楽園の女神

「やっぱり桜ってきれいね」

 彼女は携帯電話を取り出し、カメラのシャッターを切った。

 快晴の下での陽気、辺り一面、淡いピンクの洪水。プラチナブロンドの真っ直ぐなボブカットの髪と空色の目、透き通るような艶やかでなめらかな白い肌の美少女は、無我夢中で桜並木の写真を撮る。ひとしきり撮り終えたら、カメラ機能付きの携帯電話をショルダーバッグにしまい、自動販売機でミルクティーを買う。そして、ベンチに座ってミルクティーを飲み、容器をゴミ箱に入れ、バッグから一冊の本を取り出した。

 アヴァロン連邦歴345年、4月。かつての地球の日本では、桜吹雪のこの時期が入学式シーズンだった。

 アスターティ・フォーチュンは、今年の7月に15歳の誕生日を迎える。そして、今年の秋には10年生(現在の日本における高校1年生)に進級する。

 アガルタの人工子宮〈アシェラ〉から生まれた彼女は、6歳になってからアガルタを出て、一般社会で生きてきた。彼女は今、ヴィスコンティ家の里子として暮らしている。

 この家の女主人ミヨン・ヴィスコンティは、かつては大手芸能事務所の役員だったが、今は独立して、自らの事務所を立ち上げている。今のアスターティは、その芸能事務所の研修生というべき立場だった。

「フォースタスの新作」

 アスターティは、一冊の本を開いた。タブレット端末で読む電子書籍が当たり前のものになっているこの時代においては、紙の書籍は一種の贅沢品だと見なす者も少なくない。現在の惑星アヴァロンにおいては、図書館とは博物館の一種である。その最たる場所が、この街にある〈アヴァロンシティ地球史博物館〉であり、この惑星最大の大陸の西部にある〈アレクサンドリア図書館〉だ。

 フォースタス・チャオ。今年の9月で20歳になる、新進気鋭の現役大学生作家。父は中国系とアイルランド系の血を引き、母は日本人の血を引く。フォースタスの母ミサト・カグラザカ・チャオは理学博士であり、アガルタの研究者である。

 人造人間〈バール〉は、基本的に生殖能力がない。性行為自体は可能でも、新たな生命は生み出せない。それは、人間たちがフランケンシュタイン・コンプレックスに基づいて彼らに課した足枷だ。

 しかし、彼女は違う。

 去年、アスターティは初潮を迎えた。そして、アガルタで身体検査を受けて、妊娠能力がある事が確認された。そして、それこそが彼女の存在意義だった。

「そうだ、家で読んだ方がいい」

 彼女は本をバッグにしまい、立ち上がった。


「何とか余計な干渉はなかったようだな」

「うむ。フォースタスとの結婚が実現するまでは、邪魔が入ってはいけない。しかし、当のフォースタスには困ったもんだ」

「フォースタス君が?」

「ああ。アスターティがまだなのをいい事に、他の女と付き合っておる。以前のカノジョとは大学時代に別れたようだが、今はどうしているやら」

「しかし、当人の母親のカグラザカ博士は何も言わないんだろうかね?」

「博士も心配しているでしょ、さすがに」

「引き続き、アスターティの監視と警護だ。もちろん、フォースタスもな」

「フォースタス君、まさかあの娘の事を忘れてるんじゃないよね?」


 セントラルパークでは、華麗に桜吹雪が舞い上がる。



なら、地球史の時代からあったけど、その最たるものが〈バールサイドbaalcideね」

 ミサト・カグラザカ・チャオ博士は、アガルタの自室でタブレット端末の画面を見ている。ニュースサイトに気になる記事があるのだ。

 また、バールをターゲットにした「殺人事件」が起こったのだ。被害者は、連邦政府の管理下にある研究機関であるアガルタで生まれたバールではない。

「民間企業製のバールか…」

 被害者は、薄紫色の髪に薔薇色の目の女性型バール。彼女は、バールばかりを集めた売春組織に所属している娼婦だった。

「人造人間と言えども、自分たちの人間と大差ないのに…」

 ミサトは眉をひそめた。しかし、バールたちに対して生理的な嫌悪感を抱く人間は、少なからずいる。

 同性婚が合法化されている今のアヴァロン連邦でさえ、「伝統的な価値観の復権」という名目で同性婚の廃止を訴える政治団体や宗教団体があるのだ。

 そして、そいつらは、同性愛者やトランスジェンダーなどの性的マイノリティーやセックスワーカーに対する差別と連動するかの如く、バールたちの排斥をも求めている。

 かつての宇宙移民船〈アヴァロン〉号は、中立公正な価値観の移民希望者たちを優先した。しかし、それでも狭量な人間たちは次々と生まれるのだ。

 ミサトはため息をつく。

「大昔の地球の学者の研究結果。働き蟻に何割かいる『怠け蟻』を除いたら、残りの働き蟻の何割かが新たな『怠け蟻』に変わる。多分、人間社会も同じね」

 美しい蝶に嫉妬する蟻は、いくらでもいるのだ。



「少しでも多く、曲を書き溜めないと」

 アスターティは、自室でキーボードとディスプレイに向かう。部屋の壁一面には、様々な書物を収めた本棚が並ぶ。彼女は子供の頃から、電子書籍よりも「紙の本」を好んでいる。他には、これまた古典的な媒体であるコンパクトディスクを並べた棚がある。それらの中には、地球史上の名高いミュージシャンたちの作品群がある。

「どうだ、アスターティ。お前も弾いてみるか?」

 彼女がアガルタを出る前の日、アガルタの研究者の最長老、フォースタス・マツナガ博士は言った。アスターティとアスタロス、そしてフォースタス・チャオは、博士のピアノの演奏に聴き惚れていた。それ以来、彼女自身の人生の目標は、プロのミュージシャンになる事だ。

 アスターティは、ロックバンドで使われている武器はだいたい演奏出来る。ギター、ベース、ドラムス、そしてキーボードだが、いずれもすでにヴィスコンティ家にあったものだ。〈ママ〉ミヨンの父は音楽プロデューサーだったが、数年前に交通事故で亡くなった。

《世界最強の歌姫ディーヴァを世に出す》

 それがミヨンの父の野望だった。そして、アガルタから、その歌姫の卵たる者を里子として迎えた。しかも、作詞作曲の才能までもある逸材だ。

 アスターティがヴィスコンティ家に里子として迎えられたのは、ミサト・カグラザカがミヨンの古くからの友人だったから、そのミサトの推薦で、ヴィスコンティ家がアスターティの受け入れ先に選ばれたからだ。もちろん、ヴィスコンティ家はアスターティが何者であるかを分かった上で受け入れたのだが、彼女と同様に、一般家庭で養子や里子として迎えられるバールは少なくない。

 惑星アヴァロンが地球連邦の一部だった頃は、人造人間であるバールたちに対する迫害が表立ってあった。今でもバールを狙う犯罪は珍しくはないが、地球連邦から独立する前のアヴァロンでは、バールたちに対する差別が制度としてあった。地球史におけるアメリカの黒人差別にも例えられるほどのものだが、同時に、同性愛者やトランスジェンダーなどの性的マイノリティーや、セックスワーカーに対する差別にも通じるものでもあった。

 そんなバールたちに「人権」を認めたのが、アヴァロン連邦初代大統領のアーサー・フォーチュンだった。そして、アスターティの「フォーチュン」という苗字は、この「アーサー王の再来」にあやかって名付けられた。


 春の陽気の中、桜色のきらめき。曖昧な暖かさの中の、明快なひらめき。

〈Lucidity〉

 そうだ、この曲の題名にふさわしい単語だ。だが、曲の完成度はまだまだ足りない。フォースタスが書いている文章と同様に、いくらでも「推敲」が必要だ。


「アスターティ、おやつよ」

「はーい」

 ヴィスコンティ家の長女、カーミナ・ヴィスコンティ、愛称はミナ。ミヨンの娘で、ブライアンの姉。フォースタス・チャオの弟ヴィクターのガールフレンドで、22歳。もうすぐ大学を卒業するが、就職先はすでに決まっている。母の会社、芸能事務所〈ゴールデン・アップル〉だ。

 ミヨンは元々は、大手芸能事務所〈ゴールデン・ダイアモンド〉の役員だったが、他の者たちとの熾烈な権力争いの結果、独立して新たに会社を立ち上げた。その後、彼女の古巣は新たなスターを生み出した。

 ロクシー…ロクサーヌ・ゴールド・ダイアモンド。かつてはカリスマモデルだった人気歌手であり、金髪碧眼の華やかな美人。その名が示す通り、彼女は〈ゴールデン・ダイアモンド〉の看板娘だった。

 ミナは缶入りミルクティーと緑色のマカロンを持ってきた。

「抹茶? ピスタチオ? あ、抹茶だ。いただきます!」

 アスターティは、抹茶味のマカロンを口に放り込んだ。彼女は子供の頃から、抹茶味のお菓子やデザートを好んでいた。

 部屋にはベッドや勉強机、本棚やクローゼットなどの基本的な家具のみならず、楽器を置くスペースもあった。もちろん、作詞作曲用のコンピューターが置かれた机もある。部屋の半分弱を占める空間が、ミュージシャンの卵であるアスターティの「ワークスペース」だ。

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