第一章_3



  ◇ ◇ ◇





 まぶたをあげたたんに、ごく至近きよにある大きなきよう色のそうぼうが飛び込んできた。

「良かった、晴明」

「………」

 晴明は、半眼になってくちびるを動かす。

 彼のりようほおの横に手をついてのぞき込んでいる少女が、げんそうにまゆをひそめた。

「え? なに?」

「……近い」

 目をすがめて低くうなると、少女はまばたきをしてかたをすくめた。

「心配してやったんじゃないの。感謝のひとつもしなさいよ」

 彼女が体を引くのを待って、晴明は身を起こした。

 とうだいの灯りがれている。だいだいいろの光が広がり、ほのおの動きに合わせてかげがゆらゆらとおどる。

 自分の室だ。たくさんの書物やからびつちようびようが並び、横たわっていたしとねかたわらには、きちんとたたまれた直衣のうしが置かれていた。

 朝、出仕するときよりいくぶんか片づいているのは、十二神将の誰かがやってくれたということだろうか。

「あ、そうそう」

 まくらに座っていた幼い少女が口を開いた。

「あんたが帰ってくる前に、ざつたちが追いかけっこして遊び回ってたのよ。あんまり好き勝手してたから、たまには役に立てって言ったら、この辺のものとか庭を片づけてえらそうにふんぞりかえってたわ」

「……そうか」

 晴明は、がくりと肩を落とした。苦労して従えた使えきより、あやかしである雑鬼のほうが役に立つというのはどういうことだ。

 何かがちがっている気がしてならない晴明である。

「一応ちゃんと見張ってたわよ? 大事なものだってあるだろうし。それに、おんみようやしきで妖が自由にしてるって、ちょっと考えものだと思うのよね。ほんとにあいつら、えんりよを知らないんだもの」

 うでを組んで、実に問題だ、と言わんばかりの顔をしている少女に、晴明は半眼を向けた。

 玄武や六合と同じ、十二神将のひとり、風将たいいんである。

 玄武よりさらに年下の、幼女のなりをしている。くせのあるくりいろの長いかみをふたつに分け、かざひもで両耳の上にっている。肩に比礼を、大きな一枚布をこしに巻き、彼女が風をあやつって空をけるとき、それらは大きくひるがえる。

 十二神将のふうていは、ろうにやくなんによ様々だ。男性の比率が高い。子供の形をしているのは、この太陰と玄武だけである。

 しかし、見てくれが子供であるだけで、神将であることに変わりはない。

 つかれたように息をついた晴明は、右手にかんを覚えて顔をしかめた。

 手のひらにみようなしびれがある。まずい。

はらいたまえ、清めたまえ…」

 つぶやいて、軽く左手で右の手のひらをはらい、そのままかしわを打つ。固くかわいた音が響き、空気をいたようだった。

 しびれの消えた右手を開閉させながら、晴明は太陰を見た。

「私はどうしてここにいるんだ」

「門のところでたおれたのよ。覚えてない?」

 晴明はかぶりる。鵺の声が聞こえたところまでは覚えているが、そのあとのおくがない。

「倒れた…?」

「そうよ」

 頷いて、太陰は視線を背後にすべらせた。彼女の視線を追った晴明は、屛風のかげかくすように置かれた大刀を認めた。

「気を失ってるのに、あんたはこれをはなさなかったんですって。ここまであんたを運んだのは六合よ」

 岦斎と玄武は、あの少年についているということだった。

「ほんとはもっと遠くに置いたほうがいいんだろうけど、これ以上離すとあんたがうめくのよ。晴明、これってなんなの?」

 太陰のこわに明らかな険がまじる。またやつかいごとを背負い込んだのかと、言外に責めるようなひびきがあった。

 晴明はけんにしわを寄せる。

 背負い込んだ覚えはない。向こうが勝手にやってきたのだし、手を貸してやるつもりもない。成り行きでかかわってしまったが、これ以上は願い下げである。

「見てのとおり大刀だ」

 手をのばし、手元によこすようにと態度で促す。

 太陰はげんそうに口をとがらせながら、屛風の陰から持ってきた大刀を晴明につき出した。

「取ってほしいならちゃんと口で言いなさいよね」

 言っても聞く耳を持たない神将の顔がのうをよぎり、いらちが胸の奥でざわついた。

「使役なら言われなくてもみ取れ」

 ぞんざいな物言いに、太陰はおう立ちになって晴明を見下ろす。

「わたしは礼節の話をしてるのよ。ひとにものをたのむならそれ相応のれいってもんがいるでしょうが。ほんとにもう、あんたの親ってば、どんなしつけをしたのかしら」

 ふいに、晴明の目がすっと冷たくなった。

「あいにく、ひとにほこれるような親ではなくてな。私に最低限の礼儀を教えたのは、両親ではなくしようだ」

「え…?」

 意表をつかれて息をめる太陰を見て、晴明はおのれの失態を察した。

 師匠とは、当代一の陰陽師とうたわれる賀茂忠行のことだ。

 半人半妖という生まれゆえか、晴明は同年代の子供たちよりはるかにそうめいで、冷めていた。

 ひとが胸の中でどのように思っているのか、何もしなくても察せられてしまうのだ。

 口で言っていることと、心で思っていることに、大きな差がある。顔は笑っているのに胸の内はどろどろとしたみにくい黒いものがあふれている。

 そんな人間ばかりだ。

 父のますが、晴明のそういう力をどのように思っていたのか。晴明は実際のところを知らない。

 不思議なことに、父の本心を覗けたことがないからだ。

 忠行も同様だった。しかし、忠行の場合はわからないのが道理なのだ。

 彼は相当の技量を持った陰陽師で、胸の内を覗かせないように隠す術を心得ていたのだから。

 太陰からわたされた大刀を確かめながら、晴明は軽くまゆをよせた。

 益材は、晴明の元服と同時にこの邸を出て、の地にいおりを結んだ。

 だいぶ顔を見ていない。

 なのに、とつぜんこんなふうに思い出したのは、目覚めるまでに見ていた夢のせいだ。

 夢に益材が出てきたことなど、ついぞなかったのだが。

 晴明は父をこいしがるほど子供ではないし、父をしたう気持ちもそれほどない。

 きらっているわけではない。嫌われていたわけでもないと思う。

 ただ、離れてずいぶんつから、どのように接していたのかを忘れてしまった。いつしよに暮らしていたころがどうだったかも、実はよく覚えていない。

 毎日を過ごすことがいそがしく、昔のことはどんどんうすらいでいる。

 覚えていないくらいだから、あまり特筆するようなことはなかったのだろう。

 一方母は、晴明が物心つく前に姿を消したので、さらに印象がとぼしい。

 おぼろな記憶はあるような気がするが、果たしてそれが本当に記憶なのかどうか。自分が勝手に作ったもうそうを、記憶だと思い込んでいるだけかもしれないのだ。

 両親というのは、血を分けているがつながりのはくな存在。

 晴明にとって、親とはそういうものだった。

「ね…、晴明、あんたの親、て……」

 太陰がおずおずと口を開く。

 ほぼ同時に、晴明の目が険しさをはらんだ。

「これは……」

 術でなしたれいさやふるえ、あちこちにれつが生じている。つかに巻いたれいはからからに乾き、引き攣ってそこかしこが裂けている。

 柄は刀身からのびたき出しのなかごで、あらなわが無造作に巻かれている。その荒縄も、音を立てながらじよじよに千切れていく。

 霊符の裂け目から、あのへびたちが放っていたのと同じようがしたたり落ちてきた。れているはだがぴりぴりと痛み、じわりとしびれが広がっていく。

 危険を感じた晴明が大刀を投げ捨てるより、霊気の鞘がくだけておびただしい量の妖気がほとばしるほうが早かった。

 黒い妖気が室内をくし、視界をさえぎる。

「晴明!」

 さけぶ太陰の姿もあっという間に妖気におおわれて見えなくなった。

 晴明はひとえそでで口を押さえながら立ち上がる。

 きあがる妖気で体が押し飛ばされそうだった。

 やみの中で半眼になった晴明は、大刀から噴き出す妖気の中から糸のように細く長いものが、大量にしたたり落ちるのを見た。

 それらはぼとぼとと音を立てて落ちると、四方八方にい出していく。

 さらに気づけば、うねうねと刀身を這ってきて、晴明の腕にからみついてきた。

 よく見ればそれは、糸のように細い、ちりのような大きさのうろこに全身をびっしりと覆われた蛇だった。

 刀身からうでに伝ってきた蛇が、ずるりとの中にしんにゆうしてくる。皮膚と肉の間をうごめかんしよくが広がり、背筋を冷たいものが這い上がっていく。

 晴明は大刀を振り捨てようとしたが、どうしたわけか離れない。見れば、無数の糸蛇が手に巻きついて自由がかなくなっていた。

「くそ…っ」

 晴明は舌打ちした。のうみつな妖気がどこまでも際限なく広がっていく。

 自分の室だったはずなのに、妖気の満ちたそこは、明らかに別の場に変化していた。

 冷たい風がほおを打つ。く息が白くなっている。みるみるうちに体熱がいんうばわれていく。しんまでこごえて、震えが這い上がってきた。

「太陰、どこだ!」

 妖気をどうにかしなければ、霊力が根こそぎ奪われる。

 吸い込んだ妖気が、肺の中で一気に冷たくなった。きりきりと痛む胸を押さえて、晴明はぐっと目を閉じる。

 しゅうしゅうという無数の蛇が立てる音が、波打つように広がっていく。

 その奥から、きいきいとみみざわりな、蛇のたてるものとはちがう音がかすかに響いてきた。

 そして、低く地を這うようなうなり。

 耳をそばだてた晴明は、まぶたを閉じたまま、その音がするほうをた。

 黒い妖気の先、暗く重い空気のよどむ場所に、無数の蛇と、さると、まみか。

 それらを従えて、さらに奥にいるもの。あれはなんだ。

 瞼を開けて目をらした晴明は、いくつもの鳴き声の奥に、あの声をいた。

 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。

 晴明はどうもくし、低く唸った。

ぬえ…!?」

 黒く重い妖気の奥に、くまよりも大きなたいをした、四足のけものがいる。

 妖気をまとい、妖気を放ち、妖気をあやつり蛇やけだものを従えるばけもの。

 とらつぐみと似た鳴き声の、それは得体のしれないばけものだと聞いていた。

 だれも見たことがない。その姿を知る者はいない。だから得体がしれない。

 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。

 虎鶫の声を発する、あれが鵺なのか。

 晴明は、そのばけものの周りに、何かが蠢いているのを感じた。蛇でもない、猿でも狸でもない。蠢きながらうめいている、たくさんのかげ

 妖気をまとった鵺が、わずかに身じろいだ。たんに、かすかな悲鳴がけだものたちの鳴き声にまれて消える。

 晴明はがくぜんと立ちすくんだ。

 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。

 鵺が鳴く。けだものたちが鳴く。それに吞まれた、いま聞こえたあれは。

 ひとのうめき声ではないのか。

 信じられない思いで鵺をぎようし、晴明は気づいた。

 まっすぐに晴明にえられた目が、ついと細められた。───わらっている。

 妖気がさらに重く垂れこめ、晴明を吞み込もうとする。

 だらりと下がった晴明の右手は大刀をつかんだまま。皮膚下にもぐりこんだ糸蛇は腕からかいなを這い上がってかたに達しようとしている。単の下で肌がいびつに波打ち、おぞましい感覚がじわじわと広がっていく。

 晴明の顔から、とうとつに表情が消えた。

 左手がゆらりと動いて、腕から肉にもぐりこんだ糸蛇の群れを、無造作に摑んだ。

「……この術は」

 くちびるからこぼれる声は、いつさいの感情を消している。

きようあくだんきやくし、しようふつじよす」

 左手に力がこもる。みぎかたの奥、首の下にある息の根と呼ばれるしよにまで届こうとしていた糸蛇を、ずるりと引きく。

「オンアビラウンキャン、シャラクタン」

 引きずり出した糸蛇の束をかかげ、にぎつぶす。三寸にも満たない長さに千切れてぼとぼとと落ちていき、粉々になって消えていく。

「ナウマクサンマンダ、バサラダン」

 左手で刀印を組み口元に当て、右手に持った大刀を目の高さに掲げた。

「センダマカロシャダ、ソワタヤウン、タラタカン、マン」

 大刀がぶるりと震えた。噴き出していた妖気が、おそおののいたようにぴたりと止まる。

 蛇とけだものたちが殺気を剝きだしに唸りをあげた。その奥から鵺が鳴く。

 晴明はそのとき、物悲しい声とともに、えんに満ちたうめきを聴いた。

 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。



 ──がさぬぞ。逃がさぬぞ。逃がさぬぞ。逃がさぬぞ



 鵺の目が不気味に光る。それが合図だったかのように、鵺に従うけだものたちが、いつせいおそいかかってきた。

「───オン!」

 晴明を中心に、金色のぼうせいき上がってせんこうを放つ。

 飛びかかってきたけだものたちは、その光にかれて叫ぶ間もなく砕けていく。

 霊力のほんりゆうが黒い妖気を切りいて押し流し、鵺とその周りに蠢く者たちが遠ざかって消えた。

 なんとか切り抜けた。晴明はそっと息をつく。

 物悲しい声がだまする。それは徐々に遠のいていく。

 それにまぎれるように、かすかにひびいた悲痛な声があった。

 ──こんなことに、なるなんて……

 その声に、晴明は覚えがあった。夢で聞いた声だ。

 目を閉じてしばらく耳をませてみたが、もう何も聞こえない。

 あきらめておもむろに目を見開くと、そこは自室だった。無事に帰ってこられたようだ。

 足元に太陰がうずくまっている。ぴくりとも動かない太陰のおもちは、紙のように白かった。

「太陰! おい、しっかりしろ!」

 かたひざをついてり動かす。呼吸はある。だが、反応がまったくない。肌が氷のように冷たい。陰気にあてられたのだ。

「こら! 十二神将がそんなことでどうする!」

 さらに乱暴に揺り動かすと、太陰はようやく、かすかにうめいた。

 真っ白になった瞼が震え、きようひとみのぞく。

 しようてんの合っていない瞳が彷徨さまよい、晴明で留まった。

「…せ…め……」

 太陰はのろのろと身を起こした。うなだれてあらい息をつく。

「……ぬかった…っ…!」

 みしながらうめいた太陰は、こぶしゆかたたきつけそうになるのを、なんとかこらえた。

 不意をつかれたとはいえ、ようをもろに喰らってたおれるとは、なんという為体ていたらく

「なんなのよ…いまのは…っ」

 晴明が手にしている大刀を太陰がぎっとにらんだとき、あの物悲しい鳴き声が響いた。

 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。

 いやにはっきりと聞こえるのは、室をぐるりと囲むすのに出る妻戸が外れているからだった。

 外気が入ってくる。妖気のふんりゆうえ切れずこわれたのか。

 ろうにつながる妻戸も大きく開いている。それを見て、晴明ははっと目をみはった。

「まずい…」

 この室にも廊にも、妖気のざんただよっている。き出した妖気は果たしてどこまで広がったのか。

 動けない太陰をその場に残し、晴明は室を飛び出した。

 岦斎のことだ。晴明のもとで異変が生じたことを察知して、何かしらの対処をしているに決まっている。

 軽口を叩くことが多く、真面目まじめにも見える態度をとることがあっても、彼は晴明同様賀茂忠行ので、おんみようりようにおいてその実力は上位に入るのだ。

 とてもうつとうしくてめんどうな男だが、岦斎にはじゆうぶんな実力と知識がある。

 この上もなく鬱陶しくて面倒でやつかいな男だが、その点だけは仕方なく認めている晴明だ。

 みなみとうの中央にある室に、岦斎と少年はいた。玄武の姿はない。しかし、神気は感じる。おんぎようしているのだ。

 晴明の姿を見た岦斎が、ほっとしたように肩の力を抜いたのがわかった。

「良かった、無事だったか晴明」

 まあなと応じる晴明のかたわらに、十二神将玄武がけんげんする。

「晴明、何があったのだ」

 彼の室からとつじよとして妖気が噴き出し、安倍てい全体を吞みこんだのだという。

「この室にも妖気が満ち満ち、息ができなくなったのだ」

 とつに玄武は岦斎と少年を包む結界を織りなした。

 それからこの世界と重なって存在している異界にもどり、どうほうたちに助けをうた。

 だが、あとからあとから噴き出してくる妖気があまりにも強すぎて、人界に戻ろうとしてもはじかれてしまい、どうすることもできずにいたのだった。

 彼が人界に戻って来られたのは、晴明の術があの妖気をはらい飛ばしたからだ。

 しかし、晴明の術は安倍邸から妖気を飛ばしただけで、妖気そのものは周辺一帯に飛び散ったまま残っている。

「このままではあれが別のあやかしたちを呼ぶぞ、どうするのだ晴明」

 責める口調の玄武に、晴明は据わった目で命じた。

「ならば、十二神将玄武。お前が妖気を消してこい。妖があれに呼ばれる前に」

「我ひとりでは時間がかかる」

「だったらだれかに手伝わせろ」

「その誰かをお前が決めろと言っているのだ」

 こしに両手を当てて半眼になる玄武に、晴明はいらちのまじった息をき出す。

「……六合、聞こえるか」

 返事はないが、神気が彼の傍らに降り立った。もくな神将は異を唱えることもなく、玄武に協力してくれるようだ。

 もくぜんと顕現した六合を見上げて、玄武は口をへの字に曲げる。

「晴明よ。あらがわずに従う者ばかりを選んでいると、抗う者はますますあつかいづらくなるぞ。抗う者には抗うだけの理由があるのだ。お前はそれを正しくあくし、心持ちを改めなければならない。我としても、同胞が抗う姿を見るのはいささか心がしずむ。扱いづらく難しい者がいるのは確かだが、どのような性情の者であっても、我にとってはみな大事な同胞だ」

 かんだかい声が重々しくもとうとうと述べる。

 扱いづらく難しい者たちの顔が複数のうをよぎり、晴明はいつしゆん遠い目をした。

「……覚えておこう」

 晴明のほおわずかに引き攣ったのを、岦斎はのがさなかった。

 が、それをわざわざ口にすれば、必ずや晴明が自分に苛立ちをぶつけてくるのをわかっているので、彼は別の話題を投じた。

「さっき、この子供がうわごとのように言っていたんだが」

「なに?」

 いぶかる晴明に、岦斎は少年を見つめながら言った。

ぬえが追ってくる、恐ろしい、と……」

 ふつりとちんもくが落ちる。

 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。

 まるで、呼応するように。鵺の声が、木霊した。

「…………」

 なんとはなしに、全員の視線が少年に注がれる。

 晴明は、この少年の顔を初めてまともに見ることに気づいた。

 首の後ろでくくったかみは、背にようやく届く程度に長い。こけて肉の落ちた頰が痛々しい。玄武よりとしかさに見える。十歳、いや、もう少し上だろうか。かけの上に出た両手はあちこちに火傷やけどあとが認められる。それ以外にもいくつかの傷があり、右手のたなうらと指の腹がずいぶんひどくただれていた。

 晴明は、ずっとつかんだままの大刀をいちべつした。

 先ほどの術で妖気をはらった際に、この大刀もじようされたようだ。

 れいあらなわも千切れ落ちたき出しのつかから伝わってくるのは、とても静かで冷たいかんしよく。そして、脈打つような重い波動だった。

 ふいに、少年が身じろいだ。

「……ち…う……」

 顔をゆがめて、うわごとを口にする。苦しげに、つらそうに、顔をくしゃくしゃにして、もがくようにりよううでが彷徨う。

 閉じられたまぶたから、なみだがぽろぽろとこぼれた。

「……こ…な……に………ち…ち……う………え……」

 しゆんかん、晴明の背をぞわりとした感覚がけ下りた。しゆんに身をひるがえす。

 それを感じたのは晴明だけではなかったようだ。少年を見つめていた岦斎が弾かれたように腰を浮かせ、晴明とともに簀子に飛び出した。

 簀子に出た彼らは、しきの北東にしげる森の上に、黒い雲のようなかたまりを見た。

 重く垂れこめる黒い雲の中から、声がする。

 ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。

 黒雲をまとったそれは、身をよじるようにして向きを変え、やみの奥にとけていった。

 そして、ずっとつづいていた鵺の声が、ふつりとやんだ。

 せいじやくが降りてきた。

 そこかしこに漂っていた妖気が、いつの間にか消えている。あの黒雲がすべてを連れて行ったかのようだった。

 そうして、夜の気配が音もなく変わったことに、晴明は気づいた。

 まだ暗闇が満ちているが、世界は確かに夜から朝に変わりはじめている。

 どうやら、思っていた以上に時が流れていたようだ。それを自覚するとともに、すさまじいろうが全身にのしかかってきた。

 こうらんに手をついて深々と息をつく。

 となりの岦斎が、何とも言えない顔で晴明を見ている。

 玄武と六合は思った。あの顔は、ねぎらうべきか、はげますべきか、計りかねているのだ。

 考えた末に何かを決めたらしい岦斎が口を開きかけた、ときだった。

「──────……っ!」

 背後から、声にならない悲鳴があがった。

 り返った晴明たちは、目を見開き真っ青になってふるえている少年が、小さくうめくのを確かに聞いた。

「……ぬえ…が…っ」

 引き攣った声が、子供のくちびるからもれ出す。

「……おそろ…しい……ぬえが…ないて……」

 少年の目から涙がこぼれる。しようてんの合わない目が彷徨さまよって、うわごとめいたうめきをり返す。

 晴明は思った。

 おそらく、あんな夢を見たのは、この少年が原因だ。

 それにしても、父の夢など、なぜ。

 手にしたままの大刀を見やる。

 ようを帯びた大刀を、なぜこの少年は持っていたのか。

 あれほどの妖気を放っていたのに、どうして無事でいられたのか。

 しんなことだらけだ。この子供とかかわるべきではなかったと、本能が告げている。

 しかしおそらく、もうおそい。自分は救いを求める声を、いてしまった。

 しばらくして少年は、のろのろと首をめぐらせて、すのに立つ晴明と岦斎に気づいた。

「………あべの…せいめい……」

 晴明は沈黙したままだ。横目でそれを見た岦斎が、代わりにしっかりとうなずいてやる。

 少年はほっとしたように顔を歪めて、必死につづけた。

「……たす…けて……」

 小さなそのうつたえに、夜明けが近いことを告げる鳥の声が重なった。





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