18区の魔法使い
識島果
プロローグ
まだあどけない顔をした少女がふと私を見上げ、もごもごと話しかけた。
「なんだかいい匂いがする。なんの香り?」
私は広げていた新聞を折り畳むと、少女へと笑い返した。
「当ててごらん」
少女はおずおずと私に近づき、私が親しげな笑顔を浮かべていることを確認すると、服に鼻先を擦りつけんばかりにした。
「ユリ……ううん、違う。ライラック?」
顔を顰める少女を見て、私は笑みを深め、首を振った。少女がぱっと笑顔になった。
「分かった! スズランだ!」
少女が頬を薔薇色にし、答えを得たとばかりに叫んだ。周囲の大人たちがぎょっとして振り返り、わたしたちを凝視した。
「間違いないわ。あなた、スズランの花の香り。前に嗅いだことあるもの」
顔色を悪くした母親がスタンドから駆け寄ってきて、少女の手を引いた。母親は私に軽く会釈をすると、納得いかなげな顔をした少女を連れてその場を立ち去った。
仕事先で香水を付け直し忘れたのは失敗だった。私は折り畳んだ新聞を屑篭へと放り込むと、手を挙げてタクシーを呼び、窓を開けた運転手へ話しかけた。
「〈18区〉まで」
運転手の眉のあたりが微かに緊張した。私は後部座席に乗り込み、ウエストコートの一番下の釦を外すと、寛いだ姿勢になった。流れゆく街の景色を眺める。私は溜息を吐いた。今日の仕事は随分と骨が折れた。今の私の使命は、自分の部屋でお気に入りのグラスを磨いて、18年もののグレンフィデックを一杯やることだ。
「〈橋〉の手前で構わない」
私は鷹揚に言った。私の頭の中では既に「シンギン・ザ・ブルース」が流れ始めていた。ビックス・バイダーベックのコルネットに合わせて爪先で拍を取りながら、私は今夜のことを考えていた。
「魔法つかいの旦那」
タクシーの運転手が懇願するように言った。
「できれば、そいつを止めてもらえると嬉しいんですがね」
私は無意識のうちに窓枠に沿って走らせていたささやかな火花を引っ込めた。そして軽く謝罪の言葉を述べたが、それ以降運転手は一言も口をきかなかった。まもなく彼は私を目的地へ送り届けるという職務を全うしたが、チップを受け取ることはしなかった。多くの飲食店の店員が私たちから余分な金を受け取らないのと同じように。
私を下ろしたタクシーが逃げるように走りだし、通りの向こうに消えてしまうと、私は向かうべき場所へと爪先を向けた。そこは、一見なにもない、道と呼ぶのも躊躇われるようなごく細い路地──大の大人一人が横向きになってようやく通り抜けられるような──だった。私は蟹歩きを試してみることはせず、落ち着き払って傘の先端をコツコツと石畳にぶつけた。
変化は唐突だった。石畳がもぞもぞと蠢きだし、煙草屋とパブ『アーネル・アームズ』との間に異質な〈橋〉が現れた。〈18区〉へと続く橋だ。
人々は私たち〈18区〉の住人を、敬意と侮蔑を込めて魔法使いと呼ぶ。私たちは内側の人間であり、喪った側の人間であり、得た側の人間であり、決して彼らに溶け込むことはない。私は胸に手を当てた。
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