも愛さない。大いなる力をもたらす空虚をこそ信頼していた。他の魔法使いがそうであるように。彼は喪ったままでありたいのだ。

 西棟に向かいながら、トレントはぼんやりした頭痛を自覚し、鼻歌を口ずさみはじめた。七年前に大学を除籍されたジェローム・スタントンのことを考えた。今夜は彼に会いに行こうと思った。

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