道化は再び歩き出す

「少しは気分が晴れたか、フォースタス?」

「うーん、何とも言えない」

 俺はヴィックと父さんと三人で、キャムラン湖のほとりに来ていた。親子三人のバカンスだ。父さんとヴィックは、わざわざ俺のために休暇をとってくれたのだ。

 キャムラン湖は、アヴァロンシティの内陸部アガルタ特別区のさらに奥地にある湖だ。ここに父さんの別荘がある。

 子供の頃を思い出す。

 夏休みにここでみんなと遊んだ思い出。イタズラをして、大人たちに叱られる悪ガキ時代だ。あんな無邪気な時代ははるか昔、あの頃の俺は今みたいに傷や汚れはなかったし、ただただ光を追いかけていた。

 もう、とっくの昔に夢見る少年ではいられなくなってしまっている。エデンの園はすでに遠い。

 俺は相変わらず、部屋にこもって『ファウストの聖杯』の推敲を続けていた。ヴィックは「せっかくのバカンスなのに」と文句をたれていたが、俺はそんな気分ではなかった。



「緋奈がお前の子を孕んでおれば、楽しみだな。どんな子が生まれてくるやら」

 果心はギョッとした。

 久秀は、ニッと笑う。まるで、悪人というよりも悪童である。

 そもそも果心が知る久秀は、世間での評判ほどの悪人ではない。ただ、変わり者なだけだ。

「あの国士無双の孫が手に入るんだ。面白いじゃないか?」

「俺は不老不死を得るのと引き換えに、種なしになったんだ。だから、これから緋奈が孕むとすれば、お前の種だ」

「ふむ…確かに俺は他の女どももお前に抱かせたが、いずれも孕まなかったな。それはともかく、伴天連バテレンどもが言うには、人間の先祖は不老不死をなくしたからこそ、子を産むようになったのだな。ならば、もし仮に始皇帝が不老不死を得たならば、扶蘇ふそ胡亥こがいも必要なかっただろうな」

「それに、名将の子が名将とは限らない。趙奢ちょう しゃの息子がいい例だ。俺だって、父上ほどの才はない」

「しかし、お前は牛若丸と呼ばれていた頃の義経に兵法を教えていたではないか?」

「あれは、あくまでもあいつ自身の才能だ。俺は、それを伸ばす手助けをしたに過ぎない」

 久秀は果心に言う。

「いずれにせよ、俺にとってお前は、得がたい宝だ。俺が生きている限り、お前も緋奈も俺のものだ」



「フォースタス、夕食の準備をしようよ」

 ヴィックが俺を呼ぶ。俺とヴィックは、庭で料理の準備をした。

 チャンチャン焼き。かつての日本の北海道の郷土料理。これは主に鮭を使うが、今回はニジマスを使う。

 キャベツなどの野菜を適当な大きさに切り、魚の半身に塩とコショウをふりかける。そして、大きな鉄板を熱してバターを敷く。鉄板の中央を空けて野菜を置き、真ん中にニジマスの半身を乗せる。

 そして、白味噌を酒で溶いてみりんや砂糖を少し混ぜたものを魚の身に塗り、さらに鉄板の周りに流してから、アルミホイルをかぶせて蒸し焼きにする。

 火が通ったら、お好み焼き用のヘラで魚の身をザックリとほぐし、野菜と混ぜ合わせる。ハイ、出来上がり。

「うまいな、フォースタス」

 父さんもヴィックも、モリモリ食べている。俺は料理の腕にはそこそこ自信がある。あのスキャンダル以前に出演したバラエティ番組では「どれだけ一流レストランの味に近づけるか?」なんて企画に挑戦した事もある。

 しかし、今はまだ、凝った料理を作れるだけの心の余裕はない。

「ごちそうさま!」


 俺は小説の続きを書いている。小説の中の果心も、俺と同じく迷走している。

《クヨクヨするな》

 俺の頭の中の久秀が、あるいは、アガルタのフォースタス・マツナガ博士が言う。

《ほら、余計な力を入れるな。もっと気楽になれ》

 ドクターの励ましの声が実際に聞こえるようだ。俺は何かを吹き込まれたようだ。

「こりゃ、完全に主役交代だな」

《ふふっ、面白いじゃないか? それに、お前と果心は似ているからな》

 俺は物語のほころびを直していく。テニスンのシャロットの女がはたに向かうように、俺はタブレット端末に向かう。

 俺は手元にある黒い箱から黒い粒を取り出して噛んだ。サルミアッキ。これはかつての地球のフィンランドで食されていたが、「世界一まずい飴」と呼ばれていた。このサルミアッキを口に含んで噛むと、あまりのまずさに眠気が覚める。カフェイン入りのチューインガムみたいなものだ。

「よし、思い切って果心の一人称視点で書き直そう」

 そうだ。まさしく、そうあるべきだった。



 俺は大学に復帰した。


 もうすぐゴールだ。いや、新たなスタートだ。物語の先が見えてきた。俺は勢いづく。以前のスランプが嘘みたいだ。

 以前の過ちが招いた不運の反動のように、俺の執筆作業はなめらかに進む。

 俺は、果心と緋奈と久秀をゴールまで連れて行く。聖杯を手にして。物語は佳境に入る。

《俺たちはあの山の向こうを目指す。海を渡り、さらに進もう》

「海?」

《誰も追ってこないところまでな》

 天から何かが降ってきたかのように、物語は進む。俺は果心たちを追いかける。俺が果心たちをゴールまで連れて行くのではない。果心らが俺を引っ張って連れて行くのだ。

《俺は一旦は眠るが、いずれは目覚める。また会おう》

《どうか私たちを忘れないで》

《俺たちはお前たちと共にここに来た。そして、今もこれからもお前たちと共にある》

 過去から未来に続く光と風の奔流。俺は歴史の巨大な流れに乗って泳いで行く。

 地球史。

 俺たちアヴァロンの民は地球人の子孫だ。そして「地球史」こそが我々の世界の礎なのだ。超巨大宇宙移民船アヴァロン号は、はるか昔に地球を旅立ち、この惑星ほしにたどり着いた。この惑星の開拓は過酷であり、莫大な犠牲を払った。人間たちだけではない。人間の亜種である人造人間〈バール〉たちも犠牲になった。

 かつての「宗主」である地球連邦からの独立は、アヴァロンの民が勝ち取った栄光だった。


「過ぎ去った事は仕方ない。まずは、これからどんな道を歩むかが大事なんだ」

「父さん…」

「ただ過去を振り返るばかりでは、前には進めないぞ」

 そう、過ぎ去った事はどうにもならない。どうあがいたって、ライラは生き返らないのだから。俺は俺自身の仕事をするだけ。

 父さんとヴィックとのバカンスから一年。俺は、ある雑誌でエッセイの連載を始めた。短篇小説もいくつか書いた。しかし、『ファウストの聖杯』の推敲はまだ終わっていない。

 俺の『ファウストの聖杯』の主役は、完全に久秀から果心に代わっていた。そして、果心は俺の分身に他ならない。ならば、ヒロインの緋奈とは誰なのか?

 ライラではない。そう、あの娘、アスターティだ。しかし、彼女はまだ17歳だ。

「まだ17歳、いや、もう17歳か…?」

 そういえば、俺もすでに22歳だ。そして、ヴィックは芸能事務所〈邯鄲ドリーム〉の社長に就任して一年。社長と放送作家の二足のわらじを履いている。そして俺は、この邯鄲ドリームに所属している。ブライアンは俺のマネージャーだ。

 つまり、俺とアスターティは同じ芸能事務所に所属しているのだ。しかし、俺は彼女と顔を合わせるのを避けていた。

 やはり、怖いんだ。俺は彼女に顔向け出来ない。多分、アスターティは俺を許していない。ランスだって、いまだに俺を許してくれないんだ。ならば、俺に直接裏切られたアスターティが俺を許してくれないのは当然だろう。



「信長にとって俺はただの玩具おもちゃさ。だが、俺は奴の玩具のままではいられぬぞ」

 久秀は言う。確かに果心もそう思う。

 子供のような好奇心の持ち主。それは信長も久秀も同じである。しかし、だからこそ同族嫌悪が生じるのだ。

 共感とは、好意だけではない。お互いに対して自らの影を見て忌み嫌うのもまた「共感」である。人は、他者を自己の鏡とするのだ。

 果心と緋奈は、信貴山城内の離れでひっそりと暮らしている。久秀はたまに訪れるが、ちょっとした世間話をして過ごすだけ。他には、緋奈に琴や琵琶を弾かせて聴き入るくらい。かつての「宴」は遠い夢のようだった。

 ひょっとして、久秀は自分と緋奈がよりを戻せるように「荒治療」をしたのではないだろうか? 果心は、古くからの友がいまだによく分からなかった。

「果心、また歌ってくれ」

「歌?」

「そう、『楚辞』の〈天問〉に節をつけたあれだ」

 神は世界を作ったというが、その神は誰に作られたのだろうか?



 俺はバラエティ番組で、自虐的な道化を演じている。これも食べていくため。しかし、いつかは作家として立ち直ってみせる。そう、臥薪嘗胆だ。

 ヴィックら〈邯鄲ドリーム〉のスタッフたちの助けのおかげで、俺は徐々に運が向いてきた。

 そして、『ファウストの聖杯』はようやく完成した。一体どれだけ右往左往してきたのか? 俺は肩の荷が下りた。

 ヴィックはブライアンの姉ミナと結婚していたが、この社長と副社長の尽力で、ようやくこの小説の出版にこぎつけた。そして、俺の友人で劇団〈シャーウッド・フォレスト〉リーダーのスコット・ガルヴァーニは、早速俺の『ファウストの聖杯』の脚本を書き始めた。そのスコットは俺に、舞台版『ファウストの聖杯』の果心を演じてくれるように頼んだ。

「果心を演れるのはお前しかいないよ」

 俺は迷わず承諾した。やるしかない。何しろこの作品のタイトルは『ファウストの聖杯(The Grail of Faust)』、俺の名前は「フォースタス(Faustus)」。いかにも手前味噌だが、果心を演じられるのは俺しかいない。

 この物語の果心は、俺そのものなのだ。


 あの過ちから2年経った。俺は大学を卒業した。

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