猫舌ゴチソウ帳 第4皿「英雄、肉を焼く」
神田 るふ
猫舌ゴチソウ帳 第4皿「英雄、肉を焼く」
所によっては梅雨が明けたそうです、猫乃でございます。
これから暑くなる時期に美味しくなるものといえばビールですが、この時期、屋外でバーベキューや焼き肉をしながら呑むビールはまた格別の味だと思います。
私も先日、屋上ビアガーデンにてビールとバーベキューを楽しんできました。
私が食べたバーベキューは鉄串に肉を刺して焼いたものでしたが、この料理法は本来のバーベキューではないそうです。実際は肉の塊を数時間、時には半日以上も直火で焼いたり、蒸し焼きにして作る料理なのだとか。日本でバーベキューと認知されている料理スタイルはグリルにあたると言われています。
一方、肉を串に刺して食べる料理法はヨーロッパでは随分古くから伝えられてきました。
ホメロスの大叙事詩『イーリアス』では我々日本人が一般的に考えているバーベキューのような料理が登場します。
試みに、その場面を抜き出してみましょう。
パトロクロスは肉切り台を炉の光の届くところに持ち出させて、そこへ、羊と、肥えふとった山羊の背肉を並べておき、その上に、ふとらせた豚の後腰肉の十分に脂ののったのを置くと、アウトドメーンが肉を支え、アキレウスはあっという間に肉を切りさいて焼串にさし、一方では神とも見えよう戦士メノイティオスの子が、火を大きく燃やし立てた。
それから火がおおかた燃えつくし、焔が衰えかけたとき、その炭火を布き拡げて、先ほどの串をかけ渡した。
そして、串を取り上げ、聖い塩を肉に振りかけて味付けをし、十分に焼き上げてから木の盆に盛り付けた。
(呉茂一訳による。一部、現代的な表記と表現に訂正した)
串に肉を刺して焼くところなど、まさに我々がよく知るバーベキューですね。
味付けは塩のみのシンプルなものだったようです。
この場面の面白さは、ギリシアの大英雄であるアキレウスや彼に匹敵する英傑パトクロスたちが自分で料理をしているところだと思います。
天を突くような大男のアキレウスが一生懸命肉を切っているところを想像すると、なんだかほほえましくなってきますよね。
ちなみに、この場面ではヒツジや、山羊、豚が食材として出てきますが、古代ギリシア時代の一般的なメインディッシュは山羊の肉だったといわれています。
私はまだ山羊を食べたことがありませんが、非常に個性的な味と香りをしているらしく、食べなれるにはなかなか労力がいるとか。沖縄ではよくお目にかかる食材らしいですね。私は山羊の肉と聞くと北欧神話の雷神トールの逸話を思い出してしまいます。トールは二頭立ての山羊に車を引かせているのですが、空腹になるとその山羊を殺して食べてしまいます。しかし、翌日になると何事も無かったかのように山羊たちは蘇っているため、トールは飢えることなく食事にありつけるというお話です。雷神は豊穣神であるため、尽きることのない食事はそのシンボルでもありました。ケルト神話の豊穣神ダグザが持っている壺には何時もお粥が入っていましたが、そのお粥は何杯食べても決して減ることなかったと言われています。
ところで、先ほどのアキレウスたちの宴会には牛肉が全く出てきませんね。牛肉、といううより牛は古代ギリシアでは最も神聖な動物だったため、主に宗教儀式の犠牲として用いられていました。そのため、牛肉は滅多に人の口に入るものでは無かったのです。牛の肉は主にギリシア神話の主神ゼウスを祭るオリンピュア祭の際にゼウスの神殿に置かれた祭壇に捧げられる供物として利用されました。この際、牛の肉にハエがたかるわけですが、古代ギリシア人はこのハエをゼウスの御使いと考えていたようです。古代神話研究家の中にはこの逸話から後の時代に登場する大悪魔、蠅王ベルゼブブのモデルはゼウスではないかと考える人もいるそうです。一般的には、ベルゼブブのモデルはオリエント地方の大神バールであるとされていますけどね。
余談ですが、牛はゼウスのシンボルとされていました。一方で、ギリシアから遠く離れたインドのバラモン教では雷神にして主神であるインドラが登場しますが、インドラのシンボルもまた牛でした。バラモン教を発展させたヒンドゥー教では今でも牛は聖なる生き物とされ食べることがタブーとなっています。ギリシアとインド、奇妙な共通点がありますね。
さらに余談ですが、酒の神ディオニュソスの祭りでは彼を信奉するバッコイと呼ばれる女性の集団が生きた牛を貪り食うという儀式がありました。ゼウスのシンボルである牛を、ギリシア社会では低い立場であった女性たちが食い殺す。これはゼウスを頂点とする宗教社会だった古代ギリシアの価値観を根底から覆す儀式でした。ディオニュソスがトリックスターとされる由縁でもあります。
さて、お肉が出たからには当然お酒も必要になってくるのですが、この個性的な山羊の肉に対抗するかのごとく、ギリシアのワインもかなり尖った味をしていたそうです。
古代ギリシア時代のワインは現在のワインのように種や皮を分離させず、そのまま発酵させていたため酸味や渋みが非常に強かったといわれています。そのままではとても呑めないのでたいていの場合、水で割って呑んでいました。水割りを作る水割り器は中流以上のギリシア人の家庭には必ず常備され、宴会の際は家長が自らワインの水割りを作っていたそうです。
ところで、このワインの水割り、時として水ではなく、海水が用いられる時もありました。松脂やハーブを入れて味を調整することもよくあったそうで、こうなると飲料というよりスープに近い状態だったと察せられます。これらのワインの味付けは強烈な味わいを持つ山羊肉の味を口の中で中和させるためだったと考える説がありますが、おそらく正しい見方であると言えるでしょう。
ちなみに、ワインの味を調節する飲み方はその後の中世ヨーロッパに至るまでさかんに行われました。今のようにワインそのものの味を賞味できるようになったのはフランス革命以後のことであり、数千年にも及ぶワインの歴史の中においてはごく最近の出来事であるとも言えます。
また、古代ギリシア時代の宴会では、ワインは大椀にいれて一同で回して飲んでいました。日本も中世までは同じように回し飲みをしています。また、古代ギリシアでは男性と女性が同じ場で酒を飲むことはなく、遊女のような存在を除けば、夫人や子女が男性の宴会場に足を踏み入れることはありませんでした。
ちなみに、現在、ギリシアはワイン作りに非常に力を入れています。現在、イタリア、スペイン等の南欧諸国は固有種のブドウを使用したワイン作りが大ブームであり、それを追いかけるようにしてギリシアもギリシア固有のブドウを使ったワイン作りを始めました。日本のワイン輸入業者もいろいろと仕入れるようになっており、お酒好きな私としては楽しみな限りです。
何時か、山羊の肉を食べながらギリシアのワインを飲んでみたいですね。
それでは今宵もごちそうさまでした。
猫舌ゴチソウ帳 第4皿「英雄、肉を焼く」 神田 るふ @nekonoturugi
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