宵闇の影
高柳神羅
第1話 宵闇の影
これは、俺が体験した実話である。
ちょっと理解しづらい部分もあるかもしれないけど、一生懸命語るのでどうか聞いてほしい。
それは、ちょっと蒸し暑い夏初めの夜の出来事だった。
どうにも寝苦しくて目が覚めた俺は、水を飲みに1階の洗面所に下りていったんだ。
家の中は静まり返っていて、自分の足音以外は何も聞こえない完全に無音の空間だった。
よくこんな暑い中、熟睡できるよなって独りごちながら俺は洗面所に辿り着いた。
洗面台の電気を点けて、俺は傍に置いてあるコップを手に取った。
水を一杯に注いで、俺はそれを一息に飲み干した。
水は気温が高いからかぬるくてとても身体が冷えるようなものではなかったけれど、汗でじっとりとした身体にはそんなものでも喉の渇きを癒す潤いになった。
本当に暑いな……氷枕を使おう。
鏡に映った自分の顔を見つめつつ、俺はそんなことを思った。
洗面台の電気を消して、そのままの足で俺はリビングに向かった。
キッチンの冷蔵庫を開けて、使われていない氷枕をひとつ取り出して。
それをタオルで包み、冷やりとした感触を確かめて俺はリビングを出た。
これでようやく安眠できる。そう思いながら、真っ暗な階段の手摺りに右手を掛けたんだ。
そうしたら──
右手に、何か柔らかいものが触れる感触があった。
最初、それが何かは分からなかった。
手摺りってこんな柔らかいものだったっけ? そう思いながら、俺は右手を引っ込めた。
真っ暗だったせいもあって、特に変わったものはないように見受けられた。何の変哲もない、普段通りの階段の手摺りがそこにはあった。
気のせいか?……
再度、俺は階段の手摺りに右手を持っていった。
やはり、そこには柔らかいものがあった。しっとりとしていて、生温かい、そんな感触が右手に伝わってきた。
例えるなら、汗ばんだ自分の手を触っているかのような感触だった。
俺は思い切って、それを握ってみた。
掌にすっぽりと包まれるほどの大きさのそれは、握っても何の反応も示さなかった。
大きさ、硬さから、それは人間の手であることが分かった。
何で、手が此処に──
俺は眉間に皺を寄せて、右の方に振り向いてみた。
そうしたら。
真っ暗な廊下の中に、何か黒いものが佇んでいたんだ。
身の丈は俺よりも若干背が低いくらい。ほっそりとした体型をしていて、まっすぐに、俺のことを見つめていたのだった。
影は俺が握った右手を振りほどこうともせずに、一言だけ、低く小さな声で言った。
「離して」
びくっとした俺は、慌てて右手を引っ込めた。
同時に階段の前から身を遠ざけて、道を開けるように、リビングの方へと後ずさった。
影はそのまま、俺からふいっと視線をそらして、音もなく階段を上がっていった。
階段はそこそこ古いから人が乗れば軋み音を立てるはずなのに、何の物音も立てずに、すっと階段を昇っていったんだ。
何だ……今の!?
俺は慌てて階段を上がって2階に行った。
踊り場に到着するが、既にそこには、影の姿はなかった。
干された洗濯物と、暑くて開け放たれた個室に続くドアがそこにあるだけで、影がいたという痕跡は全く残っていなかったのだ。
まさか、幽……
俺は今になって背筋に悪寒を感じて、汗の引いた腕を擦ったのだった。
夜の話は此処までだが、話自体にはまだ続きがある。
翌日に、妹が珍しく俺に話しかけてきたのだ。
「お兄ちゃん、夜中に階段のところにいた?」
「いたけど」
俺が頷くと、妹はああやっぱりと言って溜め息をついた。
「無言で真っ暗な中にいるのはやめて。幽霊でもいたのかと思ったじゃない」
何でも、昨日トイレに行った帰りに階段のところで俺とばったり出くわしたらしい。
階段を上がろうとしても俺が邪魔で通れず、仕方なしにその場で待っていたら俺に手を掴まれたのだという。
……ああ、昨日のあれは、妹だったのか……
幽霊だと思った自分が馬鹿らしくなり、俺は後頭部を掻いた。
「お前こそ歩く時は電気くらい点けろよ」
「すぐ部屋に戻るつもりだったから真っ暗でもいいかなって思ったの!」
妹は声を上げて俺のことを睨むと、ぷいっとそっぽを向いて行ってしまった。
そうだよな、幽霊なんているわけないよな。
俺は階段を上がっていく妹の背中を見つめながら、脱力した笑みを零したのだった。
これが、俺が体験した出来事である。
皆は、幽霊に出会ったという経験はしたことがあるだろうか?
幽霊だと思う前に、それは本当に幽霊なのかどうかを訝ってみてほしい。
正体は案外──身近にある何の変哲もないものであるかもしれないのだから。
宵闇の影 高柳神羅 @blood5
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます