第2話瘡蓋(カサブタ)

 11月に入った。

醸造家はキュベ(搾汁液)の海原を走る酵母の船の帆布をわずかに孕ませる非力な風である。刻々と変わるタンクの上面、酵母が息をしている。

綱渡りの綱から1歩も外すことを許されない。一寸の隙をも与えない。幾万の酵母たちそれぞれの動きを、何光年先の星を眺めるように想像する。ありったけの細胞を嗅覚に利用し感度を最大限にあげて、記憶と知識の引き出しの中を弄(まさぐ)る。

細菌が悪さをしないように1日2回のピジャージュ(櫂入れ)を繰り返す。

 

ワインづくりの全ては葡萄の出来にある。そのために今年も365日畑とワイン葡萄の木と向き合った。収穫から仕込み、瓶詰めまで当たり前のように家庭を犠牲にする。


夢にまでみた状況までたどり着いたはずだった。



「いてえっ・・・。」

膝が痛い。なんだろうこの痛み。今まで経験がない。

なんだろう?力が抜ける感じ。しびれる手前みたいな。


膝は重い。


何度もなんどもげんこつで膝の上、太ももあたりを叩く。

40を超えると体調が変わるぞって誰か言ってたな。


7年前…。

昔はこの誰もいない大きな空間に一人でジュースがワインに変わっていくところを眺めているのが好きだったはずだった。

ここでは、もう独立に半分心を削がれた。

今は、まだ到達できないその先を見据えてしまう閉塞感しか感じない。


鉄の重たい扉のノブが動き明治ワイナリーの代表取締役で醸造家の麻井が入って来た。

「キュベの状態はどうだ?」麻井は聞いた。

「・・・。」修二は無言である。

親父を怪訝がる態度そのものである。

「無理するなよ。」麻井はポケットから二、三飴玉を出すと修二に握らせ出て行った。

麻井はそのまま醸造所の脇にある事務所に入る。そこには斎藤がソファーで寝転んでいる。

「斎藤くん、後藤くん頼んだよ。」一言いうと出て行った。一人作業はとても危険な行為でもある。斎藤は目をつぶったまま左手を上げて返事をする。


修二が主任醸造家となってから

トップキュベの管理は誰にも手を出させなかった。

ノウハウを後輩や研修生に伝え、教えることもなかった。

修二はいわゆる昭和の職人気質なのかもしれない。向上していこうという熱意があるもののみ、弟子として勝手に育つものだと。少なくとも修二自身はそうだと思い込んでいた。しかるに後輩や研修生を育てるなんてしてこなかった。自分のナイフのような性格を認め、麻井が修二を育ててきた。そして温和でクレバーな斎藤阿太を常に修二のサポーターとして勤務させた。

バランスの中で修二が醸造に最大限集中できるよう麻井と斎藤は常に見てきた。

客観的に見ても修二が置かれる状況は最高の舞台である。しかし修二は辞めることを決断している。企業ではやはり葡萄の1粒から作り上げることはできない。『ワインづくりは葡萄づくり』である。修二にとってここでは全てにおいて自分が表現するワインの世界には程遠いのだ。

会社の意向で部下としてついた斎藤の技術は自分のそれと変わりないところまで来ている。大きなトラブルのない(気象変動の中で収穫した問題のない)葡萄であれば。

斎藤はむっくりとソファーから起き出すと修二に声をかけた。

「シュウさん、かえりましょ。」


…。


 赤ワインは年末までに瓶詰めできるように準備するが、場合によっては

ステンレスの醸造タンクに入れたままにして、香りと味わいがバランスよくなるまで管理する。場合によっては年代の違うキュベや違う品種のキュベをブレンドする。それが醸造家の個性となって、消費者はブランドをもてはやす。

「チッ。奥からのメールが溜まってら。」ゴトーは携帯を見た。

 学生時代の縁で恭子とは連れ合いになった。醸造学科を出るとすぐに明治ワイナリーの就職が決まり、卒業と同時に結婚した。数ヶ月たち子供ができたことをきっかけに学生時代から住んだアパートから恭子の実家に入った。

恭子の両親も役場勤めを終え勝沼で生食葡萄の棚栽培をしている。ともに生活することをいたく喜んでくれた。やがて子供も中学になる頃、ゴトーは勤め先を突然、やめると言い出した。品評会で入賞したこと。小川が独立後、業界で高い評価を得ていること。会社の方針の不満など。自分で作った葡萄でワインを作りたいと打ち明けた。

しかし、恭子はこう言った。「あなた、それは会社の中でできないこと?独立しないとできないことなの?これから梨沙に手もかかるのにどうして今?」「自分でワイナリーなんてできるわけないじゃない。」

もともと活動的な恭子、家庭安泰の一大事とあってはならぬと説き伏せるかのようにポロシャツの上腕を掴む。

ゴトーも女の話を穏やかに聞く性分ではない。

この一言を言うのに何年も考え考えて抜いてきた。家族のために今まで勤めてきたのだ。俺に落ち度はない。

「うるせー。このやろう。やると決めたんだよ。」


スイッチが入ったように梨沙が「キャーツ。お父さんとお母さんケンカはじめたよ!」と1階に住む恭子の両親のところに階段を駆け下りていった。

「どうしたどうした。」

お互いにシャツを掴みあっているところを見られてしまった。

「修二くん!うちの娘に何する!」

「うちの娘?・・・俺も家族じゃないのか。」

修二は、家族という塊から離れた瘡蓋(カサブタ)のような存在だったのかと心の表面を笹の葉でなぜられたような感覚に陥った。



 2、3日後、小川のワイナリーに相談に行った。

「修二よ、俺のカミさんもおんなじこと言った。俺はもう働きに行かないと宣言したんだよ。実は独立したいと思った時から、貯金をしたのさ。小銭。でも貯まるもんだ。飲み会もタバコ代もケチってさ。でも、貯まるもんだ。通帳見せたら黙った。」

「小川さん、なんでそれを教えといてくれなかったんだよ。」

「悪い。そのくらいやってると思ってた。」

「…。(沈黙)」

「修二、そうだ。何年か前、酵学社ってオーナーと話したな。精密機械会社のオーナーさんがもともと葡萄の畑を代々持っていて、醸造家を募集していた。

えーと。」というと、怪しげな焼き海苔の缶を引っ張り出した。

「えっ?」

「おかしい?俺名刺ってこんなか入れてんの」

2掴みめを15枚ほどめくると、それらしき名刺が出てきた。

「ほら、ここ。林さんって言ったか。俺にはその時自由に醸造して見ないか?って言っていた。そんなわけねーけど普通。」

「修二よ、駄目元で連絡してみろ。条件は1つ。若者を育てながらだ。アシスタントが1人か2人。」

「・・・。」


雲の隙間から光が差したかに思えた。

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