第4話 神様転じ、塞翁が馬
「神をこんなタコ糸ごときで縛り付けるとは……! この罰当たりめ!!」
そう騒ぎながら、一匹のハエが俺の頭の周りをくるくると回った。そのハエの胴体には、タコ糸が括り付けられている。俺が付けたのだ。先日の家庭科の授業で使ったものが、まだカバンに入っていたのは嬉しい偶然だった。
どうにも信じがたい話であるが、このハエこそが神様なのである。どうやらあっちの世界の者が、こっちで行動する際は、何かしらの実体を持たなければならないらしい。
では、何故ハエの姿など選んだのか、と思うのは、当然の疑問である。その問いに対する神様の答えは「動きやすいと思ったから」ということだった。また、彼は最初のトラックの一撃で勝負が決するとばかり考えていたらしく、とすれば、こっちの世界での滞在時間は数分程度に過ぎないので、俺に見つからないように行動できれば、姿などどうでも良いと思っていたようだ。しかし、それも俺が魔法を思い出したことにより、見事に裏目に出た。いい気味である。
「こっちの神様じゃねーんだし、罰なんか当たらねえよ」
そう言って、飛び回る神様に一発デコピンを食らわせると、ハエは力なく螺旋状に宙を舞った。神様が怒りの声をあげた。
「貴様ー! ろくな死に方はせんぞ! 覚えておれ!!」
「どっちにしろ、殺す気満々なんだろが……」
神様はなんとか俺の手から逃れようと飛び回るが、タコ糸をしっかりと結び付けたので、それは適わない。今回、神様を縛り上げるのには“クラブヒッチ”という結び方を使っている。あっちの世界の船乗りに、ロープワークを教わっていたことが役に立った形だ。こんな技術なんて、こっちの世界ではキャンプの時くらいにしか役に立たないと思っていたのだが……、人生、何がどこで役に立つか分からないものだ。
そして、俺はその糸の反対側を手に、歩を進めた。そろそろ前に進まなければ、学校に遅刻してしまう。
神様はまだ何やら喚きながら、俺の頭の上で騒がしく飛び回っている。
さて、登校するにしても、この飛び回るハエをなんとかしなければならないのだが、教室まで連れていくと、五月蠅いうえに人目を引く。下手をすると、クラスメイトから“ハエ使い”なんてあだ名を付けられかねない。
しかし、これを解き放っては、またろくでもない乗り物をけしかけてきそうな予感しかしない。叩き潰すのも試してみたが、このハエはやたら頑丈で絶命させるには至らなかった。まあ、多少のダメージは入るようなのだが、叩く度にけたたましく悲鳴を上げられるので、あまり気分の良いものではない。
うーむ……。捕らえたは良いが、この後のことを考えていなかったぞ。さて、こいつをどうしたものか……?
そう頭を悩ませていると、ある親子連れが俺を指さして声をあげた。
「ねえ、ママー。あのお兄ちゃん、変なの持ってるよ」
「そうねえ。面白いもの持ってるわねえ」
「ママ、あれが欲しいよう。今度、あれ買ってよう」
どうやら、俺の持っているハエについて話をしているようだ。子供は五歳くらいだろうか。母親が手を引いて、これから近所の幼稚園へと向かうようである。これ幸いと、俺はその子供に話しかけた。
「お、子供。このハエが欲しいのか?」
「うん、それ、どこで買ったのー?」
子供は瞳を輝かせて俺の顔を見た。どうやら、この厄介な神様が、とてつもなく素敵なオモチャに見えるらしい。
どうせ持て余していたところだ。俺はそのタコ糸の先を子供の手に握らせた。
「やるよ。気が済んだら、ちゃんと息の根を止めてやるんだぞ?」
「わかったー」
子供は満面の笑みで、その小さな右手でしっかりと糸を握りしめた。その母親が申し訳なさそうに口を開いた。
「あらあら、すいませんね。お礼と言ってはなんですが、これをどうぞ」
そして、彼女は手元のカバンから一本のペットボトルを取り出した。南アルプスで採れたという触れ込みの、某有名ミネラルウォーターである。思わぬ返礼に驚きながらも、俺はそれを受け取った。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ」
互いにぺこぺこと頭を下げながら、俺と親子連れはその場から別れた。学校へと歩を進める俺の背中越しに、神様の叫びが耳に入ってきた。
「こら、待て! 子供に与えるとは! どういうつもりだあ!?」
次いで、子供の声が道路に響く。
「ママー、このハエさん、おしゃべりするよ?」」
「あら、やだ。気持ち悪い。幼稚園で先生に殺虫剤を借りて、シューしないとね」
「わかったー。よーちえんで、さっちゅーざいをシューするぅ」
そんな微笑ましい(?)やり取りを背中で聞きながら、俺はその先の角を曲がった。
「神様が、水になったなあ」
なんとも妙な感覚を覚えながら、俺はそのペットボトルを手の上でくるくると回転させてみた。中の液体が小さな泡を浮かせてゆらゆらと揺れた。
その時、ふと気付くと、目の前に若い男の姿があった。その男は、頭にタオルを巻き、薄汚れたTシャツを身に着けていた。傍らには大きなザックを置き、それを背負っていたであろう背中を電柱に預け、力なく地べたに座り込んでいる。
男は荒い息遣いで、ひたすらに「水を……、水を……」と呟いていた。さすがに只事では無いと感じて、俺はその男に声を掛けた。
「あのう、どうしました?」
「実は、徒歩で日本一周の旅の途中なのですが……、喉が渇いて一歩も歩けないのです」
そう言うと、男は恨めしそうに俺の持っているペットボトルをジッと見つめた。実に遠回しな要求ではあったが、こうなっては、まあ仕方ない。どうせタダで貰ったものだし、人助けになるのは良いことだ。「これをどうぞ」と一声添えて、俺は手に持っていたミネラルウォーターのボトルを彼に差し出した。
「ありがとうございます!」と言うや、彼は俺の手からひったくるようにボトルを奪い、すぐさま蓋を開けてそれを飲み干した。そして満足そうに笑うと、ザックの中をごそごそと漁りだした。
「お礼にこれをどうぞ。拾い物で恐縮なのですが、これしか持ってないもので」
「はあ」
男はザックから取り出したそれを、俺に差し出した。キラキラと輝くその物体を見て、俺は思わず呟いた。
「……ガラスの靴?」
それはハイヒールの靴だった。ただ、それは透き通った材質でできており、ずっしりと重い。童話に出てくるガラスの靴なのだろうか? だが、ガラスにしては随分と手触りが柔らかい印象を持った。そして、プラスチックにしてはやたらと重量感がある。不思議な感覚だった。
男は俺にそれを手渡すと、礼を言ってその場から立ち去った。
俺がその靴をしげしげと眺めていると、背後から呼びかける声がした。
「ああ! そこのお方!」
「はい?」
呼ばれて振り向くと、そこには青いドレスをまとった、金髪の美女が立っていた。彼女は俺の手にある靴を見て、その唇を細かく震わせた。
「それは、まさか、ガラスの靴では?」
「え、ええ、まあ……」
一体どこから現れたのだろうか。女は裸足だった。俺が彼女の問いを肯定すると、女はその表情をぱっと輝かせた。
「それを探してたのです! ちょっと目を離したすきに、猫が咥えて持っていってしまって……!」
「あ、ああ、そうなんですか」
両手で支えないと落としてしまいそうな程に重たい靴を、猫が咥えて持っていけるものだろうか? そんな疑問も抱いたが、まあ、とりあえずはこの流れに乗っかってみることにした。なんだかよく分からないが、何らかの普通ではない事態に巻き込まれているようだ。これも神様の仕業だろうか……?
俺はその靴を彼女に手渡すと、彼女は感動で打ち震えたように見えた。そしてその靴をぎゅっと抱きしめ、涙を流して礼の言葉を述べた。
「助かりました! これで舞踏会に行けます! お礼に、これをどうぞ!」
そして彼女は、どこから取り出したのだろうか、一頭の白馬を引いてきた。そして、その手綱を俺に手渡そうとした。
「え、ええ!? こんなのもらえませんけど!?」
「気持ちです。私からの、せめてもの気持ちとして」
そう言って、彼女はその手綱をぐいと俺に押し付けてきた。どうにも断りがたい、妙な迫力を感じて、俺は嫌々ながらもその手綱を受け取ってしまった。
すると、女はガラスの靴を履き、脱兎のごとくその場から居なくなってしまった。
「えーと? 神様が水になって、水がガラスの靴になって、ガラスの靴が馬になったのか……?」
怒涛の展開に頭が付いていかず、俺は空を見上げて、これまでの流れを反芻した。てゆうか、馬なんてどうすればいいのやら。こんなもの学校に連れて行ったら、100%先生に怒られてしまう。これならまだハエを連れている方がマシだったのでは……?
呆然としていると、白馬が首を振って「ぶるる」と喉を鳴らした。
すると、またも背後から俺を呼ぶ声がした。
「おお、そこの若者! それは馬か!? 馬だな!?」
今度は何だろうか。と、振り向くと、そこには一人の老婆が立っていた。腰を大きく曲げ、その上半身を細い杖で支えていた。黒いローブのようなものを身に着けていたこともあり、まるでお伽噺に出てくる魔女のような印象を受けた。
「馬以外に、何に見えますかね?」
そう俺が口にすると、老婆は「ひっひっひ」と笑った。出てきたタイミングといい、この出で立ちといい、そしてこのわざとらしいくらいの笑い方といい、どうにも怪しい。怪しすぎる。
だが、そんな俺の心中など察することなく、老婆は白馬をじろじろと見ながら言った。
「丁度良かった! こんな馬を探しておったのじゃ! わしに譲ってくれんかのう?」
「まあ、こんなの連れて登校できませんし、構いませんけども」
「良かった! 免許を返納してしまって、乗り物が無かったんじゃ!」
「はあ。それで、馬を……?」
「ペットショップに売ってなくてのぅ……」
「普通は売ってませんよ」
なんとも不自然極まりない展開だったが、ここはスルーすることに決めた。深入りすれば、きっとより面倒なことになるだろうと思ったからだ。
老婆は、その身体に見合わぬ身軽さで白馬に跨ると、そのまま手綱を取って華麗にそれを操ってみせた。
そして、路肩に停めた車の脇まで歩み寄ると、その車体を指さしてこう言った。
「お礼に、これをあげよう。ひっひっひ」
「ええっ……!? 車を!?」
馬が車になった。……それはまあ、良いのだが、……いや、冷静に考えてみるとそれで良い訳はないのだが、俺にはどうにも気になる点があった。
「日産のGT-Rじゃ。中古だが、よく走るぞ」
老婆が車種名を口にした。やっぱりそうだ、と思った。先ほど、俺を轢き殺そうと突っ走ってきた車である。やはり、この一連の流れには神様が絡んでいると見て間違いない。折角の申し出だが、ここは断ることにした。
「い、いえ、せっかくですけど、免許が無いもので」
「じゃあ、こっちをあげよう。美味しい美味しいリンゴじゃよぅ、うぇっへっへっへ」
そう言って、老婆は白馬の上からビニール袋を手渡してきた。中にはリンゴが五つ入っていた。
あまり気は進まなかったが、受け取らないと話が進まないのだろう。俺は仕方なくそれを受け取ると、老婆は白馬と共に、颯爽とその場から走り去った。去り際に、こんな言葉を残して。
「そのリンゴ、すぐ食べるのじゃ! いいな! すぐ食べるんじゃぞ!? 安心、安全なリンゴじゃから、疑うことなく、すぐに食べるのじゃあ!! いーひっひっひ!!」
* * *
「うーむ……」
一声呟き、腕を組んでそのリンゴを眺めた。
俺は今、1-Bの教室にいる。そして、自分の机の上に五つのリンゴを並べて、それと睨み合いをしていた。やたらと赤いそのリンゴは、窓の外から注ぐ陽の光を浴びて、つやつやと輝いていた。
なお、あれ以降、妙な連中とは一切出くわすことなく、また何事も起こることなく登校を果たすことができた。だが、その事実がまた、このリンゴの怪しさを際立たせている。勿論、口は一切付けていない。
「お、岩切。それ、リンゴか?」
隣の席に座っていた日高 カズキが話しかけてきた。
「ああ、なんか、変な婆さんに貰ったんだけどな……」
「一個くれよ」
そう言って、日高がリンゴの一つを手に取った。
「まあ、待て」と彼を制止し、俺は日高の手元からそれを取り上げた。そして彼に見えないように手元でプラチナ=フェザーを発動させ、その羽根でリンゴを半分に割った。
その外見とは相反し、リンゴの切り口はやたらと毒々しい黒に染まっていた。それを見た日高の眉間にしわが寄った。
そして、俺はそのリンゴの欠片を、教室の隅に置いてある水槽の中へ放り込んでみた。すると、水槽の水が瞬く間に黒く染まり、中に居た二匹のグッピーがぷかりと水面に浮かんだ。リンゴを投入してから、僅か二秒の出来事だった。
「うーむ。やはり毒か……」
哀れなグッピーは即死したようだ。俺は水槽に向かって合掌し、そして机の上のリンゴを全てゴミ箱へ放り込んだ。そういや、“わらしべ長者”ってどんなエンディングだったっけ? なんて思いながら。
されど異世界はそこに在り 阿山ナガレ @ayama70
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