第一章_3
◇ ◇ ◇
「良かった、晴明」
「………」
晴明は、半眼になって
彼の
「え? なに?」
「……近い」
目をすがめて低く
「心配してやったんじゃないの。感謝のひとつもしなさいよ」
彼女が体を引くのを待って、晴明は身を起こした。
自分の室だ。たくさんの書物や
朝、出仕するときより
「あ、そうそう」
「あんたが帰ってくる前に、
「……そうか」
晴明は、がくりと肩を落とした。苦労して従えた
何かが
「一応ちゃんと見張ってたわよ? 大事なものだってあるだろうし。それに、
玄武や六合と同じ、十二神将のひとり、風将
玄武よりさらに年下の、幼女の
十二神将の
しかし、見てくれが子供であるだけで、神将であることに変わりはない。
手のひらに
「
しびれの消えた右手を開閉させながら、晴明は太陰を見た。
「私はどうしてここにいるんだ」
「門のところで
晴明は
「倒れた…?」
「そうよ」
頷いて、太陰は視線を背後に
「気を失ってるのに、あんたはこれを
岦斎と玄武は、あの少年についているということだった。
「ほんとはもっと遠くに置いたほうがいいんだろうけど、これ以上離すとあんたがうめくのよ。晴明、これってなんなの?」
太陰の
晴明は
背負い込んだ覚えはない。向こうが勝手にやってきたのだし、手を貸してやるつもりもない。成り行きで
「見てのとおり大刀だ」
手をのばし、手元によこすようにと態度で促す。
太陰は
「取ってほしいならちゃんと口で言いなさいよね」
言っても聞く耳を持たない神将の顔が
「使役なら言われなくても
ぞんざいな物言いに、太陰は
「わたしは礼節の話をしてるのよ。ひとにものを
ふいに、晴明の目がすっと冷たくなった。
「あいにく、ひとに
「え…?」
意表をつかれて息を
師匠とは、当代一の陰陽師と
半人半妖という生まれゆえか、晴明は同年代の子供たちよりはるかに
ひとが胸の中でどのように思っているのか、何もしなくても察せられてしまうのだ。
口で言っていることと、心で思っていることに、大きな差がある。顔は笑っているのに胸の内はどろどろとした
そんな人間ばかりだ。
父の
不思議なことに、父の本心を覗けたことがないからだ。
忠行も同様だった。しかし、忠行の場合はわからないのが道理なのだ。
彼は相当の技量を持った陰陽師で、胸の内を覗かせないように隠す術を心得ていたのだから。
太陰から
益材は、晴明の元服と同時にこの邸を出て、
だいぶ顔を見ていない。
なのに、
夢に益材が出てきたことなど、ついぞなかったのだが。
晴明は父を
ただ、離れてずいぶん
毎日を過ごすことが
覚えていないくらいだから、あまり特筆するようなことはなかったのだろう。
一方母は、晴明が物心つく前に姿を消したので、さらに印象がとぼしい。
両親というのは、血を分けているがつながりの
晴明にとって、親とはそういうものだった。
「ね…、晴明、あんたの親、て……」
太陰がおずおずと口を開く。
ほぼ同時に、晴明の目が険しさをはらんだ。
「これは……」
術でなした
柄は刀身からのびた
霊符の裂け目から、あの
危険を感じた晴明が大刀を投げ捨てるより、霊気の鞘が
黒い妖気が室内を
「晴明!」
晴明は
それらはぼとぼとと音を立てて落ちると、四方八方に
さらに気づけば、うねうねと刀身を這ってきて、晴明の腕にからみついてきた。
よく見ればそれは、糸のように細い、
刀身から
晴明は大刀を振り捨てようとしたが、どうしたわけか離れない。見れば、無数の糸蛇が手に巻きついて自由が
「くそ…っ」
晴明は舌打ちした。
自分の室だったはずなのに、妖気の満ちたそこは、明らかに別の場に変化していた。
冷たい風が
「太陰、どこだ!」
妖気をどうにかしなければ、霊力が根こそぎ奪われる。
吸い込んだ妖気が、肺の中で一気に冷たくなった。きりきりと痛む胸を押さえて、晴明はぐっと目を閉じる。
しゅうしゅうという無数の蛇が立てる音が、波打つように広がっていく。
その奥から、きいきいと
そして、低く地を這うような
耳をそばだてた晴明は、
黒い妖気の先、暗く重い空気の
それらを従えて、さらに奥にいるもの。あれはなんだ。
瞼を開けて目を
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
晴明は
「
黒く重い妖気の奥に、
妖気をまとい、妖気を放ち、妖気を
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
虎鶫の声を発する、あれが鵺なのか。
晴明は、そのばけものの周りに、何かが蠢いているのを感じた。蛇でもない、猿でも狸でもない。蠢きながらうめいている、たくさんの
妖気をまとった鵺が、
晴明は
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
鵺が鳴く。けだものたちが鳴く。それに吞まれた、いま聞こえたあれは。
ひとのうめき声ではないのか。
信じられない思いで鵺を
まっすぐに晴明に
妖気がさらに重く垂れこめ、晴明を吞み込もうとする。
だらりと下がった晴明の右手は大刀を
晴明の顔から、
左手がゆらりと動いて、腕から肉にもぐりこんだ糸蛇の群れを、無造作に摑んだ。
「……この術は」
「
左手に力がこもる。
「オンアビラウンキャン、シャラクタン」
引きずり出した糸蛇の束を
「ナウマクサンマンダ、バサラダン」
左手で刀印を組み口元に当て、右手に持った大刀を目の高さに掲げた。
「センダマカロシャダ、ソワタヤウン、タラタカン、マン」
大刀がぶるりと震えた。噴き出していた妖気が、
蛇とけだものたちが殺気を剝きだしに唸りをあげた。その奥から鵺が鳴く。
晴明はそのとき、物悲しい声とともに、
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
──
鵺の目が不気味に光る。それが合図だったかのように、鵺に従うけだものたちが、
「───オン!」
晴明を中心に、金色の
飛びかかってきたけだものたちは、その光に
霊力の
なんとか切り抜けた。晴明はそっと息をつく。
物悲しい声が
それに
──こんなことに、なるなんて……
その声に、晴明は覚えがあった。夢で聞いた声だ。
目を閉じてしばらく耳を
足元に太陰がうずくまっている。ぴくりとも動かない太陰の
「太陰! おい、しっかりしろ!」
「こら! 十二神将がそんなことでどうする!」
さらに乱暴に揺り動かすと、太陰はようやく、かすかにうめいた。
真っ白になった瞼が震え、
「…せ…め……」
太陰はのろのろと身を起こした。うなだれて
「……ぬかった…っ…!」
不意をつかれたとはいえ、
「なんなのよ…いまのは…っ」
晴明が手にしている大刀を太陰がぎっと
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
いやにはっきりと聞こえるのは、室をぐるりと囲む
外気が入ってくる。妖気の
「まずい…」
この室にも廊にも、妖気の
動けない太陰をその場に残し、晴明は室を飛び出した。
岦斎のことだ。晴明の
軽口を叩くことが多く、
とても
この上もなく鬱陶しくて面倒で
晴明の姿を見た岦斎が、ほっとしたように肩の力を抜いたのがわかった。
「良かった、無事だったか晴明」
まあなと応じる晴明の
「晴明、何があったのだ」
彼の室から
「この室にも妖気が満ち満ち、息ができなくなったのだ」
それからこの世界と重なって存在している異界に
だが、あとからあとから噴き出してくる妖気があまりにも強すぎて、人界に戻ろうとしても
彼が人界に戻って来られたのは、晴明の術があの妖気を
しかし、晴明の術は安倍邸から妖気を飛ばしただけで、妖気そのものは周辺一帯に飛び散ったまま残っている。
「このままではあれが別の
責める口調の玄武に、晴明は据わった目で命じた。
「ならば、十二神将玄武。お前が妖気を消してこい。妖があれに呼ばれる前に」
「我ひとりでは時間がかかる」
「だったら
「その誰かをお前が決めろと言っているのだ」
「……六合、聞こえるか」
返事はないが、神気が彼の傍らに降り立った。
「晴明よ。
扱いづらく難しい者たちの顔が複数
「……覚えておこう」
晴明の
が、それをわざわざ口にすれば、必ずや晴明が自分に苛立ちをぶつけてくるのをわかっているので、彼は別の話題を投じた。
「さっき、この子供がうわごとのように言っていたんだが」
「なに?」
「
ふつりと
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
まるで、呼応するように。鵺の声が、木霊した。
「…………」
なんとはなしに、全員の視線が少年に注がれる。
晴明は、この少年の顔を初めてまともに見ることに気づいた。
首の後ろで
晴明は、ずっと
先ほどの術で妖気を
ふいに、少年が身じろいだ。
「……ち…う……」
顔を
閉じられた
「……こ…な……に………ち…ち……う………え……」
それを感じたのは晴明だけではなかったようだ。少年を見つめていた岦斎が弾かれたように腰を浮かせ、晴明とともに簀子に飛び出した。
簀子に出た彼らは、
重く垂れこめる黒い雲の中から、声がする。
ひょう。ひょう。ひょう。ひょう。
黒雲をまとったそれは、身をよじるようにして向きを変え、
そして、ずっとつづいていた鵺の声が、ふつりとやんだ。
そこかしこに漂っていた妖気が、いつの間にか消えている。あの黒雲がすべてを連れて行ったかのようだった。
そうして、夜の気配が音もなく変わったことに、晴明は気づいた。
まだ暗闇が満ちているが、世界は確かに夜から朝に変わりはじめている。
どうやら、思っていた以上に時が流れていたようだ。それを自覚するとともに、
玄武と六合は思った。あの顔は、ねぎらうべきか、
考えた末に何かを決めたらしい岦斎が口を開きかけた、ときだった。
「──────……っ!」
背後から、声にならない悲鳴があがった。
「……ぬえ…が…っ」
引き攣った声が、子供の
「……おそろ…しい……ぬえが…ないて……」
少年の目から涙がこぼれる。
晴明は思った。
おそらく、あんな夢を見たのは、この少年が原因だ。
それにしても、父の夢など、なぜ。
手にしたままの大刀を見やる。
あれほどの妖気を放っていたのに、どうして無事でいられたのか。
しかしおそらく、もう
しばらくして少年は、のろのろと首をめぐらせて、
「………あべの…せいめい……」
晴明は沈黙したままだ。横目でそれを見た岦斎が、代わりにしっかりと
少年はほっとしたように顔を歪めて、必死につづけた。
「……たす…けて……」
小さなその
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