帰るさ
葦元狐雪
帰るさ
天高く馬肥ゆる秋を
肌を容赦なく焼く陽光を礼賛する、汗みずくの少年少女の駆けるのを横目に流しながら、自身の面影をそこに落とし込んだ。
——あんな頃もあったな。
大人の目からしてみれば、彼らとたいして変わらないのだろうが、受験生という肩書きも手伝ってか、私は彼らとの確乎たる違いを確信していた。大人ぶっていたのだ。
そのくせ、年相応の垢抜けていない服装をして、安価なママチャリを傍に置く私はどんなに滑稽だったろう。しかし、当時の私にそのような意識はなかった。
手を
その坂を先の少年少女がぐんぐんと登って行く。蛍光色をした虫籠の紐を
二人の背姿が陽炎に重なるとき、庇の間から漏れた汗が目に沁みた。たまらず眼許を拭った。そして再び坂に目をやると、少年少女の姿は跡形もなかった。
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窓越しにラジオ体操の音楽が聞こえてくる。近所の公園からだと知れる。
皆勤賞などという一過性の名誉のために、甲斐甲斐しく通っていた時分も今や遠い昔に感ぜられる。
早朝の
親の用意した簡単な朝食を済ませ、しばし休憩したのち、私は勉強机に向かった。
時計は午前八時を示していた。玄関扉の錠の落ちる音を遠くにたしかめると、私はシャープペンシルを二度ノックした。
親の留守中にこっそりとエアコンを使ったことがあったけれど、その月の電気代が異様に高額だったため、それはすぐさま親の露顕するところとなった。かくして、私の実家のエアコンの使用権は永劫剥奪された。
私の苦熱を和らげるのは扇風機と、朝涼のみである。したがって、午前中は机にかじりつき、扇風機の存在意義を失う気温の高い午後からは、塾に涼みにゆくのである。
昼食に冷麦を平らげた私は、ふっと薬味の香りがする息を吐くと、キッチンの白いタイル張りの壁を眺め見てつぶやいた。
「夏休みとは何ぞや」
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塾はだいたい午後九時あたりに終わる。
アルバイトの若い女子大生が、おませな思春期中学生たちから、のべつまくなしの半ばセクハラじみた質疑に困惑するのを
時によると帰りが遅いと、「わからないところを質問していたのだ」と言えば
成長期特有の恐ろしい空腹に
一人、二人と仲間が辞別し、ようよう私は夜に孤独になった。
千々にまばらな暗雲が、
私の実家は山の上の方に位置するので、とりもなおさず私が最後に残る。
先ごろまでの喧騒の余韻が
ちょっと歩くと、山道がある。
私は自転車と共に山道の入り口に立った。
いつものごとく人気がない。遥かには
——帰らねば。
私は汗ばんだ掌をシャツで拭うと、ハンドルを握り直した。タイヤがゆっくりと動き始める。カラカラと回転する音が耳障りになった。
この山道は学校、親共々が再三再四に
されば、現下蒙昧たる私の愚行は秘密裡であった。
比較的安全とされる正規のルート——いわゆる通学路を辿るのと、この山道を辿るのでは帰宅時間に三十分くらいの差が出る。
いささか早足気味だった。
にわかに鳴き始める蝉の声の大きさに驚いたり、得体の知れぬ何やらぬめっとしたモノを踏みつけて総毛立ったり、好きな曲を頭の中で諳んじたりしながら進んだ。
汗で張り付いたシャツの感触が不快だ。シャワーを浴びてさっぱりしたい。ご飯をお腹いっぱい食べたい。アイスをかじりながらゲームがしたい......
いつとはなしに、私の裡の漠とした不安は、かくのごとき慾望に包摂されつつあった。
ふと、キーンという音に耳を
雑然とした
あの喧しい蝉の鳴き声や、葉叢のさざめきさえ聞こえない。私に再びあの不安が拡がってゆくのを知覚するや、頭の先から背筋までを、一滴の氷水が
そぞろに首を巡らせる。しかし、私の背後には有るか無きかのガードレールの白さと、遠く過ぎた街灯の淡い光が息を潜めているばかりであった。
耳鳴りは依然として止む気配がない。
私は生唾を飲んだ。
多湿の夜気の息苦しさは、輪をかけて酷くなったと思いなされた。
——歩け。
一歩、踏み出した。そのとき私は、一種の疑心にかかずろうた。
私が私に命令したのだ。誰でもない。自分だ。間違いない。そう言い聞かせ、あたかも棒切れのように不確かな足で、アスファルトの地面を蹴った。
それは気のせいだったろうか。
右目の視界の端に、小さく
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立ち止まるな。
不思議なことに、今度は私が私に逆らった。足が止まった。ブレーキが軋んだ。自転車の緩慢に坂を降ろうとしているのを、両腕にひしひしと感じながら、私は直立不動の態でゆっくりと首を回した。
白髪の老婆だった。
苔生した岩壁を背負う彼女は夜目に
私はふと安心をした。目に認めたおりに思わず息を飲んだが、どうやらお化けや妖怪の類でなく、血の通った人間らしいということが何となしに判ったからだった。直観だった。
なんだ、ただのお婆さんか。驚かしやがって。心臓が止まるかと思ったぞ。
内奥で悪態を吐いたのも束の間、私は或る違和感に逢着した。
——何故お婆さんはこんなところに居るのだろう。
不意に興ったこの疑問は、私にそこはかとない恐怖と混乱を
思考は混沌を極め、考え得るあらゆる可能性を反故にして、老婆の姿態が突如として現実味のない『人ならざる者』のそれと見做された。
私は遮二無二坂を登った。
派手な音を立てるのも憚らず、力の限り自転車のペダルを漕いだ。心臓の拍動と
結局、一息に
やがて正直に事情を話した私の頬に、容赦ない平手打ちが飛んだのである。
$
亭々煌々と照る太陽をちらと仰ぐと、私は陽炎を目指した。
奥処の家並みの上に
少年少女の途絶えたあたりに差し掛かると、右手に曲がり角があった。ため池に通じる急傾斜の長い階段が向こうにあった。ため池には金網が張り巡らされており、簡単には入れない造りになっている。階段の両側を
私は額の汗を拭うと、登攀を再開した。足元にまとわりつく熱気を攪拌しながら、黒髪の潜熱を白い匂やかな頭皮に感じていた。
その途中、陽炎の
<了>
帰るさ 葦元狐雪 @ashimotokoyuki
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