楽園の蛇と黒い瞳のランスロット

「リジーか…」

 俺は唐突に思い出した。リジー…エリザベス・バーデン。俺の大学時代の恋人だった女だ。そいつはある日突然、何やら訳の分からない因縁をつけて、俺を怒らせた。俺は腹を立てて、自分から別れを切り出した。さすがに暴力は振るわなかったけど、理性が壊れそうなくらい怒ったのは確かだ。

 しかし、ふと思う。リジーは何らかの思惑で、わざと俺を怒らせて、俺の方から別れを切り出すように仕向けたのではなかったのか?

 まあ、今となってはどうでもいい。しょせんはその程度の縁に過ぎなかったのだ。

 今はただ、このひとと向かい合うだけ。

 ライラ。

「あなたの肌、何度触れても気持ちいいわ」

 俺は男としては毛深くない部類に入る。ユエ先生だって、毛深くない方だが、俺は若い分、肌の張りや艶があるのだ。

 ライラもまた、艶やかな肌の女だ。20代前半の女と変わらない潤いと張りのある、白い肌だ。俺は、この柔らかい罠にはまる。

「うっ…」

 俺たちチャオ(趙)家の遠い祖先に当たる趙の武霊王だって、このような美女に溺れたのだ。

 甘い「邯鄲の夢」。目覚めるのが怖い。目覚めれば、あっという間。現実の怖さが待っている。このままずっと溺れていたい。

「そういえば、私たちが初めて会ったのは、あなたがまだ小学生の頃だったわね」

 思い出した。確かにそうだ。この人はその頃から変わらない美貌だ。

 俺の本当の初恋相手は、実はこの人だったのかもしれない。

 ライラの舌が俺の舌に絡みつく。甘い「楽園の蛇」。俺は彼女をきつく抱きしめた。



果心かしん様! なぜです!? なぜ私を捨てるのですか?」

「ごめん、緋奈ひな

「なぜ私に弾正様のところに行けと言うのですか? 私、子供の頃からあなたをお慕いしておりましたのに!」

「俺もお前が愛おしい。だけど、俺にはお前の思いを受け止められるだけの覚悟はない。許せ!」

「そんな…。私、あなたのおかげで初めて女として目覚めて、悦びを覚えたのですよ! それなのに、それなのに私を捨てるのですか?」

 緋奈は果心にすがりつく。しかし、彼は彼女を振り切って城を去った。残された緋奈はその場に崩れ落ち、泣きじゃくる。

 その涙に呼応するかのように、小雨が降り始め、さらに雨は激しさを増していった。

「果心様…!」

 緋奈は泣き叫ぶ。天はさらに彼女の怒りと悲しみに呼応し、さらに雷雨をもたらす。



 俺は家に戻り、タブレット端末に向かった。一人暮らしのこの家で、今夜も『ファウストの聖杯』の続きを書く。果心は、緋奈という名の美女を愛したが、純真な彼女の真剣な思いを受け止めるのに戸惑い、さんざん悩んだ末に、彼女を久秀に譲り渡してしまった。この果心の「不実さ」は、今の俺に似ている。

 人が人の思いを真剣に受け止める。何て難しい、そして苦しい事だろう。俺は今まで、色々な人たちを裏切ってきた。現に、今の俺はユエ先生を裏切っている。とてもじゃないけど、先生に顔向け出来ない。

「俺は最低のロクデナシ」

 そう、俺とライラの関係はまごう事なき不倫の恋だ。それは、ライラの夫であるユエ先生への裏切りだ。そのユエ先生から、昨日外食の誘いの電話があった。俺は悩んだが、断るために適当な嘘をつく気もなかったし、むしろ、会いたいとすら思っているから了解した。


《やあ、フォースタス》

《ユエ先生? どうされましたか?》

《あさって、暇かい?》

《ええ、特に用事はありませんが》

《どうだい、僕と一緒に外食に行かないかい?》

《え?》

《評判の店だよ。どうだい?》

《は、はい。ぜひともよろしくお願いします》


 明日、ユエ先生と会う約束だけど、あまりにもつらい。俺はとんでもない畜生だ。

 ユエ先生、ごめんなさい。だけど、多分許してくれない。きっと「破門」される。だけど、その時はその時だ。誠意をもって謝るしかない。



 地球の昔から、庶民にとって有名人のゴシップは「ご馳走」だ。現代の惑星アヴァロンにおいても、常に売れっ子芸能人たちのスキャンダルが食卓に並べられる。それは怪しい湯気を立たせ、妖しい匂いを放つ。

 ゴシップのファストフード店。各マスメディアは、国民の政治やその他社会問題に対する不満をそらすために、男女のおあそびルビの三文芝居をパッケージに入れて、陳列する。しかし、社会に対して明敏な人間たちは、そう簡単にはマスメディアのハッタリには踊らされない。そして、そんな「ファストフード」は、深く物事を考えないミーハーなノンポリ連中しか食いつかない。

 いかにも毒々しい食品添加物に汚染された「ご馳走」、それが有名人のゴシップだ。いや、むしろ、その毒々しさこそが、かえってある種の人間の食指を動かすのだ。なぜなら、この世の「普通の」人間にとっては、あくまでも他人事に過ぎないから、気楽に娯楽や精神的なスナック菓子として消費出来るし、直接自分の立場を脅かすものではないから安心安全なのだ。

 しかし、今の俺の立場は危ない。今の俺の秘密が世間に知れ渡れば、俺はマスコミの連中に好き勝手に調理されて、三文ゴシップレストランのテーブルに載せられてしまう。いかにも怪しい味付けと飾り付けがなされた上に。


 食品用のメタリックスプレーで金色に着色されたローストチキンのように。


 かつての地球には「警察24時」などというテレビ番組があった。そして、現代のテレビでも、その手の特別番組は時々放送される。

 俺は昨夜、その「アヴァロン警察24時」を観ていた。アヴァロンシティの様々な犯罪、万引きや違法風俗店などの摘発やカーチェイスなどが、扇情的に展開される。ある意味、ポルノ以上の「ポルノ」だ。

「えげつないな」

 えげつないといえば、最近頻繁に起こるバール殺害事件がそうだ。それらは昨夜の番組にも取り上げられていたが、〈ジ・オ〉並びに〈神の塔〉についての言及は一切ない。そもそもあれらは、今のところは公式かつ明確に「テロ組織」だとは定義されていないが、世間一般ではカルト団体だと認識されている。

 ある州知事は、度重なる暴言失言でヒンシュクを買っているが、あの男は一部の有権者たちからは熱狂的な支持を集めている。具体的に言えば、保守的な価値観を持つ過激派白人キリスト教徒の有権者たちだ。彼らは女性蔑視傾向が強く、障害者や性的マイノリティーや非白人に対する差別心が根強い。かつての地球にいた白人至上主義者の再来だ。〈ジ・オ〉や〈神の塔〉を構成するのはそんな連中であり、奴らがあの暴言男を支持するのだ。


 そいつらはバールたちを「悪魔」として忌み嫌う。何しろ〈バール(baal)〉とは、旧約聖書で非難されている異教の神々に由来する名称なのだ。



「緋奈、どうか果心を恨まないでくれよ」

 久秀は、緋奈を抱きながら言う。深夜、一つのか細い灯りが抱き合う男女を照らす。

「あいつはな、お前の真剣な思いを受け止めるのが怖いんだよ。だがな、緋奈。決してあいつを恨んではならん」

「弾正様…?」

 女の白い柔肌が紅潮する。男はささやく。

「あいつはきっと戻ってくる。その時は共にあいつを楽しませてやろうではないか、緋奈?」

 久秀はニッと微笑む。

「それに、俺は心底からあいつが大好きなんだよ」



「やぁ、久しぶりだな、フォースタス」

「こんにちは、先生」

 ついに来た。恐れていた事態。

 ここは、セントラルパークの近くのイタリア料理店。しかし、ここはその立地条件にも関わらず、知る人ぞ知る隠れ家的な場所だった。

 それも、個室。間違いない。ユエ先生は、俺と二人きりで内密の話をしたいのだ。

「ここの料理はうまいだろう? 以前、ヒサと一緒に食べに来た事があるけど、あの人も気に入ってたよ」

「ヒサ? アガルタのドクター…あのマツナガ博士が?」

「あの人は面白い人だよね。下手な#普通の__・__#人間よりも、ずっと人間らしい」

 アーサー・ユエ先生は、フォースタス・マツナガ博士の正体を知る数少ない外界の人間の一人だ。そして、俺の母さんの古くからの友人でもある。

 ユエ先生は俺にとって、叔父のような存在だ。先生は、我が子のように俺をかわいがってくれる。

 しかし、この会食はまるで、曹操と劉備の会食みたいだ。いつ雷が落ちるか分からない。俺は、うまいはずの料理の味がほとんど分からなかった。

「さて、話したい事がある」

 出た!

「フォースタス。お前も僕も、お互いに隠し事がある」

 まさか? やっぱり!?

 先生は、穏やかな表情を崩さずに、淡々と言う。

「分かってるよ、フォースタス。お前とライラの関係」

 俺は冷や汗でビッショリになった。

「申し訳ございません! 確かに俺は、先生の奥さんとそういう関係です! しかし、奥さんは悪くはありません。俺が悪いんです。どうか、俺を殴ってください!」

「別にお前を責める気なんてないよ?」

 え?

 ユエ先生は、苦笑いしながら言う。

「隠し事があるのはお互い様。僕もお前に謝りたい事がある」

 先生はさらに言う。

「リジー…お前の以前の恋人。彼女がお前と別れてから、僕は彼女と付き合い始めた。それで、今も彼女と付き合っている。僕とライラの関係はすっかり冷めきっているし、リジーと別れるつもりはない。それで、僕はライラと別れて、リジーと結婚したい」

 まるで冗談。あまりにも悪質なブラックジョークではないか?

「ライラはお前をモデルに絵を描いているけど、それが完成したら、僕はライラに離婚話を持ちかける。もちろん、お前に慰謝料を要求するつもりはない。あくまでも、あいつがお前を誘惑したのだろうし、僕にはすでにリジーがいるからね」

 先生の衝撃発言を聞いて、俺は頭の中が真っ白になった。

「しかし…アスターティはどう思う? お前は僕よりあの子を心配した方がいいぞ。『黒い瞳のランスロット』よ」

 先生はニンマリと笑った。俺はその笑顔に対して、背筋が寒くなった。

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